桓玄5  王恭敗死

○晋書


安帝が即位すると、桓玄には督交廣二州とくこうこうにしゅう建威將軍けんいしょうぐん平越中郎將へいえつちゅうろうじょう廣州刺史こうしゅうしし假節かせつの官位が与えられた。桓玄は官位こそ受け取ったものの任地には出向かなかった。


同年、王恭おうきょうはふたたび庾楷ゆかいとともに兵を興し、王愉おうゆ司馬尚之しょうしら兄弟を討伐すべく立ち上がった。桓玄や殷仲堪いんちゅうかんは王恭の決起が必ず成功すると考えたためすぐさまその決起に呼応した。殷仲堪は桓玄に五千人の兵を与え、楊佺期ようせんきとともに前鋒軍として向かわせた。桓玄らの軍が湓口ほんこうに至ると、王愉は臨川りんせに逃れようとした。そこで桓玄は配下将を派遣し、捕らえた。


桓玄と楊佺期が石頭せきとうに至ると、殷仲堪もまた蕪湖ぶこにまで出向く。しかしここで王恭の將であった劉牢之りゅうろうしが朝廷軍に寝返る。王恭が死亡すると庾楷も敗れ、桓玄のもとに転がり込んできた。


一方では桓玄を江州刺史こうしゅうししに任じるという詔勅が下り、また殷仲堪らにもそれぞれ転属の詔勅が下る。このため桓玄らは水軍の舳先を転じて西方に帰還。尋陽じんように駐屯し、改めて同盟を組む旨誓い合った。このとき桓玄が盟主に選ばれた。ここではじめて桓玄のもとに実質的な戦力が転がり込む。


桓玄らはすぐさま王恭の罪を解くよう上申。その上で司馬尚之や劉牢之を討つべし、と訴えた。朝廷は桓玄らの勢力を大いに警戒し、桓修かんしゅうを解任し、また殷仲堪らと和解すべく動き始めた。



○魏書


 翌年、司馬德宗は桓玄を使持節しじせつ督交廣とくこうこう二州諸軍事にしゅうしょぐんじ建威將軍けんいしょうぐん平越中郎將へいえつちゅうろうじょう廣州刺史こうしゅうししとした。

 後に王恭がふたたび庾楷と共に決起、王愉、司馬尚之兄弟を討つと表明した。桓玄と楊佺期、殷仲堪らもまた王恭の動きに同調した。桓玄らは石頭に駐屯。このとき司馬元顯の一軍は石頭を守るため船を秦淮河しんわいが河口に並べていた。司馬道子もまた軍を動かし、中堂ちゅうどうに駐屯しようとしていたのだが、そこに桓玄軍の突如の襲来を受け、軍中が混乱に陥った。人や馬も多くの者が長江に赴き、しばしして落ち着いた。この事態を見届けて桓玄らは建業の守りが危ういのを見て取った。しかもいっぽうでは王恭の敗死の報が飛び込んでくる。桓玄らはこうした事態に恐れおののき、軍を引き返させ、蔡洲さいしゅうに駐屯した。王恭の司馬である劉牢之はは北府軍ほくふぐんを率い新亭しんていに駐屯した。こうした事態を受け、司馬德宗は桓脩を荊州けいしゅう刺史に任じ、殷仲堪を廣州刺史とし、桓玄を江州刺史とし、楊佺期を雍州刺史とし、郗恢ちかい尚書しょうしょとした。

 殷仲堪もまた軍を旋回させ撤収、人を遣わせ、桓玄らに言う。

「もしそなたらが撤収しないのであれば、大軍が江陵に襲いかかり、一万人あまりが殺されるものと思え」

 殷仲堪の配下将である劉系りゅうけいはこれより以前に兵二千を預かり楊佺期の配下として派遣されていた。この劉系がっ兵を率いて撤収したため、桓玄らはこのまま駐屯し続ければ殷仲堪よりの攻撃を受けるのではないかと恐れ、大慌てで兵を率い撤収した。庾楷もまた兵を率い撤収した。桓玄は輕船を浮かべて殷仲堪のもとに駆けつけ、尋陽にて集結。ここで桓玄を盟主とする誓いが立てられ、夏口かこうに駐屯した。

 司馬德宗は桓玄を都督ととく荊州四郡けいしゅうよんぐんとし、桓玄の兄の西昌公せいしょうこう桓偉かんい輔國將軍ほこくしょうぐん南蠻校尉なんばんこういとし、桓玄ら兄弟を寵愛することにより荊州雍州の勢力を削減しようと目論んだ。




隆安初,詔以玄督交廣二州、建威將軍、平越中郎將、廣州刺史、假節,玄受命不行。其年,王恭又與庾楷起兵討江州刺史王愉及譙王尚之兄弟。玄、仲堪謂恭事必克捷,一時回應。仲堪給玄五千人,與楊佺期俱為前鋒。軍至湓口,王愉奔於臨川,玄遣偏將軍追獲之。玄、佺期至石頭,仲堪至蕪湖。恭將劉牢之背恭歸順。恭既死,庾楷戰敗,奔于玄軍。既而詔以玄為江州,仲堪等仲皆被換易,乃各回舟西還,屯于尋陽,共相結約,推玄為盟主。玄始得志,乃連名上疏申理王恭,求誅尚之、牢之等。朝廷深憚之,乃免桓脩、復仲堪以相和解。

(晋書99-5)


天興初,德宗以玄為使持節、督交廣二州諸軍事、建威將軍、平越中郎將、廣州刺史。

後王恭復與德宗豫州刺史庾楷共起兵,以討其江州刺史王愉、司馬尚之兄弟。玄及龍驤將軍揚佺期、荊州刺史殷仲堪等率軍應恭。玄等造於石頭。於時德宗征虜將軍司馬元顯一軍仍守石頭,列舟艦斷淮口。道子出軍,將屯中堂,忽有馬驚,軍中擾亂,人馬赴江者甚眾,良久乃定。玄等不知建業危弱,且王恭尋敗,玄甚惶懼,乃回軍于蔡洲。王恭司馬劉牢之率北府軍來次新亭。於是德宗以桓脩為荊州,仲堪為廣州,玄為江州,佺期為雍州,刺史郗恢為尚書。仲堪回師南旋,乃使人徇于玄等軍曰:「若不各散歸,大軍至江陵,當悉戮餘口。」仲堪偏將劉系先領兵二千隸于佺期,輒率眾而歸,玄等大懼,乃狼狽而走。庾楷亦棄眾奔于南軍。玄並趣輕舟追仲堪,至尋陽,而推玄為盟主,鎮於夏口。德宗加玄都督荊州四郡,以玄兄西昌公偉為輔國將軍、南蠻校尉。寵玄兄弟,欲以侵削荊雍。

(魏書97-4)




殷仲堪伝とかの「東晋人クソ」的エピソードも入念に拾い上げる。大切ですね。しかし司馬徳宗伝との混線で頭がよくわからんくなってきた。

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