檀憑之  檀氏一門の棟梁

檀憑之だんひょうし、字は慶子けいし高平こうへいの人だ。幼い頃より大志を抱き、大志に見合う実力を備えた。檀氏一門をよく束ね統率し、人々より讃えられていた。從兄の子である檀韶ら兄弟五人はみな幼かったため檀憑之に撫育され、彼らもまた檀憑之を実の父のごとく慕った。


はじめ司馬道子しばどうし驃騎行參軍ひょうきぎょうさんぐんとなり、次いで桓脩かんしゅう長流參軍ちょうりゅうさんぐんとなり、東莞太守とうかんたいしゅを兼務。寧遠將軍ねいえんしょうぐんを加えられた。


劉裕りゅうゆうと地元での旧交があり、幾度かともに東方の五斗米道ごとべいどう討伐に赴く中でさらに親密となった。桓玄打倒の計画が立てられ始めると、檀憑之と劉毅りゅうきはともに家族の喪失直後であったため喪服での参加となった。その才望については劉毅に譲ったが、官次や武威については檀憑之が上回っていた。このため劉裕は檀憑之を建武將軍けんぶしょうぐんとした。


劉裕がいよいよ決起しようか、と言うとき、何無忌かむき魏詠之ぎえいしとともに出掛け、檀憑之のもとに落ち合った。そこで人相見に長けた晉陵しんりょう韋叟いそうが檀憑之の顔を見るなり、驚いて言う。

「そなたには兵役による危地が訪れるとありますぞ、それも三、四日の内のことじゃ。どうか家の奥深くに引きこもっておりなされ、迂闊に出掛けてはならん」


京口で決起し、建康に進む道すがら、桓玄の將である皇甫敷こうほふ羅落橋ららくきょうにて激突。ここで檀憑之と劉裕がそれぞれ一隊ずつを率いたのだが、檀憑之は破れ、皇甫敷軍に殺された。冀州刺史きしゅうししが追贈された。


義熙ぎき初、詔勅が下された。

「善なるを掲げ功を史に刻むは国の記録として確かに残し置くべきもの。亡き冀州刺史の檀憑之は忠烈果毅、お国がためにその身を損ねた。しかし彼が示した義の敦きこと、それは危地に自らを投げ出すことも恐れなかったことに示されておろう。その志の気高さは古の賢人に勝る者がおるとも思えぬし、ならば近日に彼に送られた追贈官位では、やはりその気高さを讃え切れておるとは到底思えぬ。ここに散騎常侍を加贈し、本官はもとのごとしとせよ。皇帝還御の戦いのためにその身を損ねた孝烈を鑑み、封賞についても検討を加えた。よって曲阿縣公、邑三千戶に追封するものとする」




檀憑之字慶子,高平人也。少有志力。閨門邕肅,為世所稱。從兄子韶兄弟五人,皆稚弱而孤,憑之撫養若己所生。初為會稽王驃騎行參軍,轉桓脩長流參軍,領東莞太守,加寧遠將軍。與劉裕有州閭之舊,又數同東討,情好甚密。義旗之建,憑之與劉毅俱以私艱,墨絰而赴。雖才望居毅之後,而官次及威聲過之,故裕以為建武將軍。

裕將義舉也,嘗與何無忌、魏詠之同會憑之所。會善相者晉陵韋叟見憑之,大驚曰:「卿有急兵之厄,其候不過三四日耳。且深藏以避之,不可輕出。」及桓玄將皇甫敷之至羅落橋也,憑之與裕各領一隊而戰,軍敗,為敷軍所害。贈冀州刺史。義熙初,詔曰:「夫旌善紀功,有國之通典,沒而不朽,節義之篤行。故冀州刺史檀憑之忠烈果毅,亡身為國,既義敦其情,故臨危授命。考諸心迹,古人無以遠過,近者之贈,意猶恨焉。可加贈散騎常侍,本官如故。既隕身王事,亦宜追論封賞。可封曲阿縣公,邑三千戶。」


(晋書85-21)




ここに檀道済の名前が出てきてないから結構厄介なんですが、檀憑之が劉裕と一緒に戦って戦没したからこそ、檀氏一門がそのまま劉裕の隷下に収まった、と言う流れなんですよね。そしてその中に檀道済がいた。こうして檀氏一門が劉裕私兵の中核集団となり、そのまま劉宋随一の将軍としての大権を得るにいたる、と。ただこの辺の流れが見づらいです。なぜなら結局のところ劉裕の権勢拡大にとって最も重要な 405-409 年の事績がぜんぜん残ってない。嫌がらせかってくらい残っていない。なのでこのスタートダッシュ期間に劉裕集団がどう動いたかがわからないので「いつの間にか権勢を得ていた」としか書けない。なんなんだこの宋書晋書の構成いい加減にしろよ。

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