何無忌3 桓玄追討

桓玄かんげんが敗走すると、安帝あんてい代理の司馬遵しばじゅん何無忌かむき輔國將軍ほこくしょうぐん琅邪內史ろうやないしとし、會稽王かいけいおう司馬道子しばどうしの府に配されていた精兵がことごとく配備され、桓玄の追討に当たることとなった。このとき振武將軍しんぶしょうぐん劉道規りゅうどうきとともに、冠軍將軍かんぐんしょうぐん劉毅りゅうき節度せつど下に収まった。


桓玄は將軍の何澹之かたんし郭銓かくせん郭昶之かくちょうし湓口ぼんこうに配備。何無忌らが桑落洲そうらくしゅうに陣を構えたところ、何澹之らは軍を率い攻めかかってくる。


何澹之の率いる水軍の勢いは盛んなものであった。しかし何無忌は言う。

「あそこに何澹之はいない。こちらの心をへし折らんとハッタリを掛けてきているだけだ、積極的に攻撃を仕掛けたほうがいい」


皆は言う。

「何澹之がいないのであれば、それこそ打ち破ったところで無意味でしょうに」


何無忌は劉道規に言う。

「いま我々は多勢に対し無勢、そのまま進んでも勝ちきれるものでもないだろう。あそこに何澹之がいないとしても、あの軍を獲得さえしてしまえばやがては奴を捕らえることもできる。ならば士気の迸るままに兵を動かせば、一回の号令にて奴らを打ち破れることだろう」


劉道規はこの提言に従い、敵軍の船を鹵獲。その上でこう叫ばせる。

「何澹之を捕らえたぞ!」


桓楚軍は突然の報に騒然とし、一方で追討軍はその発言を信じ込んだ。劉道規は勝ちに乗じ突き進み、何無忌もまた戦鼓を大いに叩きそこに続く。こうして何澹之の軍は壊滅した。何無忌らは尋陽じんようにまで進んで拠点を確保、尋陽にあった晋の神主(位牌のようなもの)や武康公主ぶこうこうしゅ琅邪王妃ろうやおうひ褚霊媛ちょれいえん)を建康にまで送り届けた。さらに劉毅、劉道規とともに桓玄を崢嶸洲そうえいしゅうにて敗走させた。


何無忌は更に進み、巴陵はりょうに拠点を置く。桓玄のいとこである桓謙かんけんや從子の桓振かんしん江陵こうりょうを攻め落とすと、何無忌と劉道規は進軍、桓謙を馬頭ばとうで、桓蔚かんうつ龍泉りゅうせんでそれぞれ撃破。しかし、次いで攻め寄せてきた桓振に敗れ、尋陽まで下がった。


尋陽で体勢を立て直した後、何無忌と劉毅、劉道規は再び進軍、夏口かこうの三城を陥落させ、巴陵を平定、馬頭にまで至る。ここで桓謙が「荊、江二州を割譲の上安帝を返還するので兵を引いて欲しい」と願い出てきたが、却下した。進軍して江陵を陥落させ、桓謙らを追い払う。


何無忌は安帝の護衛としてともに建康けんこうに帰還した。これらの功績から何無忌はとく豫州揚州よしゅうようしゅう淮南わいなん廬江ろこう安豐あんほう歷陽れきよう堂邑どうゆう五郡軍事ごしゅうぐんじ右將軍うしょうぐん豫州刺史よしゅうしし加節かせつとされ、甲杖五十人を従えての入殿が認められた。ただしその職務に就くよりも前に再び辞令が下り、會稽內史かいけいないしとく江東五郡こうとうごぐん軍事ぐんじに変更。要は建康西部の軍務から建康東部の軍務に変更となった。持節、將軍は据え置かれた。鼓吹一部が給された。


405 年、都督ととく江荊二州こうけいにしゅう江夏こうかずい義陽ぎよう綏安すいあん豫州よしゅう西陽せいよう新蔡しんさい汝南じょなん潁川えいせん八郡軍事はっしゅうぐんじ江州刺史こうしゅうししとされ、將軍、持節は据え置かれた。興復の功から安成郡あんせいぐん開國公かいこくこうに封じられた。食邑は三千戶。またとく司州ししゅう弘農こうのう、揚州の松滋しょうじ軍事が加えられた。散騎侍郎さんきじろうが加えられ、鎮南將軍ちんなんしょうぐんとなった。




及玄敗走,武陵王遵承制以無忌為輔國將軍、琅邪內史,以會稽王道子所部精兵悉配之,南追桓玄,與振武將軍劉道規俱受冠軍將軍劉毅節度。玄留其龍驤將軍何澹之、前將軍郭銓、江州刺史郭昶之守湓口。無忌等次桑落洲,澹之等率軍來戰。澹之常所乘舫旌旗甚盛,無忌曰:「賊帥必不居此,欲詐我耳,宜亟攻之。」眾咸曰:「澹之不在其中,其徒得之無益。」無忌謂道規曰:「今眾寡不敵,戰無全勝。澹之雖不居此舫,取則易獲,因縱兵騰之,可以一鼓而敗也。」道規從之,遂獲賊舫,因傳呼曰:「已得何澹之矣!」賊中驚擾,無忌之眾亦謂為然。道規乘勝徑進,無忌又鼓譟赴之,澹之遂潰。進據尋陽,遣使奉送宗廟主祏及武康公主、琅邪王妃還京都。又與毅、道規破走玄於崢嶸洲。無忌進據巴陵。玄從兄謙、從子振乘間陷江陵,無忌、道規進攻謙於馬頭,攻桓蔚於龍泉,皆破之。既而為桓振所敗,退還尋陽。無忌與毅、道規復進討振,克夏口三城,遂平巴陵,進次馬頭。桓謙請割荊、江二州,奉送天子,無忌不許。進軍破江陵,謙等敗走。無忌侍衞安帝還京師,以無忌督豫州揚州淮南廬江安豐歷陽堂邑五郡軍事、右將軍、豫州刺史、加節,甲杖五十人入殿,未之職。遷會稽內史、督江東五郡軍事,持節、將軍如故,給鼓吹一部。義熙二年,遷都督江荊二州江夏隨義陽綏安豫州西陽新蔡汝南潁川八郡軍事、江州刺史,將軍、持節如故。以興復之功,封安成郡開國公,食邑三千戶,增督司州之弘農揚州之松滋,加散騎侍郎,進鎮南將軍。

(晋書85-18)




よくわからんレベルの軍権のでかさ。この辺り劉毅、劉道規、劉裕と並べて、どう職掌が移ったのかちゃんと検証しておきたいところです。と言うのも 405 年~ 409 年の動きにおける情報らしい情報って、こうした官位の移り変わりから探るしかないのです。それ以外の情報が絶望的に足りない。それ以外だと晋書後秦載記から間接的に拾ってくるしかないんですよねえ。後燕載記南燕載記はクソほど役に立たなかったし。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る