何無忌3 桓玄追討
桓玄は將軍の
何澹之の率いる水軍の勢いは盛んなものであった。しかし何無忌は言う。
「あそこに何澹之はいない。こちらの心をへし折らんとハッタリを掛けてきているだけだ、積極的に攻撃を仕掛けたほうがいい」
皆は言う。
「何澹之がいないのであれば、それこそ打ち破ったところで無意味でしょうに」
何無忌は劉道規に言う。
「いま我々は多勢に対し無勢、そのまま進んでも勝ちきれるものでもないだろう。あそこに何澹之がいないとしても、あの軍を獲得さえしてしまえばやがては奴を捕らえることもできる。ならば士気の迸るままに兵を動かせば、一回の号令にて奴らを打ち破れることだろう」
劉道規はこの提言に従い、敵軍の船を鹵獲。その上でこう叫ばせる。
「何澹之を捕らえたぞ!」
桓楚軍は突然の報に騒然とし、一方で追討軍はその発言を信じ込んだ。劉道規は勝ちに乗じ突き進み、何無忌もまた戦鼓を大いに叩きそこに続く。こうして何澹之の軍は壊滅した。何無忌らは
何無忌は更に進み、
尋陽で体勢を立て直した後、何無忌と劉毅、劉道規は再び進軍、
何無忌は安帝の護衛としてともに
405 年、
及玄敗走,武陵王遵承制以無忌為輔國將軍、琅邪內史,以會稽王道子所部精兵悉配之,南追桓玄,與振武將軍劉道規俱受冠軍將軍劉毅節度。玄留其龍驤將軍何澹之、前將軍郭銓、江州刺史郭昶之守湓口。無忌等次桑落洲,澹之等率軍來戰。澹之常所乘舫旌旗甚盛,無忌曰:「賊帥必不居此,欲詐我耳,宜亟攻之。」眾咸曰:「澹之不在其中,其徒得之無益。」無忌謂道規曰:「今眾寡不敵,戰無全勝。澹之雖不居此舫,取則易獲,因縱兵騰之,可以一鼓而敗也。」道規從之,遂獲賊舫,因傳呼曰:「已得何澹之矣!」賊中驚擾,無忌之眾亦謂為然。道規乘勝徑進,無忌又鼓譟赴之,澹之遂潰。進據尋陽,遣使奉送宗廟主祏及武康公主、琅邪王妃還京都。又與毅、道規破走玄於崢嶸洲。無忌進據巴陵。玄從兄謙、從子振乘間陷江陵,無忌、道規進攻謙於馬頭,攻桓蔚於龍泉,皆破之。既而為桓振所敗,退還尋陽。無忌與毅、道規復進討振,克夏口三城,遂平巴陵,進次馬頭。桓謙請割荊、江二州,奉送天子,無忌不許。進軍破江陵,謙等敗走。無忌侍衞安帝還京師,以無忌督豫州揚州淮南廬江安豐歷陽堂邑五郡軍事、右將軍、豫州刺史、加節,甲杖五十人入殿,未之職。遷會稽內史、督江東五郡軍事,持節、將軍如故,給鼓吹一部。義熙二年,遷都督江荊二州江夏隨義陽綏安豫州西陽新蔡汝南潁川八郡軍事、江州刺史,將軍、持節如故。以興復之功,封安成郡開國公,食邑三千戶,增督司州之弘農揚州之松滋,加散騎侍郎,進鎮南將軍。
(晋書85-18)
よくわからんレベルの軍権のでかさ。この辺り劉毅、劉道規、劉裕と並べて、どう職掌が移ったのかちゃんと検証しておきたいところです。と言うのも 405 年~ 409 年の動きにおける情報らしい情報って、こうした官位の移り変わりから探るしかないのです。それ以外の情報が絶望的に足りない。それ以外だと晋書後秦載記から間接的に拾ってくるしかないんですよねえ。後燕載記南燕載記はクソほど役に立たなかったし。
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