りん。

西奈 りゆ

第一章

1.搬送

 したことがある人にしか、わからないことがある。


 例えば、仕事。例えば、失恋。例えば、失敗。例えば、後悔。

 

 こちらを見上げるその瞳から、どんな感情を読み取ればいいのか。

もうわたしにはわからない。


「いじめを苦にして―――」


 わたしが見ることはないはずの、そんなテロップが浮かんだ。


 猛烈な吐き気。何度もせりあがってくる中身を、口の中で何重にも絡まった液体と一緒に、無理やり飲み下す。


 身体の拒否反応、生存本能とでもいうべきか、あれは、ほんとうに凄まじい。

 こころという脳がそれを望みながら、身体がそれを拒絶する。脳が身体をつかさどるなんて、嘘っぱちだ。


 胃洗浄は、「地獄」の一言につきた。口から胃に突っ込まれる管。管から容赦なく流れ込んでくる、真っ黒な液。


 あとから調べたら、あの黒色の液体は、炭と下剤の混合物だったらしい。


 それを胃へ直接流し込み、吐いては出し、吐いては出し。その繰り返し。

「嘔吐」なんて、比じゃない。

 中世に行われたっていう、「水責め」の拷問に近いんじゃないかな。ろうとで水を流し込むやつ。史実、そんな絵があるよね。


 薬よりも、窒息でこのまま死ぬんじゃないかと思った。

この人たちは、わたしを殺そうとしているんじゃないかって。失礼な話だけど。


 唯一上書きされずにかすかに覚えているのは、夜に流れていく景色の断片。

そして、サイレンの音くらいだ。

 その後が何十分、何時間かかったのか。そんなことまでは覚えていないし、

病院で押さえつけられた腕や脚が後から痛かったけど、そのときはそんなことを感じる余裕なんて、かけらもなかった。


 胃洗浄の数日後。両親が強く反対し、わたしは定期通院を条件に、強制入院をなんとか免れた。OD(薬の過剰摂取)で障害が残る例もめずらしくないと、こちらをにらむようにして話す医師に、わたしは従順に謝り続けた。

 これじゃ場所が違うだけで、学校と変わらないなと思いながら。


 次の日、予約していた精神科の思春期外来に、紹介状を持って行った。

父も母も、疲れ果てていた。わたしは、何も考えられなかった。


 たぶん問診の、半分にもこたえられていなかったと思う。

薬は抜けているはずなのに、何も考えられない。

 涙も出ず、ずっと前から、わたしはそんな状態だった。


 薬の管理は、母がすることになった。帰り道。だれも口を、きけなかった。

その日ようやく「おやすみ」を言えたのは、だれだったか。


 そしてその、さらに数日後。新しくレスキューに来たのは、りんだった。


 生後半年。真っ黒な瞳の、ミニチュア・ダックスフンド。


 それは、わたしが15歳。高校に半年通い、退学した少し後のことだった。







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