第5話
「やあ、アッシュフィールドさん。
どうだい、クラスは馴染めそうか?」
彼女は後職員室で幸恵教諭と話していた。
「多分大丈夫だと思います。」
「そうか、それは良かった。
彼の案内はどう?」
「分かりやすかったです。」
そして社交辞令のようなよそよそさを感じない。
「あいつは、話し方も比較的しっかりしてる。
何か困ったことがあったら彼に聞くといい。」その若い教師は少し意地の悪い笑みを浮かべながらそう言った。あの独善的な性格が直って生来の社交性を発揮してくれればいいんだがと、担任の立場からため息をつきたそうだ。
「どうだ、こっちは君の国とは勝手が違うだろう?」
「はい。
少し慣れるのには時間がかかるかもしれません。
ですが良い町です。」
「まあなんにせよ君は私の生徒だ。
好きなようにしてみなさい。」
「そうします。
失礼しました」そう言って職員室を出て階段を下りると職員玄関から校舎を出て、傘をさした。彼は彼女のことを何も知らないみたいだった。六月の夜は昼間と全く気温が違う。風は涼しくてひやりとしていると言ってもいいくらいだ。気温は日中と比べて全然高くない。馬鹿騒ぎするような人もいない。昼間とは全然違う故郷に近い気温が、彼女に郷愁を抱かせもする。昔から日常と当たり前は彼女の天敵だった。近くの湖まで足を運ぶ。ここは田舎だが、整備されている。街路にライトの灯は最低限。少し歩くと小さいが急な山と牧場が顔を出すらしいことがマップ情報で分かる。しばらくするとその湖に着く。学校の制服を来たものはおろか、先客は誰もいない。雨が降っているからか、意外と穴場のようだ。道中の立て看板でここの存在を知っただけの私には量りようがない。彼女はそこで雨滴が湖に吸い込まれていくのをしばらく見る。ここがどこか分からなくなるまで、その雨滴がぼやけてクリスタルに見えるようになるまで、明日は太陽が顔を出すだろうかを考えるまで、何も考えず、ただ呆然とする。
翌日、六月二十余日。 彼女は目を覚ますとどんよりとした曇り空をこの目で確かめる。雨。その空模様はどことなく私にロンドンを思い出させる。ホテルの最上階はスイートルームではない。そしてビルは大きくもなければ高くもない。今年三月に開業されたばかりというこのホテルはまだどこも真新しく綺麗で、その清潔さを彼女は気に入る。随分と縮こまっていて必要最小限のものしかなかったが、それに目を瞑ればある程度今回の宿泊先としては理想的だ。駅からも近い。それに、かなりの無理の中ここまで来たのだから、この程度で文句は言えない。全然ましな方だ。必要以上でも以下でもない適度な量の朝食を済ませると、彼女は身支度を整えてから駅へと向かう。
学校の授業が全て終了するとクラスメイトの何人かと話をし、教室を後にする。川が流れ、畑も多い。排気ガスが少なく、肥料の匂いがする。山もいくつか見回せる。中でも富士山が見えることに彼女は驚く。校舎の近くにある貯水池に無数の雨が零れ落ち、小さく広がる無数の波紋を私は眺め、藤沢に帰る。フロントで鍵を受け取り、自室の最上階に着くと荷物を置き、しばらくじっとする。静かに深く深呼吸をする。この滞在が好機となるといい。しばらくするとそこを立ち上がり、デニムと鮮やかで濃い青色のティーシャツに着替え、真っ白なスニーカーを履く。バックパック一つにこの三日滞在で使った私物が全て収まっていることを確認すると、部屋を後にする。受付で三日分の料金の支払いを確認し、チェックアウトする。
それから目と鼻の先にあるカフェに入る。ここはまだ一度しか来たことがない。見たところ料金から言ってもチェーン店だが、その空間はなかなか居心地が良かった。内装はシックで、くすんだ赤と木製の茶色で彩られている。床もそのカラーのタイルが敷かれている。そのコーヒーショップは、私がこの街に来てから初めて入ったお店だ。店内は西洋の建築の影響が感じられる。あくまでコーヒーチェーンの店だから家出をした日に泊まったロンドンのホテルとは質が違っていたが、それでも店内の装飾は可能な限り拘りがある。その拘りはあの日のホテルと地続きになっていた。私という人間のように、このコーヒーショップもまた、イギリスと日本の中間地点だった。ここが私のあちら側とこちら側を繋いでいる。
一階の注文口でアイスココアフロートを注文する。高校生らしい女性店員は後ろで髪を結びポニーテールにしている。服は白シャツに黒の蝶タイ、グリーンのエプロンとシンプルで、店内は静かだ。それは雨が降っていたからかもしれない。店員の彼女は外国人である私の容姿に対して興味を抱いているようだ。少なくとも好意的なだけ良い。そして彼女は私がそんな可愛い飲み物を頼むとは思っていなかったのか、一度頭の中で今の短いやりとりを再現したのか少し黙してから、笑顔で会計を済ました。その笑顔はいささか形式的過ぎたが、彼女は可愛らしい顔立ち美人であることは分かった。そして背はかなり小さい。店員の位置は高くなっているが、私のほうが背が少し高い。でもこんな可愛い子はそんなにたくさんはいないだろう。そんな人が私の注文をはにかみながら接客しているのを見るのは気分が良かった。たぶん彼女の存在で客入りは変わることだろう。本当は北口から直ぐの世界的に有名な(そして値段も張る)チェーンカフェで時間を潰しても良かったのだけれど、ここはホテルからも近いし、なんといっても待ち合わせ場所だ。私はアイスココアフロートを受け取ると二階へと上がる。奥の壁には鏡が張られている。私は鏡に映る自分をじっと見てみる。鏡の向こうの私は微笑んでも怒ってもいない。随分と場違いな所にいる気がする。いいや、実際そうだ。油絵の掛かっている天井の高い階段を上がると右側に向かう。二階も左側は鏡が張られている。奥の方は喫煙席らしい。シガレットは当然吸わないけれど、そっちに座りたかった。そこからなら交差点が、街並みが見えるから。だが今日は傘をさしているから人々の顔までは見えないだろう。それに今通っている学校の制服ではないと言っても、しばらく私はこの服で登校するのだからシガレットの匂いをつけるわけにはいかない。周りからあらぬ疑いを掛けられても困ってしまう。また機会がある時にしよう。仕方なく手前の席に腰を降ろして本を開いた。でもこの街では比較的目立つ外見だったのか、嫌でも周囲の視線を感じた。この街にもちゃんと外国人は住んでいるらしいが、それでもこのようにカフェを利用しているのは今は少なくとも私だけらしかった。店内は私の知らないクラシックが流れていた。雨は相変わらずこの街のありとあらゆる所を万遍なく濡らしているようだ。そしてバックから本を取り出すと静かにページを捲りながら、待ち合わせの相手が来るのを待った。
「おまたせ。待った?」
「いいえ、全然大丈夫です。
こっちこそ無理を聞いてもらってすみません。」
「それこそ気にしないでよ、全然大丈夫なんだからさ。
それに居候を先にしたのは私のほうじゃない?」
「そう言って頂けると助かります。」
「じゃ、行こっか、荷物ならもう届いてるらしいから。」
こうして私はお姉さんの家へと向かった。
「ただいま〜。
リョウ君、いる〜?」
「お帰り。
彼は今外出中。
何か知らない?」
「全然。
なんだ、驚かそうと思ったのにな〜。
じゃあ入っちゃって。」
「お邪魔します。」
私の眼の前にはお姉さんのほかにも女性が一人いる。黒く長い髪、いかにも日本人といった感じだ。
「悪いんだけどこの子にりょう君の部屋を案内したげて。
荷物もとりあえずあの子の所に置いておいて。」
「悪いだなんてとんでもない。
さあ、どうぞこちらへ。」
「失礼します…。」
樫江君の部屋に遠慮なく入っていくメイドさんの後ろを私は付いていった。
「まあいないほうが好都合かも。
どうです、ご主人の部屋は?」
「なんとういか…簡素ですね。」
「ですよね〜。」
第一印象はホテルとそんなに変わらないということだった。でも壁にはカレンダーのひとつも貼られていなければ、時計もない。頑丈そうで無機質な木製の机に置かれた液晶モニターはホテルの薄型テレビを連想させた。一つのガラス棚、クローゼット、ベッド、木製とプラスチック製の収納ボックス。部屋が持ち主の人柄を表すというのなら、彼はシンプルな人なんだろう。本棚を見てもそうだ。そこには余計なものが何一つないように見える。机の上にはノートパソコン、ティッシュ、キーボード。入り口手前には鍵とイヤフォン、ハンドグリップ、腕時計が掛けられていた。大きさの違う二つのダンベルが転がっている。否定的に言うならこの部屋は殺風景で、良く言うなら…、まあ洗練されている。どちらかと言えば後者に近いだろう。つまり彼には指針が、彼の意志とでも言うべきものがある。それはホテルメイキングとは違う。しかし見事に部屋の半分ほどのスペースが空いているような気分になる。
「実は貴方にと考えていた部屋は彼女の、メイドさんの住み込み部屋になってしまってね。
私の部屋は狭いし、この部屋って荷物少ないじゃない?
ちょうどいいと思うのよ。
でも詳しいことは弟が帰ってきた後で話しましょう。
まずは…ダンボールの整理からかしらね。」
彼女は自身の荷物を取り出し、書物を彼の本棚に入れさせてもらう。下着やパジャマを洗面所に持っていき、服をクローゼットに掛ける。その時少し彼の服が視界に入る。そこには拘りが感じられる。私の知っているブランドもいくつかある。そして本棚には服飾雑誌とハードカバー本が置いてある。スタイルというものが一番に重視されていた時代のものだ。日本に来て数日しか経っていなかったが、この海のある街でそんなスタイルを維持し続けようとしているのは彼だけに見えた。その間メイドさんは制服掛けを持ってきてそこに樫江君の制服を掛け、クローゼットの半分を開けてハンガーとクローゼットケースをどこかから持って来た。でも彼はいつまでたっても帰ってこなかった。それは三人が外食をしに一度外へ出て、帰ってきた時もだった。
「メッセージも電話も繋がらないわ。
珍しい。」
「大丈夫なんでしょうか?」
「まあ日本ほど安全な国もちょっとないわよ。
明日になっても連絡がつかなかったら少々困りものだけど。
電源が切れてるだけかもしれないし。
とりあえずリョウ君がいないならそれはそれで好都合かしら。
お風呂に入ってそのままそこのベッドで寝ちゃいなさい。」
「いいんですか?」
「いいもなにも貴方以外今そこを使える人、いないでしょ」そう言いながら彼女は私の分の枕を用意してくれた。
「ご主人のベッドカバーと枕カバーも新しく取り替えておきました」とメイドさんも言った。それで結局、私はそこで一夜を過ごすことになった。
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