第3話 青嵐

「暇そうだな。」

「おはよう。」

「おはようさん。ゴールデンウィーク、何してた?」

「さあ、なんだったかな」午睡の後に来る欠伸をしながら思い出す。

「バイト。」

「部活は辞めたみたいだしな。」

それを聞いて一拍間を空けた。そして僕は良く分からないねという顔をした。

「俺達二年からすれば邪魔者がいなくなってこれからだ、って時期だろうが。」

その通りだと僕も頷いて見せた。彼の言う通りゴールデン・ウィークでまず間違いなく弱小校の我が部は先輩が引退するはずだった。そして実際にそうなった。

「でもその頃には同じ部員を何人か引き連れて退部届けを出してたんだ。

不思議なことに。」

彼は黙って首を振った。でもそれで不快に感じることはなかった。熱しやすく冷めやすい、ある種の商品の売り文句になりそうだ。奥さん、なんとこちらは熱しやすく、冷めやすいんですよ。それからやはり僕も首を振った。 なんだかいまいち要領を得ないなと言って、高垣は一笑すると席を立った。


 一緒に退部した連中は皆一年のクラスメイトだった。次期部長からすればたまったものではなかったみたいだ。だが逆の立場なら、そんな奴らは辞めてもらったほうが有難いに違いない。まあ諦めてもらって、後輩をびしばし叩いて貰うしかない。僕らがそうされたように。

「樫江君は面白いね、見てて飽きないよ。

一匹狼なんだけど特筆した能力があるようにも見えない。

でも周囲は君が社会的な人間だと気付いてないようだ。」

僕は話し相手の顔を見て続きを促す。

「納得のいかないことに賛同を示さないだけだろう。

一見クールだけど酷く合理的なだけ。

それを理解できるのはある程度君に近しい人だけだろうね、控えめに言って。」

 記憶はいつだって唐突に頭を通り過ぎる。そこに僕の選択権なんかない。

「……それで僕達はコートプレイを始めたんです。

公平性の欠かれたネットを通して。

ザベストオブ・ワンセットマッチ……サービス、プレイ。」

会話はどこで行われた僕が思い出す前に再生されている。一人のセリフだけが永遠みたいに回っている。誰かのセリフは全て聞こえなくなっている。

「ボールは僕の手の中にあるんです。」

「いつもそうなの?」

その通りだ。それだけに関しては自信を持って言える。

「いつもそうです。」

だって、これは何といっても僕の人生だもんな。

「でも、こうやって貴方と話すのは自分がいかにもいかれてる人みたいですね。

貴方へ悪気や軽蔑があるとかじゃいけど、そういう気がして。」

「貴方は大学に行く予定?」

「まあ、おそらくそうなるでしょうね。」

「そしておそらく大学四年生の貴方は就活をして、どこかで社会人として働くわけよね。」

「おそらく。」

「だとしたらきっと貴方はその時に自己分析をすると思うわ。」

「自己分析。」

「そういうものがあるのよ。

自分自身に色々と質問をして、生後から現在までの体験や考えを言語化して何になりたいか探すの。」

「INTJ.」

「何かしら?」

「高校在学中に行われる十六性格・適職診断です。

それと似ている。」

「ああ。似てるというか、同じよ。

大学四年生になれば貴方が今こうして私と話してるのは自己分析と同じだと実感出来るわ。

そういう診断とか分析で自分の姿をどう見ようが、それって結局は自分がこう見たいという己の姿だもんね。

そういう意味では内観法に近いかもしれない。

結局は精神分析のそれと変わらないのよ。

大多数の人は意図的か気付かずにさらさらとやるみたいだけどね。

ただ一人二役で精神科医と患者の役をやってるだけ。

患者が過去のなかった記憶を書いてそれに読者として相槌を打つプロセスが何かの妨げの解消と発展、治癒・・・もとい自分が将来何になりたいか分かる。」

「そうやって流れに沿って生きていくんですね。」

「まあ、立て板に水の如く流れないことを世間一般では妨げと認識される場合も多々あるから。」

流れに沿って…、軟らかくはないし硬すぎもしない感触を確かめながら、僕はそれを何度かバウンドさせる。そういう決まりだ。ルールではないけどルーティンとして。そしてラケットのフレームに持っていき、構える。

「それで?」

「ファーストサービスはほとんどの場合ネットより上を越えてはくれません。

でもゲームのサービス権はいつだってこっちにある。

さっきも話した通り、全部僕から行動出来る。」

「それがネットにかかるかは分からないけど。」

彼は頷き言う。

「ネットの確率のほうが高いです。」

「たいていは、ね。」

彼女はそこで沈黙した。僕の言ったことが普遍的か、或いは常識的かを考えているのだろう。

「今から簡単なことを教えて欲しいんだけど。」

今ではここがどこだかまで記憶に出ている。ここはカフェだ。暖炉があるが使われてはいない。部屋の明かりは蛍光色ではなく暖色だ。

「長いですか?」

「それほどじゃない。」

「それは良かった。

それで?」

「連想ゲームよ。

例えば私が今日と言ったら……」

「春。」

「そういうことね。

良い春日和だもの。

始めても?」

僕は頷く。そしてあまり得心のいかないゲームが始まる。

「去年。」

「意味のない一年」僕は少し考えてからそう結論付けた。

「高校生。」

「ベター。」

「ベター?」

「今までよりはましに。」

そう、ほんの少しは。

太陽──海。明日──続き。悪者──正義。時計──客観的時間。塔───……

「塔?」

怪訝な顔で聞き返す。

「いいから、答えてみて。」

最初に思い浮かんだものが「崩壊」。当たり前だがそんなことはこの場では言えない。

「どうしたの?」

「見張り。」

そう言った瞬間良くないなと思った。これはきっとあまりよくないだろう。彼女は僕の顔を少しだけ、静かに観察した。僕は平静を装った。

「見張りって?」

「守衛みたいなものだと思ったんです。

塔なんてこのご時勢そこら辺に生えてないから。

きっとあるならそれはかなり昔のヨーロッパとかくらいだろうって。

きっと当時は領土の取り合いみたいなものがあっただろうって。」

「なるほどね。想像力というのは大事よ。

この世にあるほとんどのもの、例えば今君が座っている椅子なんかそうね。

それらは全部まず人の頭の中、想像力にあるのよ。

でも塔ならここからすぐ傍にもあるじゃない。」

そう言われて僕は得心する。

「灯台ですか。」

彼女は答える代わりににこりと微笑む。

「現実。」

「限定性。」

「樫江陵史。」

樫江陵史?

「自分。」

「続けて?」

“I'm just a record needle spinning in the same place forever, and a dream that keeps getting something wrong. ”

「永遠に同じところを回り続けるレコード針」僕はそう言ってから続ける。

「何かを間違え続ける夢。

片道切符。

両手に抱えた1ダースの矛盾。」

“Yeah, It’s me”、そうエイが言う)

「それが僕。」

それでたまに行く道を見失う。いや、行くべき道なんてものはもとよりなかったかもしれない。

「いいわ、今日はおしまい」しばらくの沈黙の後、喩禾さんは片目でウィンクしながらそう言う。

「トラウマはそんな簡単に言葉にできるものごとじゃないのよ。

それはずっと奥深くに根付いた個人的体験であり、記憶なの。

そんなのを簡単に言語化出来たら、それはもうトラウマとは呼べないわ。」

「なるほど、すごくプロっぽいですね。」

「でしょ?」

「でも僕の現状について診断証は書くんでしょう?」

「気が向けばね。

嘘よ、ちゃんと一応書いてるわ。」

「今回のは何て書くんですか?」

「当人は自分のことをあまり気にかけていない。」

僕は驚いた。

「何、本人には言わないと思った?」

「普通そうでは?」

「何事もケースバイケースよ。

貴方のはそんな重いとはどうしても私には思えないから。」

「決まった目的を持っていないものは道に迷うことだってないでしょう。」

「面白いこと言うわね。

というか貴方の場合、もう治ってるわね。」

「はあ。

治ってるんですか?」

「ええ。

それはもうばっちり。」

「いつから?」

「う〜ん…。

いつだったかしらね?」

「それってそもそも必要なかったんじゃ。」

「まあ保険みたいなものね。

何が必要かは時間が経ってみないと分からないし。

でも貴方はまだ若いから必要かな、って。

ほら、若い時って本一冊読んだだけでもかなり揺さぶられるじゃない?

大事な体験ではあるんだけど、危ない部分があるのも否定は出来ないから。」

「現実の区別くらい出来ますよ。」

「まあね。」

「じゃあ何が問題なんでしょう。」

「一人で溜め込むこと。

貴方は万人に適用されるべきルールであるモラル、道徳に従わない訳ではない。

むしろ貴方は積極的にそれを守ってるようにも見える。

でも、その表情は随分と対照的。

貴方はしかめ面をしながら、社会的に生きている。

そしてモラルよりも貴方は己一個人にのみ適用される、普遍的とは言えないルール、格律を優先している。

それが独善的に見えることもあれば、魅力的に見えることもある。

その己のみに関係するマクシム、魂の問題がね。」

「ていうかそもそも僕はなんともなかったんじゃないですか?」

「それは見方にもよるわね。」

「でも病名とかあるんですか?」

彼女は目の前のショートケーキを食べて「おいし〜!」と言う。ああ、つまり僕は健康体そのものだったのだ。

「いいじゃない。

どっちみち貴方は私とアフタヌーン・ティーを一緒にしてただけなんだから。」

「でも毎月引き落としが。」

「あれはここのお代よ。」

「ここってそんなにお高いんですか?」

「あら、お金のことになると感情豊かね。」

「じゃあ、どうしてここに来てるんだろう?」

「貴方が来たかったんでしょ?」

「確かにここのコーヒーとサイドメニューは絶品だ。」

「それに私と話せるし。」

僕はそれは無視した。

「私もデザートが好き。

それに年下の後輩と話すのも気分転換になるし。」

「でもいいんですか、もっと貴方を必要としてる人がいそうですけど」気を取り直して尋ねる。

「でもそれって仕事として必要とされてるだけでしょう?」

「割り切った発言ですね。」

「それに私今仕事辞めちゃってるから。」

「無職?」

「いえ〜す。」

「働きづくめで疲れたんですか?」

「まあそんなとこね。

私にもリカバリーは必要だからさ、もちろん。」

「だから、ひがな一日をこうしてお茶に使ってるわけだ。」

「ギブ&テイク、いいでしょ?」

僕はコーヒーカップを置いて窓に首を向ける。

「お好きに。」

それから目の端でちらりと如月さんを見る。確かに今日の服装はフォーマルでもなければビジネスカジュアルでもない。黒のニットなど色使いはシックだけど、それは大人の女性のおしゃれというだけだ。

「それで、これからどうするつもりなんですか?」

「あら、形勢逆転ね」そう笑った後で彼女は言った。

「実は次の仕事はもう決まっているの。」

「へえ。

引っ越すんですか?」

「まあね。

実はある保護者の方に住み込みで来ないかって言われちゃって。」

「すごいですね。

でも住み込みのカウンセラーが必要なんて、なんだか色々と大変そうだ。」

「家事さえやってくれれば家賃もタダ!って言われちゃって、しかも駅から近いの。

凄くない?」

「家事…」

「流石にできるから。

あなたもご存知でしょ。」

「そうですか、じゃあこれでお別れですね。」

「また会うと思うけど。」

「怖いこと言わないでください。」

会計を済ませると最寄り駅まで行き、藤沢に帰ってくる。

「新居って地元なんですか?」

「うん、藤沢。」

「僕はこっちのほうですけど。」

「私も~。」

・・・

「あの、どこまで一緒なんですか?」

「どこまでも一緒だよ?」

怖いこと言わないでくれよな。

「そろそろ僕の家なんですが。」

「あ、じゃあ着いたね。」

「僕はね?」

「いや、私も私も。」

「どうして。」

「どうしてって、さっき話したじゃない。」

さっき話した?

「あれ提案したの、あなたのお姉さん。」

「どうして。」

「今月何回カップ麺で過ごした?

自分の部屋の掃除、何回した?」

「全部僕が話してますね。」

「そういうこと。

それに私なら買出しも行くし、なんなら一人の料理より二人分作るほうがお得よ?

それに良い話し相手にもなると思うし。」

「それがさっきまではあなたのお仕事でしたもんね。」

自分のプレゼンが上手なんだよ、やれやれ。

RRR・・・僕は電話をかけていた。

「りょーくん?」

「メイドを雇った?」

「メイド?

あ~うん、そうそう。

今日からだったっけ。」

「どうして。」

「あなたも忙しくなるでしょ?

あと、ガレージに車が止めてあるけど気にしないで」そう言うと姉は通話を切る。ガレージに車?

「・・・それで、その大きめのキャリーケースは?」

「アパート、引き払ってきたの。」

「そうですか、じゃあまずは自分の部屋の掃除からお願いします。」

こうして姉の差し金により、住み込みのメイドをゲットした、というか彼女が住み着いてしまった。それにしても、この時代に、たいして裕福でも豪邸に住んでいるわけでもないのにメイドを雇うなんて。人生っていうのは一寸先も分からない。まあ早くて半年か一年は、見ず知らず(というほどでもないが)の相手との二人暮らしに耐えないとだ。


 毎日の腕立て伏せ百回。それが僕が退部と引き換えに始めたことだった。まあ運動不足の解消ってわけだ。二十四時間の内に十回十セットをこなすだけなのにも関わらずこれが難しい。少なかったらアウトだし、多くやりすぎると翌日慢心してやらない。カレンダーの正の字を見るとそこの所がどうも凡人臭くて自分でも嫌になる。そしてこんなことを通して、春は世界陸上の短距離代表もかくやというスピードで走り去ろうとしている。あまり縁のなかった三年生は気付けば卒業し、今度は年下の縁のなかった者達が変わりに校舎を賑わせている。そして季節は気付けば、梅雨になっているってわけだ。今朝、ニュースキャスターはテレビの画面越しにそう言っていた。メイドの出現の他に変わったことが一つ。家のガレージにはに車が止まっていた。車のトランク部分には「Automatic 1300 WOLSELEY mk2」と書かれている。随分と旧そうな外車だ。しかし内装は上品で、金がかかっている。クラシック。その車は僕が今までの人生で見てきた車の中で最上のものだった。

「クラシックカーなんて持ってたの?」

「おはようございます、ご主人。

いえ、あれは私のではないですね。」

「その呼び方はやめない?」

「どうして?

正しい呼び方ですよ?」

正しさと感情に相互性はないから。

「でもまんざらでもなさそうですね。

もう私が来てから三ヶ月経ちますし、慣れちゃいました?

朝ゴハン、出来てますよ。」

彼女が来てからというもの、僕は朝ごはんをしっかりと食べるようになった。というのもホテルの朝のバイキングもかくやというほど料理が出てくるからだ。彼女いわく、そっちのほうがお昼の弁当にも出来るし、残れば夜のおかずにも出来て一石三鳥ということらしい。

「ありがとう。

貴方が来てからここのところ、毎日雨だね。」

「ちょっと、私雨女じゃないですよ。」

「ほんとに?」

「いや、少しくらいはそうかもしれないですけど、今梅雨ですし。」

「まあ今朝になって止んでくれただけでも良かったかな。」

外の空気はひやりとしていた。太陽が目に眩しい。季節の変わり目には出来るだけ鈍感でありたいものだ。僕なんて先月も五月病にならないように、今が五月であることを必死に忘れようとしていたくらいだ。

「というかあの車、樫江のものではないんです?」

「違うよ。

初めて見た。」

「そうですか、私が来た時には停まっていたので、てっきりそうかと。

貴方のお姉さんのものでもない?」

「どうかな。

確かなことは言えないけど、姉はああいうのに乗るイメージがないかな。

そういえば部屋は綺麗になった?」

「もちろん。

私が寝るところですし。」

彼女に使ってもらっているのは姉の部屋だ。

(She’s wearing a dress for maid.

Black sleeveless dress like V-neck, with a white shirt and a black tie.

(Or she sometimes wears a white-thin polo neck knit with no tie. )

When she makes a turn, frills of the dress dance gracefully.

I looked at it, and thought perhaps I’m in wonderland.

Unrealistic moving makes people strange departure from reality.

Maybe this scene is the one I’ve hoped for long time. )

「それは何より。

それってメイド服なの?」

彼女の服装は白いタートネックの肩から肘がゆるく膨らんだカットソー、胸から下が黒の足元まであるワンピースだった。昔風に言うのであれば「黒い服に白いエプロン」と言うやつだ。

「あ、気付いちゃいましたか?

現代版メイドって感じで良くないですか?」

ファストファッションの半額セールで買っちゃいましたと言いながら、彼女はくるっとターンする。買い物上手だ。なるほど、黒い薄手のセーターに丈長の白いワンピース・スカートは現代のメイドと言えるかもしれない。エプロンも必要に応じて白いのを着用しているが、なんというかただの作業着という感じじゃない。

「やっぱりまずは形からってね〜。」

「また何かあったら言って。

僕はもう出るよ。」


 そんなこんなでいつもと同じ黒い学ランに身を包んだ僕は、来月の生活に向けて藤沢駅内のATMへ寄った。両親は僕が小さい頃に事故でなくなり、一人暮らしをしていた。僕は銀行のカードを入れて残額を下ろす。

「・・・。」

必要な分だけ下ろすとポケットから出したスマホでメッセージだけ送っておいた。それから僕の所に電話が来たのは直ぐのことだった。

「おっはよー!

朝からメッセージくれるなんて、ひょっとして見ちゃった?」

「幽霊みたいに言わないでくれ、姉さん。

それにそっちはまだ真夜中じゃないの?」

「まあそうなんだけどね。

パーティーがあって今帰ってきたところなのよ。」

パーティー?だからこんなにテンションが高いんだ。

「姉さん、今どこ?」

「ロサンゼルス。」

Los Angels. 僕は用件を切り出した。

「銀行の口座が倍になってるんだけど。」

「一万円?」

「もっと貯めてる。」

「冗談よ。冗談」そう言うと彼女はくすくす笑った。

「私の仕事が上手くいってるからお小遣い。

だからバイトなんて辞めなさい。」

「カフェなら辞めたよ。」

「ダウト。」

何故かこういうのにうちの姉は昔から鋭いんだ。こっちが何を言い出したところで無駄なんだよ。

「助かるよ。」

「メイドさんの一件もあるし、相続分もまだ残ってるし。」

「あと姉さん、車なんて買ってないよな?」

「買ってないわね。

欲しくなる時もあるけど。」

感謝だけ伝えると僕は通話を切った。それから代わり映えのしない二週間が経った。


 六月二十一日。いつも通り学校に行き、家に帰ると姉さんは我が家に帰って来ていた。

「りょうっ君ーー!!」

「姉さん?」

「なによその反応は。

もっと喜びなさいよ。」

「無茶言いながら首絞めないで。

それはそれとして、なんで帰って来たの?」

「ひどい言われよう…。

仕事が落ち着いたし、メイドさんの経過観察もしたいし、二年生になった貴方と会ってなかったじゃない?」

「あ、そう。」

真っ白な毛をした猫を膝に抱えた姉さんは癒され顔だ。

「その猫は?」

「シェナよ、綺麗な毛並みでしょう。

向こうで友人に貰ったペルシャ猫なの。

先に地元に送って今日まで預かってもらっていたのよ。」

ペルシャにも行ったとか言わないでくれよ。

「でも姉さんの部屋は今専属メイドが使ってるけど?」

「大丈夫、彼女には屋根裏に移ってもらったわ。」

そうえばそんな所もあったっけ。

「お帰りなさいませ、お嬢様。」

「ただいま~。

久しぶりね、喩禾。

この前会ったのは貴方が大学を卒業した後だったけ。」

「・・・同級生?」

「あれ、聞いてなかった?」

もちろん聞いていない。

「てことで、喩禾。

あの部屋は現時刻を持って私が使うから。」

「ええ!?

あんなに綺麗にしたのに!??」

「だって、私の部屋だし。

まあ一緒に寝たいならいいけど?」

「結構です。

はあ、貴方の傍若無人なところ、相変わらずね。」

久しぶりの再会ということで僕だけ夕飯をとりながら土産話を聞いた。姉は先程の部活のことを聞いて大笑した。次に彼女が話した。

「想像してみて、ロサンゼルス西部の片田舎を」そう彼女は言った。

「ルート66のその向こう───、そこには砂漠があり、ガンショップには剥き出しに置かれた様々な銃がところ狭しと並んでいる。

私達はそこに何もない荒野を求め、見出すことが出来る。

それは数時間先にある全てが揃っている風に見える都市にはないものの一つよ。」

謎解きみたいな彼女の話し方は彼女特有のものだろう。何フィート先にある都市と言うところを彼女は何時間先の都市みたいに言う。その是非を質す気はない。本人が話したいように自分の言葉で話している。素晴らしいじゃないか。

「それは本当にあるロサンゼルス郊外とは掛け離れたものになるかもしれない。

でも全く構わない。」

「ただの砂漠しか出てこない。」

「そんなだから貴方はもてないのよ」そう言うと彼女は笑った。

「少し手助けしてあげるわ。

そこにはぼろぼろの大きな家が数ブロック先まで続いているの。

そしてオフロード車がたくさんある。

どれもタイヤがごつごつしとしていて、車体が大きいから分かりやすい。

バギーなんかも走っている。

そしてその小さな街にはお酒を飲むところと、銀行なんかもある……。」

海の向こうの話はいつも僕をわくわくさせる。そういう話は電話越しより直に話した方が表情も見れて会話は弾んだし、楽しかった。

「それで、貴方はまだ豚のフィードロットにいるわけ?」

フィードロット?

「簡単に言うなら、餌をやって育てる場所ってこと。」

彼女は今僕が通っている高校を揶揄しているのだ。

「肥育場。」

姉も随分な皮肉屋だ。

「大体豚の寿命ってそこでは二年弱らしいわよ」どうでもよさげに彼女はそう話した。実際にどうでもいいのだろう。

「最初の五か月はぶっくりと太らせるの。」

でもまあ、彼女の言いたいことも良く分かる。それは実にそういう場所なのだ。加えて僕の高校は姉の母校でもあり、実を言うとその学校の場所は養豚場だったのだ。独特だが共感できるセンスの持ち主だ。

「そして社会の目的はハイブリッドの収穫ってわけだ。」

「まさに。

豚さんが宇宙飛行士になるのも大変よね。」

「宇宙飛行士?」

「例えよ。」

そして姉がこの家に帰ってきたことは、僕からすれば転機だったのかもしれない。少なくともこの時点で僕の周囲は動き始めていた。それは全く予期せぬ出来事だった。


「……海……?」

そこには莫大な暗闇があった。長い橋が架けられた島があり、シーキャンドルの灯台が周囲を照らし出していた。海風は潮の香りを運んでいた。つまり僕は浜辺にいるらしかった。一体今の季節はいつだったろう?でも不思議なことに全く思い出せなかった。いったい今はいつなんだろう。ここに僕がいる前後関係さえ思い出せなかった。それにここは暖かくも寒くもない。暑くもなく寒くもない日は当然ある。だけどこれとは違う。ここには気温がないんじゃないかと僕は思う。そしてこんなに周囲が暗いのもおかしな話だ。本当に灯台の明かりしか光がないのだ。あまりにも明暗がはっきりとしすぎている。暗闇は100%の暗闇で、灯台の明かりは100%の白さだ。それが定期的にぐるりと一周し、世界のカオスに瞬時、刹那条理を与えているみたいに思える。いつもは島全体や道路やビルかなんかで明るいのに、いったいどうしてしまったんだろう?まるで街は死んでいるみたいだった。 そのグリーンライトと月光だけが僕に見えるものだった。それ以外はなんとか見えるという程度だ。ここがもし僕の知らないどこかなら、僕はここが砂浜だということしか分からなかっただろう。


 だがそんなこともすぐに忘れ去られてしまった。灯台の照明が彼女を照らし出したからだ。風は彼女のネイビーのスカートを揺らしていた。黒と白のギンガムチェックのシャツに、ネイビーのベストとネクタイ、茶色のローファー。鈍色の髪は胸の辺りまで伸び、肌は白く見える。シャープな目鼻と顔立ち。整った眉。灯台のライトの反射をその瞳に映した見覚えのない制服を着た、見覚えのない人。けど一瞬だけ僕は何か、要を得た気がする。それは漠然として広大な理解だった。理由も前後もあったものじゃない。でも何故かは分からないけど、彼女が微笑んだ気もした。しかし次の瞬間、そこは見覚えのない部屋になっていた。緑色の壁紙なんて初めて目にした。窓は全面ガラス張りになっている。遮光カーテンしか引かれていない。どうやらダブルのベッドに一人で寝ていたらしい。寝ぼけ眼をこすりながら立ち上がり、カーテンを開くとそこには一面のビル景色に時計塔と、観覧車が見えた。僕は時計が置いてあるのに気付き、今の時刻が朝の十一時なのだと分かった。現実味のないまま部屋を歩いてみる。ドアのない方にはバスタブが真ん中に置かれてあり、シャワー室になっていた。他には二手に別れたクローゼット。リビングルーム、トイレ、洗面所。そこで僕は鏡の中に目がいった。それはとてもおかしな光景だった。つまりそれは僕ではなかった。誰かは鏡の向こうから僕を見ている。驚き半分と興奮半分で僕は固まってしまった。いったいどうなっているんだ?そいつは驚き、警戒した眼差しをしている、僕は必死に言い訳を考える。その、気付いたらここにいて…みたいな文言が僕の口から飛び出したと思われる。全く我ながら情けないセリフだ。でもその声も到底僕のものとは思えなかった。なんだこれは、まるでパーティー用の声変わりガスを吸ったみたいだ。だがそれより、一体ここは何処なんだ?とうとう僕は自分が何処にいるかさえ分からなくなってしまったらしい。外の景色には違和感しかない。クローゼットを見てみると見知らぬ制服が入っていた。そしてさっきから置いてある枕元にあるテーブルの銃が目についたところで目が冷めた。


「…やっぱり夢、か。」

目を覚ますとそこは自室だった。僕はベッドにいた。その夢の残した確かな感触と、不思議な感情の残り火を胸に抱きながら起き上がると、部屋の明かりをつける。そして部屋を見渡す。なんということはない、今までの僕の集大成が現された、特徴というものもない一室。僕はある程度定期的にいらないものを探す。それは資金や部屋の広さに飢えていたからかもしれないし、個人的な趣味がないからかもしれない。部屋にはソファにもなる折りたたみベッドがあり、机とガラス戸の本棚がある。どれも昔両親に買い与えられたものだ。そこにはあまり思い出も愛着がない。本棚は引越し前の廊下にあったものをもらい、ベッドは初めて姉と別の部屋をもらった時にあまり高価でないものを買い与えてもらった。でも姉と違う自分だけの部屋が貰えたことは嬉しかった。窓の向こうのベランダは広かったから暑すぎたり寒すぎたりしない日には、気が向けばそこで横になることもあった。液晶モニターは映画や動画を自室で大画面で観るため自ら購入した。クローゼットの中の服は定期購読している雑誌や何かのスナップに影響されてバイト代から買い叩いたものだ。それらは半分以上は実用的なものだが残りは実験的で、好奇心によって買われている。同世代の男子を平均とした場合、僕はいささか服を買いすぎるかもしれない。机の上は殆ど何もない。壁にはカレンダーだけがある。本棚にはサブカルチャーが少しと、本が置いてあるが量は棚一つ分だ。世間ではミニマリストというらしいがどうだろう。ダンベルが二つ大小で転がっている。ユーズドのものを購入した。あとは雑誌。ヘッドフォンとイヤホンがあるが高価すぎたりはしない。音質はある程度のものを必要とするが、それはとびきりじゃない。とびきりのものを買うには資金も足りてなければ、音楽への好意も足りてない。どれも代替可能だ。そして部屋はメイドさんのお陰で綺麗に保たれている。駄目だ、下らないことを考えすぎる。夢を見た後はこうなりがちだ。


 最初の海の夢は最近何度か見ているものだ。放課後、僕は偶然委員会後の莉乃と遭遇し、一緒にとりとめのない話をしながら帰宅した。時計は夜の七時過ぎを指している。

「ごっしゅじーーん、ご飯ですよ〜。」

ちょうど夕飯の支度をしなければと思っていた時、彼女はやってきた。そう、僕はメイドを雇っていたのだ。僕は返事をすると立ち上がり、彼女と今日のことを話しながら食事をする。

「ご主人、お風呂入りました?」

「まだ。

そっちは?」

「私も。

じゃあお背中お流ししますよ。」

「狭そうだからパス。」

「でもご主人の洗濯物も私がしてるんですよ?」

「そんなこと今話してないよね。」

「恥ずかしがってません?」

「浴場が広くなったらよろしく頼むよ。」

「欲情?」

「ごちそうさま。」

「いただきますの間違いですよね?」

「じゃあ、夕飯を頂こうかな。」


 全く予期せぬ出来事には二パターンある。一つは直面すればすぐに気付く場合だ。何故ならそれは非常識で、非現実的で、普通ではない出来事だからだ。しかし二つ目の場合、人はその異常性に何故か気付かない。そして気付いた時にはもうその普通じゃない環境が普通になっている。それは二重の意味で予測が付かない。だからその巧妙さに人々は普通気が付かない。もし気が付いたとしても、その気付きを不思議に感じることになる。何故ならその瞬間、非日常性は日常性へと変わるからだ。そしてこう思う。

「どうして僕は日常を普通じゃないと感じていたんだろう?」

これが日々の、日常じゃないかと。非日常は何日も続けば日常となってしまう。

「かし君、おはよう?」

今朝の藤沢駅改札前。気付けば芝山千紘がいた。小柄で、地毛の栗色のミディアムヘアが特徴。彼女とは小学校からの腐れ縁で同じクラス、俗に言う幼馴染。

「おはよう、千紘。」

だが中学から彼女とはあまり話をしていない。仲が悪いのではないがなんとなく交流が無くなってしまった。二年生になって久しぶりに同じクラスになったし、僕らは朝会うとこのように登校を共にしている。昔から真面目な性格で、勉強と運動は結構出来る。僕としては気兼ねしないで済む相手だ。部活は茶道部と軽音部。中学で陸上部に入るまでは近所の音楽教室でドラムという形で音楽も嗜んでた。友達は多くないが、僕としても知らないことは多い。例えば去年暴力団関係者という噂が流れたのを僕は知らなかった。今思えば謎だ。だって彼女はそういうのとどう見たって対称的だ。ひょっとしたらいじめられてたのかもしれない。そう思うと胸が痛んだ。思うだけならタダとは良く言ったものだ。そして噂とは結局のところ、噂に過ぎない。僕は彼女と電車に乗った。二駅進み乗り換え、また二駅進むと高校の最寄り駅に着いた。もう十分歩くと自分のクラスに着く。

「かし君は部活を辞めてからも相変わらずだね。」

高二になって最初はどんなキャラでいこうか、とかなんとか考えていたこのクラスだったけど、二ヶ月が経過し三ヶ月目に近づけば、大体皆も自分もポジションは確立されていた。

「自己紹介でジョークを一つ飛ばした程度で人間変わったりしないよ。」

それからも僕らはとつとつと、互いが好きなように小話をした。単車線がゆっくりと相変わらず揺られながら、僕らは学校の最寄り駅に着く。目の前には駄菓子屋しかない、寂れた街。僕らはそこからまた歩く。学校に着くためには二度、その単線の踏切を超えなければならない。今までそんなことを考えたことはないが、考えてしまえばかなり面倒だ。そして案の定明るく耳障りな高音の警戒音がなる。

「あらら、もしかしたら遅刻するかもね。」

「まあ仕方ないさ。」

 

 ポールが下がる。


 赤い矢印がどこから電車が来るのかを示す。

 

 警戒音は鳴り止まない。


 そしてレールがごうごうと鈍く、甲高い音をたてる。


 これが僕の、今現在だ。

 

 校舎に到着し去年とは違う二年生の階を歩いていると、周囲が騒がしいのに気付く。どうやら転校生が来るらしいということを、同級生達は彼らの文法で話していた。転校生。どこかのクラスにはそういうイベントもあるらしい、高校で転校生なんて概念があるんだと感心しながら僕は彼女と自分のクラスに入った。僕の席には片瀬秋音が座っていた。仲の良い子や部活の同期からは「きゃたせ〜」と呼ばれている。実際そのあだ名のニュアンスが彼女の体をよく表してる。なんというか周囲よりも気持ち一度くらい高いキャラなのだ。おそらく僕とは二度くらい違うだろう。どうやらクラスメイトの紅晴と話しているみたいだった。でも彼の席も僕から別段近くはなかった。

「お前ら、僕の席で何してるんだ?」

「おはよう陵史、今日もいつも通りね!」

見ての通り彼女は明るさの塊だ。

「ああ、おはよう。」

「勝手に席借りて悪いな。

それと芝山もおはよう。」

そして相変わらずの好青年。

「うん、おはよう。」

「席つけー、HR始めるぞ~。」

担任の幸恵教諭が入ってくる。ここまではいつもと同じだった。

「今日は転校生の紹介からだ。

諸君、新入生の女子に礼儀正しく、紳士に接するように。

じゃあ、入ってきて。」

そしてここからは予想外の出来事だった、教室のドアは静かに開かれた。そして予期せぬ来人はゆっくりと、けれど確かに現れた。


 ローファーの小気味よい音を立てながら、非日常は日常を侵食する。そして非日常性のやっかいなところは、二つのパターンが並行して到来するところにある。


「リナ・アシュフィールドです。

一年の間、交換留学生としてイギリスから来ました。

宜しくお願いします。」

彼女はユキエという教員に促されクラスに入り、黒板に書かれたカタカナ表記の彼女の名前の下に、自身の名前を書いた後にそう言った。


 もちろん、僕にとってそれは全く予期せぬ出来事だった。白い縦のストライプが入ったネイビーのスカートとベスト。同色の無地のネクタイとソックスに、ライトグレーの校章の入ったジャケット。透き通ったブロンドの髪と青の瞳。そんな髪色はこの高校では年に一度の文化祭か体育祭で人工的に染め上げないとまずお目にかかれない。その激しい違和感が僕が惹かれた理由の一つなのかもしれない。しかしそれが今朝合った、夢の彼女だとは思わない。夢の光景なんて人はそんなに覚えていないものだ。薄い碧色の瞳は青と緑の中間のような色合いをしている。

「じゃあ、そこの一番後ろの席に座ってくれ。」

この教室は隣の席という概念がない。あるのは列くらいだ。でも隣の席の人間はそんなに距離があるでもない。私は言われた通りに歩を前に進めた。そしてそれは彼の後ろの席だった。その少年と目が合ったので私は会釈だけしておいた。隣の席の女子は凄くテンションが高そうだった。


 教室は休み時間になると、普段と違う状況にふさわしく、普段と違う盛り上がりを見せる。アッシュフィールド女史がクラスの女の子たちに囲まれ、出身地はイギリスのどこかとか、好きなものは等の根堀り葉堀りの質問に答えていく。

「めちゃくちゃ可愛いな、あの子」そう紅晴が囁いた。

「ほんと、凄く可愛い。

お人形みたい」千紘のセリフだった。

「ため息つくと幸せ逃げるぞ。

まあ、これは騒がしくもなるか。」

気付くとそこには莉乃もいた。存在感が薄すぎて二人共忍びになれそうだ。ジャパニーズニンジャと後ろに紹介してやっても良い。相澤莉乃は図書委員で軽音部。あまりぱっとしない経歴だが、決して運動神経が悪いわけではない。いつもクールでそっけなさそうな性格。黒髪のショート・ボブが特徴。いつもポーカーフェイスだから何を考えているのか全く分からない。千紘と仲が良い。彼女は転校生に何を感じているんだろう。転校生はずっと話続けていた。どうやらイギリス人にして日本語を完璧に使いこなしている。結局、放課後に担任から後ろの席で暇そうだからという理由で任された、というより押し付けられた校舎の案内まで僕は彼女と一言も話さなかった。


 全ての授業が終了しHRが終わると、クラスメイトは部活へと向かった。

「アシュフィールドさん、樫江です。

校舎の案内をしても?」

「はい、お願いします。」


 緊張はお互いにあったのを私は進んで認めようと思う。でも何が違うのかというと、それは彼、カシエ君が私に視線を合わせなかったことだった。視線はたまに彼の校舎案内の際に一度絡み合い、すぐ解かれた。

「校舎の構造はとてもシンプルなんだ」話はそこから始まった。

「去年新校舎建て替えの話と設計図が公開され、こうして無事実現したんだ。

良いタイミングで来たね。

こっちが東棟の二階、主に僕ら二年生がいる。

下は一年生と図書室、購買と学食、音楽室もある。

公立高校に学食があるというのはこの時期に辺ぴな田舎の公立校に転校してくる外国人くらい珍しいから、機会があるなら是非行くことを勧めるよ」そう言ってから、彼は眉をしかめる。

「・・・まあ、値段も味も申し分ないから、僕も利用するよ。

向かい側の西棟へは真ん中が連絡通路になっているからそこから行ける。

アルファベットのHの形をしているからこっちも向こうも建築は同じ。

職員室は来校者として入った西棟の手前の二階にあるよ。一階は三年生・・・・・・」校舎から人が減ったから歩きながら説明していく。

「何か分からないとことかはある?」

「いいえ。

大丈夫、分かりやすいです。

ただ・・・樫江君って。」

「僕?」

「変わった物言いと、変わった目をしてるんですね。」

彼は驚いたみたいだった。

「失礼、さっきの言い方は確かに良くなかったな。

何も君を小馬鹿にしてるわけじゃない。

悪い癖で、つい要らないことを言ってしまうんだ。」

「お気になさらず。」

「榛っていうんだ。」

「はしばみ?」

「そっちではヘーゼルっていうね、たしか。

この目の話。」

「なんにせよ、日本人には珍しい色ですよね。」

「そうかもしれない。」

榛色の目。日本人にしては珍しい目だが、かと言って違和感があるわけではない。茶色の目より少し明るいというだけで、その光彩に光が反射し輝かない限り、動揺もしない。私は家にある一体の鎧を思い出した。中身ががらんどうで、行動を規制されたただの飾り、それはハロウィーンの出し物みたいにも見える。

「まあ目の色は置いといて、気になることがあったら遠慮せずに聞いて。」


 北英高校には上履きといったものが存在しない。謂わば一足制というやつだ。これには二つ理由がある。一つは外国式、ということ。つまりリナのような外国人が来たとしても、校舎の過ごし方はあまり変わらないことを想定している。といっても、外国人の留学生はあまり多くない。学年に一人いるかいないか、夏休みなどの長期休暇を利用して短期留学に来るか、といった程度である。たしか昨夏はウィトリッヒという学生がスイスから留学に来ていた、それ以来だ。よって彼女が来るまで、我々にとっては留学生というのは幻想の産物に近かった。実際彼の学年に黒髪でない生徒はリナしかいない。

 もう一つは単に治安がいいから、である。だから、もし他校のように上履きなんてものがあったら、きっとその日、僕は困ったことになっていただろう。


 本当は彼女について話がしたかったが、思い直してやめた。どんな人なのかは当然興味があるけど、この場に僕らがいる理由はお互いについて話し合うためではなかったからだ。でもこんな中途半端な季節に転校してきたというのは引っ掛かっていた。外は朝あんなに晴れていたのに、微かに雨が降り始めていた。それは何処までも静かな時間だった。


「大体分かりました。

今日はわざわざありがとう。」

「気にしないで。

これからもしばらくは周りが放って置かないと思うけど。」僕はテイク・イット・イージーと言う。

「まあ、そのことは考えても仕方ないですよね。

案内してもらったら職員室に来るように幸恵先生に言われてて。

樫江君は部活、間に合いそう?」

「それなら問題ないよ、僕は帰宅部だから。」

「キタクブ?」

「・・・高校から自宅まで毎回タイムを図って自己ベストを更新することを目標としたワンマン・スポーツ。」

私は何故だかそれが以外で驚いた。

「そうなんですか?じゃあ、また明日。」

「うん、学校で」そう言うと家へ向かった。

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