最低最悪の毎日の、最高最良の一日①

 「おおおおおお!」

普段全くと行っていいほど動かさない体にむち打ち、俺は走りに走った。それでも、朝山の姿は見えない。あいつ、どれだけ速いんだよ。

「カッカッカ。寝坊かい?」

「婆さん……!」

 橘蓮華。拓人騒動の解決に一役買ってくれた、怪しい事象占い師である。

「ちょうどよかった。婆さん、車持ってないか?」

「ワシが持ってるわけなかろう?」

「だよなー」

「失礼なガキだねぇ。昔は持ってたんだよ。競馬の足しにしただけさ」

「とんでもねえギャンブラーだ……」

「そんなこと言ってる場合かい? 遅刻しそうだから、走ってたんじゃないのかい?」

「そうだったやっべ!」

「カッカッカ。儂の占いは当たるのさ」

 橘蓮華は骨ばった痩せた右手を差し出す。

「金」

「占いっつってもただの推理じゃねぇか! そんなので金とるなよ! 通報するぞ!」

「今月家賃が」

「一介の高校生の良心に訴えかけるな! 身内は?」

「息子夫婦から限度額まで貰った」

「オーケー、これ以上はやめておこう……ってやっべえ! 一限まで残り三分だ!」

「丁度いい、朝飯にカップラーメンでも食べるとするかの」

「婆さん、俺にもくれ」

 

 人間開き直ったら、意外となんでもできるものである。

 例えば、授業が始まる時間帯に、通学路の脇道の路上で、怪しげな婆さんと二人、カップラーメンを貪ることとか。

 「昨日の自分を超えろ」だとか、最近の社会は過去の自分との決別、そして変容をさもいいことのように扱っているが、まさかこんな変容があるとは思わなかっただろう。


 「ところで婆さんは、なんでまたこんな儲からない仕事やってんだ?」

「……聞くかい?」

「時間はあるんだ、聞かせてくれ」 

「年寄りの長話だ。金は取らないでやるよ。もっとも、カップラーメン代は貰うがね」

「何円だ?」

「千五百円」

「店のほうが安い!」

「ワシがこの仕事を始めたのは、十八年前の、七月二十四日だった」


 それは、奇しくも俺の誕生日だった。




 当時の橘蓮華は、十八年分若く、探偵事務所の経理をしていた。

「……って、探偵事務所?!」

「そう。探偵事務所。昔は今より数が多くてね、割とポピュラーな仕事だったのさ」

「へえ、意外……」

「とはいっても、明智小五郎みたいな、殺人事件の捜査ばっかりの事務所ではなかった。時代が時代だからね。大体は浮気調査さ」

「平成の世に怪人二十面相がいてたまるかってもんだしな」

「……それがね、いたんだよ」

「いたの?! さっきから俺驚かされっぱなしなんだけど!」

「言葉が足りなかったね。位置づけの話さ。所長を明智小五郎としたら、のね」

「今は胡散臭い占い師ってことは、もう探偵事務所で働いていないってことだよな?」

「……そうさ」

「所長は今何してんだ? 自分とこの従業員が詐欺まがいなことしてんのに見過ごすなんて、正義の人間のやることじゃないぜ」

「死んだよ」

「……え?」

「平成では、明智は怪人に負けたのさ。殺されたんだ」

「そんな……」

「蓮見―所長は、最期の最期に、儂だけは逃がしてくれた。だが、ワシは二度と表舞台に出られない。息子夫婦にも、来年生まれる孫にも、会いに行けない。

……面白半分で捜査ごっこを始めたのが、運の尽きだったんだ。殺人事件なんて、専門外だったのに」

 俺は、返す言葉が見つからなかった。でも何かは言わないといけない気がして。それでも、思いつかなくて。無理やり、謹慎とか不謹慎とか考えないで、言の葉を絞り出す。

「墓参り、今度一緒に行こう。婆さん一人じゃしんどいだろ」

「……死体はまだ見つかってないのに、どうやって参るんだい」

 俺はもう、何も言えなかった。

 数分前のおかしなテンションが、まるで嘘のようだった。

 都会の喧騒も次第に鼓膜を震わせなくなり、静寂が俺達にのしかかった。


 「……なんてな。全部ウソさ。アンタは早く学校に行きな。心配したり、怒ってくれる人が、アンタにはまだいるんだ。……大切にするんだよ」

「……」

「カッカッカ。なんて顔をしてるんだい、クソガキ。いつものシケた顔が台無し―いや、いつもよりは生気があるか―アーッハッハ!」


 俺の人生は、物語ではあるが、作品ではない。俺が主人公であるならば、ここで「怪人二十面相を探して、所長の仇を討とう」などと言えるのだろうが、所詮、俺は一介の高校生。何かができるわけじゃない。動物殺しの犯人は捕まえたことはあるが、人間殺しは話が別だ。狂気の度合いが違う。

 だから。

 だから俺は、帰ろうとして路地を戻っている時、まるで喪服のような黒スーツの男二人とすれ違っても、元探偵事務所経理の婆さん、橘蓮華の、「クソガキ、そいつらは私の元同僚さ。おいお前たち、そのガキは無関係、ただの客さ。手を出すんじゃないよ」という言葉に背中を押され、後ろ髪を引かれる思いで、路地裏を後にした。

 

 俺が路地裏を出たと同時に、発砲音がした。

 酒でも開けたのかな。朝から景気が良いな。


 なんて考えられるほど、希望的観測にまみれた人生を、俺は送っていないのであった。


 「婆さん! 無事か!?」

俺はいても立ってもいられず、路地裏に走り戻った。自分の身など顧みず、だ。


 直後俺の目に入ったのは、橘蓮華の、変わり果てた姿だった。








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