期待外れな毎日の、つまらない一日
こんなはずじゃなかった。
ようやく長い授業が終わり、帰り道を歩きながら思う。
一年半前の予想と現実が、大幅に離れている。今頃は億万長者になって学校を中退し悠々自適な生活を送っているはずだったのに。
金を受け取ることを断固として断る藤岡に、手伝い料として毎月購入している商品券の額も馬鹿にならない。俺は藤岡のお陰でこれまでやれているのだから、それだけは欠かすことができない。
結局今のところ、手伝い料やその他出演者への報酬等経費を差し引いて俺が得られている金額は、中学生のお小遣い程度だ。
三年生になるまで、残り半年もない。俺は焦りを感じずにはいられなかった。
動画投稿のことは、親はおろか学校の連中(藤岡を除いて)の誰にも言っていない。
もっとも、もし言っていたにせよ、「何だそれ?」と言われるのがオチだろうが。
さて、どうしたことか。
親は俺に進学を強く勧めてくる。大学進学の金も、何なら留年した場合予備校の金も出すとまで言ってくる。
なんでまた進学校になんか入ってしまったんだろう。中学生の頃は、今とは違って大層な向上心でも持っていたんだろうか。
もう忘れてしまった。あの頃の俺が今の俺を見たら、どう思うだろうか。
憂鬱な気分に浸っているうちに、家に着いた。
玄関の引き戸を開けると、普段見慣れない靴がある。
父親のものだ。何故この時間帯にいるのだろうか。体調不良?それともリストラ?
際限なく嫌な可能性が浮かんでくる。漫画で見たこれから家庭が崩壊していくさまを思い出して、手に汗が滲む。
「翔真、帰ったか。こっちへ来い」
父親の声がした。リビングから呼んでいる。
「親父、なんでまたこんな時間に家に?」
「いいから、来い」
素直に従いリビングへ行くと、父親と母親がソファにテーブルを挟んで向かい合う形で座っていた。テーブルには緑色の印字の紙が置いてある。
離婚届だ。
途端、世界から音が消える。否、耳鳴りなのか、耳の奥で「ブゥーン」となにかが壊れるような、嫌な音がする。
俺はなにか口にしようとするも、喉が急激に乾いて掠れた音しか出ない。
そんな俺を、父親と母親は神妙な顔でじっと見つめていた。
無理やり呼吸を落ち着かせた頃には、五分ほど経っていた。
体感なので、実際はもっと長かったかもしれないし、短かったのかもしれない。
「…なんで…?」
「翔真、あのね」
「母さ…いや、お前は黙っていろ。お前が話すと埒が明かない」
「なんですって?!もとはあなたがー」
「そうやってすぐヒステリーを起こす!それがお前の悪いところだー」
「待って!落ち着いてふたりとも!まずは一人ずつ話そうよ!」
「翔真の言う通りだぞ。いい加減落ち着きなさい」
「あなたねぇ!」
「待って待って待って!ーっと、じゃあ、まずは親父から…」
父親の話を聞き、その後母親から聞いたことをまとめると、俺の教育方針で揉めた、ということだそうだ。母親は、俺を有名な大学に行かせたいが、父親は自分の工場を手伝わせたいのだそう。
…ふざけてんのか?なんでお前らが俺の将来を勝手に決めてるんだよ。どっちも願い下げだ。あの場で「俺は動画投稿者として食っていく」と言いかけてしまった。
出演者とのトラブルを避けるため、出演者との連絡や報酬の取引は全てネット上で行っている。
もちろん、動画で俺や藤岡が顔出しや声出しなどの形で出演することもない。お互いの正体を知るのはお互いだけだ。
だからこそ、こんなところで正体を知られるわけにはいかないのだ。
話の最後にはどちらについていきたいかと、テンプレな質問をされたが、めんどくさいので祖父の家に行くといった。
祖父というのは父方の祖父のことで、母方の祖父は俺が生まれる前に亡くなっている。
祖父は現在父親が経営している工場を営む会社の創業者で、社長の地位を父の兄、すなわち俺の叔父に譲ったあとは渡米し、俺が羨望するものとほぼ完全一致する悠々自適な生活を送っている。
つまり俺は、「俺はどちらの言う通りにもならない」ということを暗に示したというわけだ。
彼らに伝わったかと言われると、微妙な表情だったので分からないが。
親の離婚。
ちらりと見たところ、離婚届にはまだ何も書いていないようだったが、本当に離婚することになったら、かなりめんどくさい。
子供が成人前のこの時期に離婚されるのは、子供にしてははたはた迷惑な話だ。
俺には友人と呼べる存在がいないから名字が変わるのは構わないが、金銭や住居の観点から、俺には父親についていく以外の選択肢が存在しない。
祖父のところに行くにはパスポートを取らなければならない。
母親の実家は貧乏だ。対して父親は金は持っているが、出してくれるとは思わない。
俺は父親が嫌いだ。
親の会社に勤めさせてもらっているくせに態度だけはでかい。かねてから叔父との待遇の差を根に持っているようだ。(ちなみに父には弟もいて、もれなく父より会社内の地位は高い。)
胃がムカムカしてきた。
二階に上がり、自室で休もうとベッドに横たわったとき、一回から母親の金切り声が聞こえてきた。
また喧嘩が始まったらしい。またどっちについていくかを聞かれたりするのは面倒なので、財布とスマフォだけ持って、適当にその辺をぶらつくことにした。
さて、どこへ行こうか。ゲーセンに行く金もないし、この街はたいした店もないから、消去法で、あとは本屋だけだ。
あそこは店主がかなりの高齢で、立ち読みしてても怒られないので、この街の貧乏学生全員の御用達の場所だ。
本屋は学校の方向にある。学校に行くわけでもないのに通学路を通らねばならないという苦痛に耐えながら、小一時間前に通った道を引き返していく。
昨日、得体のしれない占い師の老婆に話しかけられた場所を通る。そこに老婆はいなかった。あまりにもインチキな商売をしたため警察にあのまましょっぴかれたというのが相場だろう。
…「女難の相」とか言っていたな。あれは母親のことだったのだろうか。それとも…
「ごめーん、待ったー?」
俺は思わず顔を上げた。顔が無理やり作ったぎこちない笑顔のまま固まる。
俺の人生が学園青春ラブコメならば、ここでクラスメイトの誰かと遭遇したりするのだろうが、まあそんなはずはなかった。
結論から言うと、俺は他人がその友人にかけた声に気色の悪い笑顔を以って応対した、というわけだ。
恥ずかしいったらありゃしない。
穴があったら入りたい。
刀があるなら切腹をしたい。
「誰あの人?」「知らなーい」という声を刃物を刺されているような心地で背中で聞きながら、俺は本屋への道を急いだ。
まったく、この街はどこへ行っても、人、人、人と人に埋め尽くされている。
東京より田舎に住んでいる人間は東京に憧れるそうだが、俺は田舎に憧れる。俺のような社会不適合者的人間は、この街、この土地に相応しくない。俺はここが嫌いだし、ここも俺のことが嫌いだろう。
いかん、また心が沈んできた。丁度本屋にも着いたところだし、なにか面白いものを立ち読みしよう。
突然だが、心が男子である諸君なら分かると思うが、(女子もいるのかもしれない)雑誌コーナーを通り過ぎてコミックコーナーに行こうとするとき、やたらエロ本が気にならないだろうか。
黒色の上に赤や黄色の文字でR18と書かれた仕切りで他の本と隔たれたそれらは、俺には何らかのオーラを放っているように見える。神々しさまで感じる。アフロディーテ様、そこにいらっしゃるのですか?
エロ本の合法化まで残り半年以上。そんなの待っていられるだろうか、いや、そんなことはない。俺も17歳だ。18と偽ってもばれるまい。辺りに他の客は見当たらないし、店主に咎められる心配もない。これはもう見るしか無いのである。そのことに義務感さえ感じる。
これまで、長かった。スマフォの制限が厳しく、それ系のものはあまり見られなかった。クラスの陽キャ男子集団が俺の机の周りで猥談に花を咲かせる中、俺は本を読みながら昨日読んだ水着写真集のことを思い出していた。
遂に、ついに見られる日が来たんだ。
俺の人生のこれまでの不運は、すべてこの瞬間のためにあったのかもしれない。
この世界に感謝の言葉をつぶやきながら、目を引く背表紙の本を本棚から抜く。
さあ、エロースの世界へ―
何度でも言おう、俺の人生はクソだ。
あの占い師が言ったことは当たっていた。
女難は、母親のことじゃなかった。
「あらまぁ〜」とわざとらしく口に手を寄せてニヤニヤとしながら俺を見るこの女のことだ。
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