〈11〉 ③

 汗だくになって、途中でダッフルコートを脱ぎ捨てました。荒い息が真っ白な塊になって夜に解けて行きます。

 ようやくたどり着いた父の仕事場は、まだ静かでした。福留の兄貴分たちはまだどこかで足止めを食って戻っていないのです。

 大っぴらに消えた薬物の捜査などできるはずがありません。なによりも、本当にさなえや彼女の母を疑っているのならば、あのゴミだらけの部屋に踏み込まなければならないのです。

 だからといって、それほど時間の猶予があるとは思えません。

 歩は笑う膝を叱咤して三階まで駆け上がります。

 さなえは、まだそこにいました。薄っぺらい学生鞄と大きなスポーツバッグ、そして歩のリュックとに札束だの書類だのを詰め込むのに忙しいようです。見れば、歩の塾の参考書がそこら中に散らばって、踏み潰されています。

 その中に、父がうつ伏せで転がっていました。逃げようと床を掻いたのか、血の筋が薄茶色く彼の周囲を汚しています。

 歩は父を跨いで、いつも、さなえがAVチェックをしている机の前まで行きます。

 響子が、横たわっています。こちらはまだ生きているようです。見せつけるように、響子の顔の傍にテレビが置かれていました。

 犯され、暴行され、赤ん坊を産み落とす響子がテレビの中でのたうっています。

 歩の足下に転がる響子の腹も、血で濡れていました。ついでとばかりに、さなえが刺したのでしょう。大きく痙攣したり、ひょうひょうと笑ったり、そうかと思えばふっと真顔になったりと、響子は忙しなく死へ近づいていました。

 そんな母親の死に際にすら、さなえは興味を示しません。あらゆる場所に血で手形を残しながら、彼女は金を詰め続けています。

 歩は、事務机の島を回り込みます。さなえの手を取ります。小指が千切れかけた彼女の左手に、右手を絡めてつなぎます。

「なぁに?」酔った呂律で、さなえは笑います。

「さなえちゃん、捕まっちゃうね」

「え?」さなえは静かになった母親と、歩の父と、事務所の惨状を見回します。「ああ、そうか。この惨状だもんな。うん。いや、ううん、捕まらないよ」

 さなえは歩の手を振りほどきます。力一杯突き飛ばします。

「捕まるのは、おまえだよ。父親殺し、AV女優殺し、わたしへの傷害」

「なに言ってるの?」

 さなえは黙って歩の右手を指しました。福留の血で濁った匕首があります。

「おまえが、あたしの罪を被ってくれるんだろう? 友達なんだから」

 友達、と歩は呟きます。

「ともだち、友達……」嘆息が漏れました。「友達っていうのは、大切にするものなんだよ、さなえちゃん」

「大事にしただろう? 一緒にいてやったじゃないか。あたしのこと、好きだろう?」

「うん」

「あたしは、大っ嫌い」

「……うん」

「あたしから、全部奪ったよな、おまえ」

 歩は顔を斜めにして、さなえを見詰めます。彼女の、今にも泣き出しそうに歪んだ顔を、愛おしく想います。

「社長が手元に置いた女の子は、あたしだけだったのに。レディースだって、おまえが勝手に話つけただろ。あたし、恥かいたんだぜ? ヒロム姉に、あたしが抜けたことになってるって聞いてさ。あたし、他にドコにも行けないのにさ。族抜けの制裁ひとつ受けずに抜けた腰抜けを、小学生に族抜けさせられたあたしを、誰が相手してくれるっていうんだよ!」

「わたしが」

「そうだよ! おまえしか、いないんだよ! おまえが、そう仕向けたんだよ! あたしから他の全部を奪ったんだよ!」ひっくり返ったさなえの絶叫は、一拍の間を置いて自嘲を帯びます。「おまえはいいよ? 家に帰ればいいんだもんな。このザマだって」両手を広げて事務所を見渡します。「どう収拾つけんだよ。あたしが、追われるしかないだろ。一生、逃げろって?」

 歩は立ち上がり、さなえに近づきます。さなえは後退ります。

 手を伸ばして、振り払われました。何度もなんども、歩は手を伸ばします。さなえの、左手を捕えます。

「ずっと一緒にいようよ、さなえちゃん。ずっと、わたしがいるよ?」

「嘘つくな……。おまえは薄情者だ。あたしを助けない。絶対に、裏切る」

「裏切らないよ」

「じゃあ、証拠見せろや」

「いいよ。なにすればいい?」

 さなえは自分の手を──小指がとれかかっている血まみれの左手を、見下ろします。それを握る歩の手を見たのかもしれません。

 数秒の沈黙のあと、さなえは床に顔を向けます。歩の父と、さなえの母が転がっています。

「おまえ、まだ帰る場所あるよな」

 母のことでしょう。

「おまえひとりだけ、ずるいだろ?」

 ──殺してこいよ。

 さなえの唇が、音もなくそう動きました。

「いいよ」歩はさなえの手首を引き寄せます。「約束、しようよ。一緒にいるって」

 さなえの顔に、自分の顔を寄せます。

「約束?」とさなえの唇が戦慄きました。

「約束」歩はさなえの唇に直接答えます。「ゆびきり、しようか」

 さなえの左手を、机に押しつけます。

 はっとさなえが我に返りました。振り上げられたさなえの右手を、歩の匕首が掠めます。わずかな痛みに怯んだ隙を、歩は見逃しません。

 匕首の刃を叩きつけます。机と水平に刃が落ちます。

 さなえの小指が、飛びました。さなえの絶叫が、今さら迸ります。

「ふざけんなっ! クソが! 死ね! 殺すぞ! クソガキ!」

 渾身の力で歩を突き飛ばしたさなえが、札束の詰まったスポーツバッグを抱え込みました。無事な右手が学生鞄をつかみます。そのまま、さなえは駆け出しました。母親に蹴躓き、歩の父を飛び越えて出口を目指します。

 けれど。

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