〈11〉 ②

「社長」福留が静かに囁きます。「女相手にムキになることもないでしょう。こいつはシロですよ。捜索班からの報告を……」

 待ちましょう、と続くはずの声が、途切れました。さなえが福留に抱きついています。

 遅まきながらも庇う様子を見せた彼に感動したのか、という甘い考えは、すぐに否定されました。

 さなえが尻餅をつきます。福留が、突き飛ばしたのです。

「こんのっ、くそ女……」

 福留は腹を押さえていました。棒が──さなえが先ほどまで振り回していた匕首の柄が、突き出ています。深々と刺さったそれを押さえて、彼は後退ります。

 躊躇なく、父の銃口が上がりました。

 でも、さなえが跳ね起きるほうが先でした。勢いよく、さなえの頭突きが父の股間に当たります。

 破裂音が炸裂しました。父が引き金を絞ったのです。二発目はありません。

 父は呼吸を詰めて、声もなくしゃがみ込みます。股間を押さえてうずくまります。無防備な背中が痙攣していました。

「元はと言えば!」

 さなえが、机の上からハサミを取り上げました。ごく普通の、なんの変哲もない紙切りばさみです。さなえはそれを両手で握りしめ、父の背中に振り下ろします。ケジメをつけるのだと叫びながら机を刺していたときと同じ勢いで、父の背に何度もハサミを叩き込みます。

 もはや、さなえの瞳は狂気に支配されていました。

「てめぇのせいだろぅがっ! だいたい、男なんて、こんなにわかりやすい急所をぶら下げてるくせに! なんで女に勝てると思ってんだよ。男がナンボのもんじゃ! なにが、女相手にじゃ!」

 立ち尽くす歩の腹がぐっと圧迫されました。くせっ毛が胸元にあります。福留の頭でした。腹から匕首を生やしたままの福留が、歩を担ぎ上げています。

 叫び続けるさなえを置き去りに、福留は歩を抱いて階段を駆け下ります。激しい振動で喋ることもできません。為す術もなく福留の背にしがみつきます。

 福留は歩をセドリックの運転席に押し込めると、そのまま自分も乗り込みました。福留の体に潰されながら、歩は助手席に這い出ます。

「社長はもうアカン」

 エンジンが掛かりました。遠慮会釈なく踏み込まれたアクセルに応じて、セドリックが車道に飛び出します。クラクションが聞こえた気がしました。

「じきに兄貴たちが戻ってくる。女に刺されて死ぬなんて、絶対モメる」

 赤信号を突っ切ります。

「いいか。あんたはなにも見てない。なにも知らない。今夜のことも、俺たちのことも、忘れろ」

「それは……わたしが女だから?」

 福留が歩を見下ろしました。ずっと「坊ちゃん」と呼んでいた福留は驚いたようすもなく「そうだ」と噛みしめるように言います。

 いつの間にか彼の、父に似たしゃべり方が崩れていました。

「この業界での女は商品だ。金に換える物だ。男の世界に、あんたは要らない。親父はあんたに仕事をさせたがってたが、親父が死んだ今、誰もそんなことは許さない」

 一息に言い切って、福留は急ブレーキを踏みました。ダッシュボードに肩から突っ込んでから、歩はここが自分の家からほど近い大通りだと気づきます。

 運転席から身を乗り出した福留が助手席の扉を開けました。

「このまま家に帰って、母親と普通に暮らせ」

「うん」と歩は俯きます。

 福留の腹から生える匕首の柄に、触れます。血で滑りました。ダッフルコートの袖を伸ばして、自分の掌を包みました。再び匕首を握り直します。

 福留が、歩の手を見下ろしました。

 匕首の柄を握った歩の手を確かめるように、熱い手が、血に濡れた彼の指が、そっと触れます。

 歩は体を引きます。ぞろり、と匕首の刃が肉から滑り出ます。

 はっと福留の口元が自嘲に歪みました。

 歩は匕首を握ったまま車から降ります。見る間に血がシートに溢れます。福留が、運転席側の扉に凭れました。

 はは、と笑い声が聞こえました。

 歩は助手席の扉を閉ざして、福留を遮断します。

 セドリックがゆっくりと動き出しました。ブレーキを踏んでいた福留の足が外れたのでしょう。

 後方から来たタクシーが大慌てでハンドルを切りました。その後ろから来たワゴン車が勢いよくセドリックを弾き飛ばします。

 セドリックの窓ガラスに血が飛び散りました。くるくると回転しながら対向車線まで吹き飛んで、電柱に食い込んで停まります。

 歩は抜き身の匕首を手に走り出します。セドリックで運ばれて来た道を全速力で引き返します。

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