〈11〉 ④

「なんやうるさい思たら……」

 六堂が、出入り口を塞いでいました。小柄な体が、こんなときばかり大きく感じます。

 六堂はおっとりと歩に頷きました。さなえの体を押しのけ、歩の父の体を「えっこいしょっ」と大仰な仕草で跨ぎ、歩の手を両手で包み込みます。

 熱い手でした。歩の手が緊張で冷えているのかもしれません。

 目を細めた六堂は、優しい力加減で歩から匕首を奪い取ります。歩の肩を撫でさすり、「さあ」と出口へ押しやります。

「帰んなさい。あとは、おっちゃんがやっとくさかい」

 犀の角、と歩を呪ったときと同じ穏やかで、有無を言わせぬ力強い抑揚でした。

「おっちゃんはな、こういうときのために、おったんや。ホンマはもうちっと大きい仕事を期待しとったけど、平田くんの子を助けるんなら、まあ、ええやろ。この組も、ヤクザ業も、もう斜陽や。たたみ時いうんは逃したらアカンねん」

 弾かれたようにさなえが駆け出しました。素足がペタペタと階段を駆け下りていきます。

「追いかけんでええんか? アレは、捨てんのか?」

「捨てない」歩は即答します。

「ほな、大事にせぇや。大事なモンは、すぐ無くのうなるさかい。捨てるモンは自分で選ぶんやで。捨てたらアカンもんは、大事にせぇ」

 歩は、壁際に飛んでいたさなえの小指を拾います。大切に握りしめて、駆け出します。響子も父も飛び越えて、階段を駆け下ります。

 さなえの姿は、もうありません。

 遠くでサイレンが響いていました。通りを薙ぐ車の前照灯が駐車場を切り裂いていきます。

 ヒステリックなエンジン音が近づいてきました。福留の兄貴分が戻って来たのかもしれません。

 歩はさなえの小指をポケットに入れて、走ります。

 大通りまで出ると、多くの車が走っています。人通りはまばらでした。

 歩は自分の姿を見下ろします。ダッフルコートを脱いだおかげで、返り血はさほど浴びていません。寒空の下、シャツとパンツ姿は目立つだろうか、と数秒考えたとき。

 がしゃん、と金属音がしました。咄嗟に身構えます。

 母が、いました。自転車が転がっています。

 ああ、と歩は今さら母の存在を思い出しました。

 おそらく家に歩が居なかったために探していたのでしょう。自転車のカゴには歩がどこかに脱ぎ捨てたダッフルコートと、母のコートが一緒くたに詰め込まれていました。

「アンタって子はっ!」

 駆け寄って来た母は、大きく腕を振り上げて歩の頬を張り飛ばしました。じん、と熱い痺れが広がります。

「なにしてんの! 心配したでしょ! なにしてたん! こんな……」

 時間まで、と母は歩の肩に埋めた口で呻きました。汗の臭いがしました。化粧も崩れています。

 ああ、母は自分を飾ることよりもわたしを選んでくれたのだ、と歩は悟ります。冷ややかな悟りでした。今さら、と想わざるを得ません。

 歩はポケットの上から、さなえの指を探ります。歩が選んだたったひとりとのつながりが、そこにありました。

 ふたりの脇を、立て続けにパトカーが走り抜けました。

 体を離した母は、歩を隠すように車道側に体を向けました。

 その背に、歩は怯えを見ます。歩のコートに着いていた血を見たのでしょう。それを問い質すことを避けているのを感じました。

 母は、怯えているのです。恐れているのです。

 歩がなにをしたのか、ではなく、歩が自分から離れていく予感に怯え、目を逸らしているのです。

 歩は母のシャツの裾を摘まみます。びくり、と母が硬直しました。

「大丈夫」と歩は誰にともなく告げます。「大丈夫。もう終ったから」

 歩とさなえを引き離す全てが、終ったのです。歩はもうたったひとりを選び終えたのです。それは母ではありませんでした。

 母が、歩の手をシャツから引き剥がし、握りこみました。お互いに冷たい手でした。

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