第4話 十二歳──彼女の指
〈9〉
〈9〉 ①
あのお祭りの日以来、歩は金魚を飼おうとはしませんでした。母は新しい金魚を買ってあげると何度か言いましたが、断りました。
さなえが歩のために捕ってくれた金魚はあの一匹だけなのです。
母は夜遅くまで帰らない日が増えました。高校に出勤する際にもスニーカではなくパンプスを履いて行くようになりました。唇には鮮やかな紅が引かれています。
母は美しくなった、と歩は他人事のように考えます。
母が出掛ける頻度は上がりましたが、父が歩の面倒を見るために母に呼ばれることはなくなりました。
「もう六年生なんだから」母はそれが世界の常識のように言います。「お父さんなんか要らないでしょう? 歩はひとりで過ごせるじゃない」
サイの角のように、という幻聴が聞こえます。昔、初めて父の仕事場を訪れた際に囁かれた呪いです。
犀の角のように、ひとりで人生を歩め。あらゆるものを捨てて、ただひとりで高潔に生きなさい。
歩の名はそういう意味なのだと呪ったのは、父の仕事場に住み着く薄汚い男でした。
父の仕事の相談役だという触れ込みでしたが、歩はあの男が役に立っているところを見たことがありません。事務所の冷蔵庫に入っている誰かの食料を勝手に食べ漁り、父に小遣いをせびってはパチンコですってくる、寄生虫です。
そんな男によって歩の生き方が決められてしまったような屈辱感が、つきまとっていました。
母が帰らない夜、歩は父の仕事場へ赴くようになっていました。
あそこに行けば、ひとりではありませんでした。父の部下、福留、そして往々にしてさなえが、働いています。
出来高制のさなえはよく、歩にもAVチェックを手伝わせました。裸で絡み合う男女のなにが楽しいのか、歩にはわかりません。けれど、それが父の
「親孝行だよな」とさなえは苦笑交じりに歩を撫でます。ひょっとすると、この仕事で薬物中毒の母を支えているさなえ自身を褒めていたのかもしれません。
さなえの高校卒業を一週間後に控えた午後、歩とさなえは歩の父の仕事場にいました。
事務所では相変わらたくさんの人が忙しなく働いています。
通ううちにわかったことですが、二階は数万円単位で借りに来る一般人向けの消費者金融会社であり、歩たちがたむろする三階は中小企業や多重債務者向けの金貸しとして、棲み分けが成立していました。二階には優しそうな女性従業員もいましたが、三階に詰めているのは屈強な体格の男たちばかりでした。
出入り口から仁王像が睥睨し、壁のような男たちが動き回る事務所の隅で、さなえと歩は他愛のない話をしながらAVチェックに勤しみます。
あの夏祭りの日、さなえが鉄板入りの鞄で殴り飛ばした彼女の母親は、あれ以来ビデオには出演していないようでした。少なくとも、歩がチェックしている中では見かけません。
その代り、雪野さんに似た女の子を見かけるようになりました。
他人のそら似かもしれません。なにしろ歩は雪野さんの顔をそれほどよく覚えていません。
最初こそ気に留めていなかったのですが、二度、三度と何本も画面越しに見ているうちに、やはり雪野さんのように思えてきました。
その子の出演しているビデオを凝視している歩に、さなえは「どした?」と自分の担当する画面から目を離すこともなく問います。
「うん……ちょっと……この子、知ってる子に似てて……」
「……どれ?」さなえが首を伸ばして画面を覗き込みます。「友達か?」
「違うよ」考えるより先に失笑と否定が口をついていました。「わたしのことを先生に言いつけた子。この子の、何本かあるんだよね」
「なんだ。じゃあいいだろ。チクるやつなんて、おまえが気にかけることないよ。ドコにでも沈みゃいいんだ」
「うん」と肯きつつ、歩は「でも」とぼんやりと続けます。「名前が違うんだよね。やっぱり知らない子かも」
画面の中では、赤いランドセルを背負った女の子が公園に入っていくところでした。周囲は明るく、それなのに人気がありません。朝早くに撮影されたものなのでしょう。小型犬を散歩させている女性とすれ違った女の子が、体を斜めにしてカメラを振り返ります。
ランドセルの側面に、名前シールが貼られていました。「おおた ももこ」とマジックで記された名前が一秒だけ映り込みます。
「そりゃ、撮影用の小物だからな。本名書きゃしねぇよ」
けらけらと笑うさなえに、歩は今さら「あ、そうか」と肯きます。
「じゃあ本当に」
雪野さんかもしれないね、と口の中で続けます。
さなえはもう、自分の作業に戻っていました。
歩は椅子の上で膝を抱えます。膝の上に顎をのせて、公園を歩く女の子の顔ばかりを見つめます。
その子が出演するビデオには、男の人が出てきません。その子だけが映っています。
明るい公園の植え込みやトンネル型の遊具、どこかのビルの一室、事務机の上。そういう、決してトイレではないところで放尿するだけの映像でした。下着を着けたまましていることもありました。
恥ずかしそうにしゃがみ込む姿も、大きく脚を広げて笑う顔も、なにひとつ歩の中の雪野さん像とは結びつきません。それなのに、何度も目にする内に、これは雪野さんだ、という妙な確信が生まれて来るのです。
歩にはこのビデオのなにが面白いのか、わかりません。このビデオを購入する人の気も、視聴する人の感性も、まるきり理解ができません。
さなえとチェックしているビデオの全部が、つまらないのです。
たぶん、さなえも同じでしょう。
さなえは事務椅子の上であぐらをかいて、体を前後に揺らしていました。制服の長いスカートを太ももまで捲り上げています。剥き出しになった白い肌に、真っ赤な丸い痣がいくつも散っています。
昔、たくさんのバイクと女の子たちが集う喫茶店の駐車場で、ヒロムに煙草を押しつけられた痕です。
歩の掌にも同じ丸がひとつだけありました。もう随分と薄くなったそれを、薬指の先で撫でます。
レディースのステッカーや特攻服などよりも確固とした、誰に奪われることもない「お揃い」でした。
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