〈8〉 ④
日が傾きはじめたころ、歩ははち切れそうなお腹を持て余して路肩に座り込みます。
金魚すくいの出店の前でした。幟には、歩の浴衣と同じ金魚が描かれています。尾ひれがヒラヒラを舞う、赤い金魚です。
「捕ってやろうか」
「捕れるの?」
「競争するか?」
ふたりで金魚の桶の前にしゃがみます。歩は母にもらった五百円玉を使いました。
丸いポイを慎重に水に浸します。金魚たちは身軽に水の中を逃げ惑い、歩のポイはすぐにただの紙になりました。
さなえは、尾びれがひらひらと揺れる金魚を一匹だけすくってくれました。歩の浴衣にいる金魚でした。
夕闇が迫り、さなえと別れた歩はビニル袋に入った金魚を大切に、揺らさないように抱えて帰ります。
家はまだ暗く、母は帰っていませんでした。
洗面器に水を入れて金魚を放つと、くるくると何周も元気に泳ぎます。それが嬉しくて、歩は母が帰ってくるまでずっと、浴衣を脱ぎもせず眺めていました。
夜遅くに帰って来た母は「楽しかった?」と訊きながら、金魚をガラス瓶に入れて玄関の靴箱の上に飾ってくれました。
「金魚鉢を買わなきゃね」と母は笑いました。子供のような笑みです。朝は鮮やかに塗られていた口紅が剥げていたせいでしょう。母の無邪気な顔を見たのは、初めてでした。
歩はさなえに感謝します。
浴衣とお揃いの金魚は優美にガラスを舞い、母と歩を見詰め返していました。
翌朝、金魚は水面に浮かんでいました。
丸く膨れた腹を上に向けて、美しい尾びれをだらりと垂らしています。もう動きません。
辺りには刺激臭が漂っていました。
昨日、母が履いていたパンプスが臭いの元でした。玄関先、金魚のすぐ傍で消臭だか防水だかのスプレーをかけたのでしょう。金魚が浮かぶ水面にはてらてらと虹色の膜ができていました。
母は事務的に「ごめんね」と謝ります。スプレーで金魚が死ぬなんて思わなかったの、とふてくされた顔で言い訳をします。
「可哀想なことをしちゃったね。だから、金魚なんてとってきちゃだめなのよ。簡単に命を持って帰ってきちゃいけないの。わかったでしょう」
なるほど、と歩は納得します。歩の家に来なければ、金魚は死ななかったのです。さなえが捕ってくれた金魚を殺したのは母ではなく、歩なのです。
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