〈8〉 ③
さなえの家は、錆の浮いた二階建てのアパートでした。
廊下を覆うトタンの屋根は大部分が朽ちています。外付けの階段は金属製で、油を引いたフライパンじみた陽炎をたてていました。階段を上がると、廊下には外装が割れた二層式洗濯機やカゴのひしゃげた自転車が並んでいます。
二階の奥から二つ目の部屋が、さなえの家でした。
彼女は鍵を取り出すこともなくドアノブをつかみ、扉を開けます。施錠されているはずがない、と思い込んでいる様子でした。
途端に酸っぱい臭いが押し寄せました。強烈な臭いに目がしょぼしょぼします。
玄関から溢れんばかりに、鼻緒の切れたサンダルだの靴底の剥がれたスニーカだのが転がっています。左右が揃っていないパンプスや踵が折れたハイヒールが数え切れないほど積まれていました。
「何人暮らしなの?」
「ふたりだよ。あたしと、母親」
裸でテレビに出ていた女性です。けれど顔は思い出せません。痙攣じみて引きつる腹の生白さと、弛んだ肉の揺ればかりが頭の中で再生されます。
さなえは三和土の端に積まれた靴の上に、薄っぺらい鞄を置きました。そのまま靴を脱ぐことなく、土足で部屋に入っていきます。ぐにぐに、と彼女の足の下で湿った音がしました。
「おまえは、そこで待ってな。危ないから」
三和土に立ち尽くす歩のすぐ横に、キッチンがありました。流しやコンロの上に、使い追えた食器たちが洗われることもなく置かれています。冷えて白く固まった油や乾いたソースが泥のようにこびりついています。食卓らしきテーブルにも床にも、食べ物の残骸や衣服が分けられることもなく混在して積み重なっています。
腐った生ゴミ、汗と垢の酸化臭、湿った洗濯物と黴、あらゆる臭いが夏の熱風でかき混ぜられています。
外からカンカンと金属音が聞こえました。誰かがアパートの階段を上がってくる音です。
なんとなく、歩は息を殺して扉の陰に身を潜めます。靴音がすぐ背後で止まりました。あ、と身構える間もなく、扉が全開になります。
白い半袖シャツとハーフパンツ、裸足にビーチサンダルという姿の女の人が、三和土のものを蹴散らしながら部屋に入り、身を潜めていた歩にぶち当たりました。
女の人が手に提げたビニル袋が、歩の太ももを打ち据えます。カップ酒が透けていました。骨に皮を張り付けたように痩せ細った体の、お腹だけがぼこっと膨れています。
「なんえぇ、あんた」歩を認めた女の人が、しゃがれ声で問います。「ドコの子?」
「死ねババァ!」唐突にさなえの怒声がしました。「そいつにかまうなや!」
あまりの剣幕に歩のほうが怯みました。当の女の人はまるで聞こえていないように歩を覗き込みます。
「ああ、平田社長んトコの子やん。ウチのこと、知っとぉ? 社長にはよぉ世話んなってんのよ。ウチ、響子いうんえ、まあ、芸名やけど。よろしゅうなぁ」
さなえの母親だ、と悟ります。けれど、テレビの中にいた彼女はもっと、ふわふわと柔らかそうな肉をまとっていました。今の彼女はさながら、骸骨です。
テレビ画面越しの認知を「知っている」と答えて良いのかわからず、それ以上に異様に痩せた容貌が怖くて、歩は後退ります。踵の折れたハイヒールを踏みつけて、危うく転びかけました。
ちょうど、部屋の奥からさなえが足音も荒く戻って来るところでした。白いキャミソールに緑のカーゴパンツという軽装です。
「おら、ババァ! 構うな言うて……」
さなえが凍り付きました。愕然と目を見開き、口を引き結びます。
「久し振りに会うた母親になんえぇ、そん口の利き方は」
床の堆積物を踏みつけながら、さなえが母親の前まで来ます。信じられないという顔で響子を睥睨して、喘ぎます。
「その腹……なに」
「あんたの妹か弟え。あんたお姉ちゃんになんのよ」響子はカップ酒をぶら提げた手で、腹を撫でます。「出来の悪いお姉ちゃんの代りに、ウチを愛してくれんねん。なぁ」
なあ、と膨れた腹に微笑んだ響子の唇から、透明なよだれが滴りました。響子の肘の内側、手の甲、サンダルを突っかけた素足の甲や足首に至るまで、青紫色の斑点がいくつもありました。注射の痕です。
薬物だ、と歩は瞬時に悟ります。底知れぬ恐れがこみ上げました。
この女性には、どんな理屈も通じない。父の名刺も、歩の立場も、言葉では理解している風に言いますが、本当の意味でそれらを理解し認識することはできていないはずです。
クスリだけが、彼女を支配しているのです。
「……金、どうすんねん。産んだり育てたりする金……。あたしが稼いだ金、全部クスリに変えてるくせに、どうやってガキ育てるつもりやねん」
「なに言うてんの。ウチが稼いだ金で育ったくせに」
さなえはやおら屈み込み、学生鞄を手に取ります。薄っぺらい鞄の取っ手を握り、握り直し、体を斜めにしてから、勢いよく振り抜きました。
ごっ、と鈍く低い音がしました。一拍遅れて、ガラスがぶつかる音がします。
響子が、壁まで吹き飛んでいました。割れたカップ酒の上に落ちた腕が、ぴくりとも動きません。
さなえが鞄を手放しました。三和土に衝突した鞄が、重たい音を立ててスニーカを潰します。
響子は、ヘラヘラと笑っていました。見る間に肩が腫れ上がっていきます。明らかに骨が折れているのに、平気な顔で笑い続けています。痛みなど感じていないのです。
「救急車……」と歩はゴミの詰まった部屋を見回します。電話らしきものが壁際に見えました。下駄のまま部屋に一歩踏み込み、急に腕を引かれてたたらを踏みました。
さなえが、歩を引き留めていました。そのまま歩を引きずるように部屋を出ます。腐臭から解放された鼻が、夏の甘い熱を捉えました。
「救急車呼ばないと……お母さん、怪我してるよ」
「病院行く金なんかないよ」
「でも……」
「病院行ったら
落ち着いた声音でした。
母親を殴りつけたことも、動けない母親を放ってきたことも、母親の中毒が明るみに出て逮捕されることも、気にしていない抑揚です。そのくせ、歩の腕をつかんだ手だけが力んでいました。さなえが呑み込んだ感情の激しさが、指先に現れていました。
歩の背で、ひらひらと浴衣の金魚が泳いでいます。汗ばんだ体に浴衣が張り付きます。
どれほど歩いたのか、さなえは歩調を緩めました。はは、と弱い笑いを漏らして、来た道を振り返ります。
「鞄、置いてきた」
「……辞書でも詰めてたの?」
異常なほどの攻撃力を発揮した鞄の重みを問います。
「鉄板入れてんだよ。工事現場で使うやつ」
「なんで?」
「なんで?」そんなこと初めて訊かれた、という顔でさなえは数秒考え込みます。「鍛えられるし……あ、それに、ほら」いい思いつきを得たように、声が半音高まります。「重たけりゃ武器にも盾にも使えるだろ。さっきみたいにさ」
武器や盾が日常的に必要な生活が想像できず、壁まで吹き飛んだ響子の細い体を思い出します。響子は、歩から見れば到底武器が必要になる相手ではありません。それでも歩は「うん」と肯きます。
さなえを取り巻く人々の凶暴性に思いを馳せます。その中にはきっと、歩の父も含まれているのです。
さなえは、ようやく歩の腕を離します。
遠くからテトンテトンと祭り囃子が聞こえてきました。いつの間にか祭り会場の近くまで来ていたのです。
どちらからともなく手をつなぎました。
肉刺で硬くなったさなえの掌に導かれて、雑踏に繰り出します。浴衣姿の歩とカーゴパンツを穿いたさなえは、一見してちぐはぐな組み合わせでした。でも、誰も気に留めません。みんな立ち並ぶ出店に夢中です。
屋台の料理は汚いから、と食べさせてもらったことのない歩に、さなえはいろいろなものを与えました。イカ焼き、フランクフルト、リンゴ飴。どれも、ひとつを買ってふたりで分け合いました。
代金は、すべてさなえが支払ってくれました。
他人には奢ってもらってはいけません、奢ってあげてもいけません、と母からきつく言われていた歩は、そのたびにうろたえます。
そんな歩の鼻先に、さなえは「いいんだよ」とマジックテープのついたメッシュ地の財布を掲げました。
「おまえのために使う金は、社長からもらってるんだから」
それは歩の父が、さなえを歩の友達として認めているというお墨付きでした。そして同時に、歩とさなえの間にある友情に、父の金が絡んでいることも示していました。
歩はわざと、その事実から目を背けます。たとえ父からさなえに渡る金が尽きたとしても、さなえは歩の友達でいてくれると、信じたかったのです。
ふっと、ゴミの中に倒れ込んださなえの母親が、骨ばかりの体から異様に腫れ上がる肩と腹とが、思い出されました。
救急車を呼ぶこともなく、怪我人をほったらかしにしてお祭りを楽しむふたりは、確かに共犯者です。
歩はその事実に、言い知れぬ安堵感を抱きます。
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