〈9〉 ②
ふたりして十数本のビデオをチェックし終えたのは、夜の九時を過ぎたころでした。
歩はモザイクのかかりが甘かったり外れていたビデオのタイトルと要修正箇所のタイムテーブルを記したメモをさなえに渡して、立ち上がります。事務椅子の足下に置いていた重たいリュックサックを背負います。
「そろそろ帰る。今日、塾行ってることになってるから、九時半には帰らなきゃ」
「なに」さなえはメモに目を落としたまま鼻を鳴らします。「おまえ、お受験組かよ」
「違うよ。でもしか塾」
さなえは顔を上げると「デモシカジュク?」と危うい発音でオウム返しにします。
「受験はしない。『でも』他にやることもないし、『しか』たがないから『塾』でも行くか」
さなえは数秒も黙ってから「ああ」といまいち納得していない様子で頷きます。
「いや、でも、仕方ないって。おまえ、他にもやることあるだろう?」
「うん。でも、お母さんから見たわたしは、やることもなくフラフラしている悪い子なの。だから、でもしか塾」
「行ってないのに?」
「行くよ。ときどき」
はは、とさなえは笑いました。「相変わらずいい子ぶりやがって」と続いた声音には、労りがありました。
「さなえちゃんは? 大学行くの?」
「……行くわけないだろ。お勉強は嫌いなんだよ」
それが半分嘘であることを、歩は悟ります。
ゴミに埋もれたさなえの家を考えれば、彼女が大学に進学できるはずがないのです。愚かな質問を恥じて、歩は「じゃあ」と逃げます。
またね、と手を振ったとき、ちょうど仁王像の足下を抜けて父が入ってくる所でした。ジャケットを羽織った福留も一緒です。
父は歩を認めると、頬を歪めて笑います。大股で事務所を横切ってふたりの前まで一直線に来ます。
慌てた様子で、さなえは椅子の上から足を下ろします。スカートが彼女の足首までを覆い隠しました。
「おう、元気してるか?」
「うん」
「なんや、要るもんあるか?」
「大丈夫」
「そぉかぁ」と残念そうに呟いた父は、「そうや」と声を弾ませます。「おまえ、卒業式いつや? そろそろやろ」
「三月」
「卒業式、行ったるわ」
「うん。ありがとう、待ってる」
素直に笑みを作った歩の頭に大きな手を載せてから、父は「おまえは」とさなえを見下ろします。
「卒業、いつや?」
「……来週、です」
「ほんなら、そろそろ商品なるなぁ」
さなえの体が強張りました。制服の背が丸く小さくなっていきます。
「卒業式終わたら、そんまま撮影入れや」
撮影、という言葉に、歩はチェック済みのビデオテープの山を見ます。高校生ではなくなったさなえは、モザイクが掛かっているかチェックする側からされる側へと移されるのです。
「お父さん……」
「おう、なんや」
「さなえちゃんは、わたしの友達なの」
「ああ?」
父の、これまでの上機嫌さが一転した、地を這うような唸り声でした。
怖気が走るほどの威嚇です。指の一本はおろか、呼吸すら凍り付きます。
「あのな」父は語気を弱めて身を屈めます。猫なで声が、大きな掌と一緒に歩の頭をかき乱しました。「これは大人のビジネスの話や。こいつが商品になるんは、初めから決まっとるねん。ホンマやったらもっと早ぅ商品になっとったんや。それをワシが、わざわざ高校まで行かせてやって、ここまで待ってやってたんやで?」
さも自分は優しいのだと言わんばかりでした。歩は立ち尽くします。「社長」である父の前では言葉はおろか、思考すら霧散していきます。
父からは圧倒的な、力の気配がしました。他人を従わせることになれた、言葉と暴力とで他人を虐げることを厭わない、獣の気配です。
背負ったリュックサックが重みを増したのを感じます。ほとんど使っていない塾の参考書の入った鞄です。鉄板が仕込まれたさなえの鞄とは全然違います。
さなえの、椅子の下にある薄っぺらい学生鞄を横目に見ます。それを父に向かって振り回す度胸は、ありません。歩にも、さなえにも、ありません。
歩は強く顎を引き、必死に呼吸を整えます。震えていることを悟られないように、肩に力を入れます。そうしなければ、泣き出してしまいそうでした。
「あの……」とさなえの掠れた声が聞こえました。
父の威圧感の中で発言できることに驚いて、歩は勢いよく顔を上げます。
さなえが、事務椅子に座り直しました。身を屈めてスカートの中に手を入れると、数秒もぞもぞとしていました。そして片足を事務机に引っかけ、大きく足を開きます。足首に丸まった下着が絡んでいました。
父と福留は怪訝な顔をし、すぐに舌打ちをしました。
さなえの足や内股、そして股間に残る火傷の痕を見たのでしょう。歩が一度だけ参加した集団走行の、代償でした。
「誰にやられたんや」
「流華の総長と副総長です」
「先々代の」と福留が補足します。「総長と副総長です。歩さんが野分を引き抜くちょっと前にモメてました」
「知っとって、報告せんかったんか」
「モメたと訊いただけやったんで……すんません」
嘘でした。
福留は飛び火を恐れて、嘘をつきました。あの場に居て、全部知っていて、さなえを助けてくれと泣きついた歩を拒否したくせに、とぶちまけたい衝動がこみ上げます。
それなのに、福留は歩を見ることもありません。まるで歩が父に告げ口をするなど考えもしていない様子です。
父は疑いなく、福留の言い分を信じたようでした。
「連中、今、なにしとる?」
「総長は専業主婦やと聞いてます。子供がふたり。結婚して、姓がヒロムから野崎に変わってます。副総長は看護婦ですね」
淀みのない回答でした。
父は満足そうに頷くと、歩の頭に置いた手で髪をつかみ、顔を上げさせました。
「おまえは、連中になんかされたか?」
「……さなえちゃんが、守ってくれたから」
「なんかされそうになったんか?」
そういった記憶はありませんでしたが、反射的に肯いていました。「そうかぁ」と低く、父が言います。訂正など、できるはずもありません。
父は歩の髪を離すと、両手を払いました。まるで汚いものでもつかんでいたかのような所作でした。
「
父の指示に福留は顔色ひとつ変えず「はい」と応えます。事務所の奥に据えられた机の上の電話をとり、どこかへかけはじめます。
「よっしゃ」と父は頬を歪めて笑いました。
これまでの薄暗い獣のような気配が嘘のような、いつも通りの笑みです。父は両手で膝をつかんで身を屈めると、歩と視線を合せました。
「ええか。なんやイジメられたら、ワシに言いやぁ。ワシが、守ったるさかいな」
歩は、ようやく自分の失言に気づきます。
父は、自分こそが歩を守る唯一の者でいたかったのです。それなのに歩は、さなえに守ってもらった、などと告げてしまったのです。さなえを庇うつもりが逆に、さなえの立場を悪くしていたのです。
いつも「こう」だ、と歩は身を硬くします。いつも歩が余計なことを言ったりしたりするせいで、他の誰かの立場が悪くなるのです。
ガラス瓶の中で力なく仰臥した金魚が脳裏を過ぎりました。夏祭りでさなえがすくってくれた金魚です。
歩の元に来たばかりに、あの金魚は死んでしまったのです。
電話を終えた福留が戻ってきます。
父は「ほなな」と片手を上げて、事務所の奥の社長室へと入っていきます。途中、「ああ」と思いついたようにさなえを振り返りました。
「卒業式、ノーパンノーブラで出ぇや。下着ん痕がついとったら、消えるまで撮影できんからなぁ。ああいうんは」父は指先で煙草を摘まむ仕草をします。「好きな奴はなんぼでも居るさかい、気にせんでええ」
面白い冗談を言ったように大声で笑い、父は姿を消しました。
事務机の上から、さなえの脚が力なく床に落ちました。青ざめた頬からは表情が消えています。時計が九時半を指します。
「帰る、ね」と呟き、歩はさなえに背を向けます。
「一緒に、
歩は振り返ります。さなえは仁王像を仰いでいました。視線は合いません。
「おまえが
友達だろ? とさなえは薄く笑いました。友達、という概念を欠片も信じていない抑揚でした。
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