〈7〉

〈7〉 ①

 福留の車を降りて家に入ると、母が玄関に立っていました。

「ただいま」と歩はいつも通りを装って笑みを作ります。頬の辺りが引き連れました。

「おかえり」も言わず母は「話があります」と無表情に告げました。怒られる合図でした。

 歩は疲れた気分で「はい」と応じます。

 リビングに入りランドセルを下ろし、椅子に座ります。母は立ったまま、じっとランドセルを見ていました。

「いつの間にそんなもの貼ったの」

 ステッカーのことでしょう。随分前に貼ったきり問われなかったので、歩は「さあ」と考え込みます。

「ちょっと前?」

「最近、ちょこちょこ帰るのが遅かったのは、それのせい?」

 ステッカーは直接関係ありませんが、ステッカーをくれた相手と話し込んでいたせいではありました。それを、どう説明すればいいか考えます。

 その間を待ちきれなかったのか、母は「アンタ」と言葉を続けます。

「学校に友達、居ないの?」

 いない、と答えることが恥ずかしくて俯きます。

 母が理想とする歩は、同じクラスに相対性理論や進化論を語り合える友達を持っているのです。母が望む自分になれていない事実に、「ごめんなさい」と呟きます。

「どうして謝るの?」

「友達がいなくて……」

「良くない友達が、いるんじゃないの?」

 それはテレビを視なければ会話が成立しない友達でしょうか。それとも歩の帰宅時間を遅らせる友達でしょうか。

 母は歩のランドセルをテーブルに置き、ステッカーを指します。

「先生から電話があったの。暴走族のステッカーだって、本当?」

 知らなかったのです。リナからもらった友達の証だと思い込んでいたのだと、歩は首を振ります。

「嘘はつかなくていいの」

 母は冷淡に言い切りました。

「どこで会ったの?」

「コンビニ。大学病院の近くの」

「どうしてそんな人と話すようになったの」

「お母さんの高校の制服着てたから……」

 さなえのことは伏せました。さなえとの出逢いを訊かれれば、父が仕事場に連れて行ってくれたことまで話さなくてはならなくなるからです。

 母は目頭を押さえてため息をつきました。

「歩、嘘はつかなくていいの。本当のことを教えて」

 本当のことでした。それなのに母は、歩の顔を覗き込んで言い切ります。

「その目は、嘘をついているときの目よ。わたしには判る。嘘はつかなくていいの。お父さんの知り合いなんでしょう? だから今日も、お父さんに相談しに行ったんでしょう」

 福留が父に連絡をしたために、父から母に「帰りが遅くなる」と伝わったのです。そのせいで母は、歩が父に友人関係の相談を持ちかけたと誤解しているのです。

 否定はできませんでした。父と会っていないことを告白すれば、「じゃあどこにいたの?」と追求されるに決まっています。

 雷鳴じみたエンジン音に彩られたバイクでの集団走行。さなえとのふたりきりの走行の心地よさ。そしてさなえの悲鳴、血の臭い、振り払われた手の痛み。めまぐるしく記憶が入り乱れます。掌の火傷がどくどくと脈を打っています。

 母はステッカーに指をかけました。爪を立てて剥がしていきます。

「いつ貼られたかもわからないくらい、アンタを見ていなかったわたしが悪いの?」

「お母さんは悪くない」

「じゃあ、どうしてクラスの子とお友達になれないの?」

「だってテレビの話しかしない子ばかりだし……」

「わたしがテレビを視せなかったせい? わたしが悪いの? うまく話を合わせることだってできたはずでしょう。アンタができる子だから言うのよ? アンタをそんな子に育てた覚えはありません。人の話を聞ける子に育てたつもりです。それなのに……恥ずかしくないの? 情けないっ」

 情けない、恥ずかしい、と繰り返して、母は歩の言葉を聞かなくなりました。

歩がいくら謝ろうとも、母はなにも答えてくれません。

 それでも歩のご飯はちゃんと用意されました。荒々しい動作で並べられる食事に、歩は責められていることを強く意識します。

 せめてもの償いに食後の片付けを手伝おうとしましたが、「ゴマをすらなくていいの」とぴしゃりと拒絶されました。

 歩はまた「ごめんなさい」と繰り返します。

 そういう日が何日か続き、母はときおり歩の「ごめんなさい」に反応してくれるようになりました。

「なにが、ごめんなさい?」

「……うまく友達が作れなくて、ごめんなさい」

 母はため息をついて、また歩を無視する生活に戻ります。

 歩はまた、正解を探しては謝り続けます。「お父さんに相談してごめんなさい」「帰りが遅くなってごめんなさい」「勝手にステッカーを貼ってごめんなさい」

 どれも、外れでした。母は口を利かなくなく、荒々しく食事を並べ、苛立ちをアピールし続けます。

 そのうち歩は、どうして謝っているのかわからなくなりました。おそらく母も、怒りの理由を見失い始めていたのでしょう。

 歩の掌の火傷が乾き始めたころ、母はポツリと呟きました。

「もう、悪い人とは付き合わないでね」

 歩は素直に頷きました。

「大学病院のコンビニには二度と行かないで」

「はい」

「約束して」

「約束する」

 歩自身、ヒロムやリナと付き合い続けるつもりは毛頭ありませんでした。あのふたりは、さなえを傷つけたのです。

 友達を傷つける人とは友達になれません。

 歩は引き出しの奥から金属箱を取り出しました。福留に買ってもらった錠前付きの金庫です。小さな鍵で錠前を外し、蓋を開きます。

 父の名刺が一枚きりで入っていました。

 歩はそれをランドセルに入れます。ふたりと話を付けるために、二度と行かないと誓ったコンビニへ足を向けます。

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