〈6〉 ④

 怖気が駆け上がりました。ビリとした恐怖心に背を押され、歩は駆け出します。夜のように暗い喫茶店に駆け込みます。

「福留!」

 漆黒の店内で人が動く気配がします。

「福留! 助けて、早く!」

「ああ」掠れた福留の声だけが、答えます。「ちょっと、待っててください。すぐ、終りますんで」

「早く! なんで! 福留!」

 舌打ちがしました。歩はビクリと体を震わせます。

 暗い店の奥に福留が立っていました。

 彼の前で女の子が、生白い足と尻をむき出しにしてテーブルに伏せています。さなえの母親とよく似た脚でした。福留は腰を前後させ、女の子のお尻に自分の脚の付け根をぶち当てています。乱れた呼吸音と細切れのあえぎ声が店内を湿らせていました。

 歩は呆然と立ち尽くします。

 さなえが事務所で見ていたテレビと同じです。乱暴な男に虐げられる母親を前に、さなえは無表情でした。

 今なら、彼女の気持ちがわかる気がしました。

 なにも考えてはいけないと、自分に言い聞かせていたのです。理由、原因、結果、未来。そういう全部を忘れて、目の前で起こっている現実すらただの映像として、夢でも見ているのだと暗示をかけて、心を無にするのです。

 そうしなければ、壊れてしまうのです。

 歩は福留に背を向けて、喫茶店を出ます。閉ざした扉の前にしゃがみ込みます。

 駐車場から女の子たちが出て行くところでした。ヒロムやリナを取り囲んで楽しそうにお喋りをしながら列をなして夜の町へと歩いていきます。

 駐車場に転がったさなえだけが、そのまま残されていました。体が激しく震えているのが、遠目にもわかります。

 どれくらいそうしていたのか、喫茶店の扉が開きました。ジャケットを腕にかけた福留が「すんません」と出てきます。まるで待ち合わせに二、三分遅れたような調子です。

「どうしました? 話は済みましたか?」

 歩はさなえを指します。

 ん? と首を傾げた福留が、駐車場にうち捨てられた彼女の元へと歩いて行きます。

 背後でまた扉が開きました。紫色のコートではなく、花柄のロングスカートをはいた女の子が出てきます。女の子は歩を認めると驚いたように目を見張り、すぐに目を細めて笑いかけました。

「死ね」

 唾棄が、考えるより先に出ました。歩は両手を突っ張って立ち上がり、福留のあとを追います。

 福留は立ったまま、さなえを睥睨していました。手を貸す素振りもありません。

「だいぶ見れる面んなったな。乗ってくか?」

 さなえの髪が散りました。首を振ったのでしょう。

「そうかぁ」と頷き、福留は尻ポケットから長財布を取り出しました。中から万札と、誰のものかもわからない保険証を何枚か取り出し、地面で泥にまみれているさなえのパンツの上に置きます。

 それだけでした。

 彼は歩を振り返り「じゃあ、帰りましょうか」と顎をしゃくります。

「どうして?」疑問が、叫びになりました。「なんで、さなえちゃんを助けてくれないの? 病院に連れてってよ! あの子たちを、叱ってよ! 福留、偉いんでしょう!」

「偉いって……」福留は失笑したようです。「偉かないですよ。俺はもう卒業してアガッてるんで、あいつらにはなにも言えません。これはあいつらの問題で、俺が出る幕じゃぁない。男の俺が手ぇ出したら、それこそ揉めますよ。女はそぉゆぅモンです」

 歩は震えるさなえの肩に触れます。刹那、激しく振り払われました。涙に濡れた鋭い眼差しが歩を貫きます。

「触んな、クソが」

 拒絶の中に嫌悪感が滲んでいました。女の子たちに暴行を受けた彼女は今、体に触れられることが怖いのでしょう。

 歩はどうすることもできず、凍り付きます。

 福留の腕が強引に歩を抱き上げました。別れの挨拶もなく、セドリックの助手席に放り込まれます。ロングスカートの女の子が歩のランドセルを福留に渡しているのを、フロントガラス越しに見ます。

 運転席に座った福留は、灰皿からひしゃげた煙草を拾い、火を着けます。エンジンがかけられました。さなえやリナのバイクよりずっと慎ましい音です。

 前照灯にさなえの姿が照らされました。紫色のコートに刺繍された桜と藤の花が血と痣に塗れたさなえの輪郭をぼやけさせています。

 福留はハンドルを回して駐車場を出ます。窓越しに、さなえが体を起こすのが見えました。ロングスカートの女の子は、さなえに目もくれず喫茶店へ入っていきます。

「友達じゃ、ないの?」

 福留が嘆息します。紫煙が車の中を覆い始めていました。

「なんで、あんな酷いことするの? どうしたらいいの?」

「どうもしなくていいんですよ」福留は前を見据えたまま言います。「次に会ったときに、普通に接してやればそれで充分ですよ」

 ぽうぽうと福留の息遣いに合せて煙草の火が明滅します。さなえに押しつけられた炎がそこにありました。

 歩は手を伸ばします。掌で、福留の煙草を握りつけます。脳天まで突き抜ける冷たさでした。

 咄嗟に手を開きましたが、火が皮膚と溶け合って離れません。

「ばっ!」

 馬鹿、と怒鳴った福留が歩の手を叩きます。煙草がアクセルの下へと吹っ飛んでいきました。急ブレーキが、歩を強かに助手席の下に叩きつけます。

「アホか! なにやってんだ!」

 骨まで痺れる、本気の怒声でした。

「んなことをしても、あいつの気持ちも痛みもわかりゃしねぇよ、タコ! わかった気になるだけや。ただの自己満足は、そりゃ気持ちいいだろうが。なにひとつ相手のためにはなりゃしねぇよ、ガキ!」

 一息に言い切った福留は舌打ちをして、深い呼吸を繰り返してから、柔らかい力加減で歩をシートに引き上げてくれました。

 歩は真っ赤になった掌に目を落とします。

 神経が凍ったような痛みがありました。どくどくと心拍に合せて、冷たさが深くふかく潜っていくようです。

 少し握っただけでこんなにも長引くものを、さなえは押しつけられたのです。鼓膜の奥に悲鳴が残っていました。体を震わせて痛みに耐える彼女の、小さな背中が網膜に焼き付いています。

 歩は水ぶくれになりつつある掌を撫でます。涙の一粒すらこぼれませんでした。冷たい痛みだけが、体の芯まで届いていました。

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