〈3〉 ③


 結局、父は夜まで戻って来ませんでした。

 福留は随分と悩みながら、公園や河原、スーパーのイートインコーナーなどを巡って、必死で歩を退屈させまいとしてくれたようです。もっとも歩は、ただ彼が一緒にいてくれるだけで満足でした。他人が自分のために苦労してくれることなど初めてだったのです。

 母を迎えに行く時間になり、明らかに福留はホッとしていました。

 ハンドル捌きも軽やかに、彼は母が勤める高校の裏門前に車を着けました。

 前照灯でオレンジ色に染め上げられた夜がどこまでも続いていました。車内のデジタル時計は八時半を過ぎています。母の仕事終りは八時半でしたが、いつだって時間通りではありません。

 歩はランドセルの中身を全部取り出してから、父の名刺を閉じ込めた箱を底に入れます。そして再び教科書やノートを詰め直しました。秘密の箱を埋めたランドセルは蓋のベロが歪に浮き上がりましたが、ごまかせない程ではないでしょう。

 福留は細く窓を開けて、煙草を吹かしています。灰皿から救い出したチビた煙草です。

「福留は、自分の煙草を持ってないの?」

「持ってますけど……」

 けど、の続きを濁して、福留は煙草をもみ消しました。

 悪戯を咎められた子供のような反応に、歩は既視感を覚えます。好きな女の子の鍵盤ハーモニカを借りようとして先生に叱られた男の子と似た顔でした。

 灰皿に入っているのは父が吸った煙草です。福留は歩の父との間接キスでも楽しんでいるのでしょうか。

 歩はランドセルを抱き締めて灯の消えた校舎を見詰めます。早く母が出て来てくれないだろうか、と妙な焦りを覚えます。

「坊ちゃんは」福留の、どんよりとした眠たそうな声が響きます。「おとーさんが好きですか?」

「……好き、だよ」

 ふうん、と息を漏らして福留はハンドルの上に顎を乗せました。手探りで灰皿からまたひしゃげた一本を取り出すと、シガーライターで火を点します。ぽうぽうと紫煙がフロントガラスにぶつかって弾けていきます。

「俺もね、社長のこと好きなんですよ。親父さんの子になれたらって思うくらいには、好きなんですよ」

 歩の父を社長ではなく親父と呼んだ福留が、得体の知れないモノのように感じられました。

 黒くそびえる校舎から、白い人影が出てきました。母です。歩は扉を開けて飛び出します。背後から呟きが届きました。

「歩さんには、おかーさんがいるじゃないですか」

 足を止めて振り返ります。白く濁った車内で、煙草の火だけが鮮烈に息づいていました。一つ目の怪物のようです。歩を取って食えば、社長の子という立場が手に入ると勘違いしているのかもしれません。

 歩は身を翻して、母の元に駆け寄ります。

 白いブラウスとベージュ色のパンツが、夜の中で母をぼんやりと光らせていました。まるで幽霊です。自分を残して消え去りそうな母に、勢いよく抱きつきます。両腕に力を入れて、母をつなぎ留めます。

「なに、気持ち悪い」

「おかえりなさい」

「なんなの、急に」

 母は歩の肩に手を置き、引き剥がすでも抱き寄せるでもなく、ただ受け止めます。

「おつかれさま。おかえりなさい」

「うん」と母は身動ぎをし、「離れて」と静かに告げます。「小学生にもなって恥ずかしくないの?」

「恥ずかしくないよ」

 歩は体を離して、母の手を捕らえます。母の指の間に自分の指をねじこんで掌を合せて手をつなぎます。

「なぁに、気持ち悪い」母は呆れ口調でした。「なにかあった?」

 なにも、と応じかけて、口を噤みました。

 一歩を踏み出した母が振り返ります。

「わたし、男の子みたい?」

「え?」

「男の子に見える?」

 母は歩の足に視線を落とします。短パンから伸びる足は乾いて粉を吹いています。スニーカも汚れたままです。母は頬を引きつらせて、笑ったのかもしれません。夜の暗さが歩から母の表情を隠しました。代わりに仄白い手が眼前に迫ります。

「なに? 気にしてんの?」

 ぐっと目の間、鼻の付け根の骨がつままれました。

「もうちょっと鼻が高かったら美人になるのにね、可哀想に」

 母は、歩の質問に答えませんでした。それが、答えでした。母は嘘を嫌う人です。正直に答えれば歩を傷つけると判断したから、誤魔化したのです。

「どうして、そんな顔するの?」母の小さな笑い声がしました。「まるでわたしがいじめてるみたいじゃない。別に不細工だなんて言ってないでしょう? ただの冗談じゃない。わたしの子なら、それくらいの冗談はわかるでしょう?」

 母は歩の鼻をぐっとつまみます。鼻の付け根の骨を少しでも高くしようとしています。本気の強さでした。

 だからこそわかります。母は決して歩をけなしているわけではないのです。「可哀想」だと心の底から思っているのです。

 母にとって同情は、愛情なのです。悪意ではなく、純粋な哀れみなのです。それがわかるからこそ、歩は泣きたい気持ちを押し込めます。母の愛情を素直に受けとめられない自分が悪いのだと、母こそが普通でありそれを受け止められない自分こそがオカシイのだと、何度も言い聞かせます。

 母は歩から手を離し、緩やかに歩き始めました。前照灯を眩く灯した車へ、迷いなく進んでいきます。

 福留が後部座席の扉を開けて待っていました。車内を濁らせていた煙は消えています。

「お疲れ様です」と福留が母に頭を下げました。

「やめてちょうだい。わたしはヤクザの姐さんではありません」

「すんません……」

「あの人は?」

「お仕事で」

 福留の言葉を最後まで聞かず、母は後部座席に滑り込みます。歩も慌てて母に続きます。

「本当に、あの人も頼りにならないね」

 父へのダメ出しでした。咄嗟に庇う言葉を探しますが、同時に父を庇うことは母の気分を害さないだろうか、とも考えます。

 後部座席の扉を閉ざした福留が小走りに運転席に回り込みました。素早く乗り込み、首を巡らせて周囲を確認してからパーキングレバーを下げます。

「今日はね」歩は明るい声を作ります。「福留が遊んでくれたの」

「お友達?」

「福留」と歩は運転席を指します。

 途端に母の顔から表情が消えました。疲れているとき、機嫌が悪いとき、歩がなにか間違いを犯したときの、顔です。

 思わず歩は俯きます。知らず、拳を握っていました。

「福留さん、でしょう」母の冷たい声です。

「あ、いいんですよ」福留は、軽やかな口調でした。「俺が呼び捨てでいいって言ったんです。友達になったんで、な」

 な、と歩に同意を求めた語尾に、「これは」と母の静かで刃物めいた抑揚が重なりました。

「我が家の教育方針です。年上の人を呼び捨てにしてはいけません。そんな子に育てた覚えはありません」

 そんな子はわたしの子ではありません、といつもの文句が続きました。

 歩は喉の奥から「ごめんなさい」と絞り出します。自分のせいで福留が叱られてしまった。そのことがなによりも歩を責め立てます。父の仕事場でも、歩のせいで福留が叱られたのです。

 わたしが間違えると、他の人が叱られる。間違えるわたしは、母の子でいられない。

 父には自分からは会いに行けないのです。母に拒絶されたら、歩にはもうすがれる相手がいません。

「今日は、ね。お父さんが仕事で忙しかったから、福留さんが遊んでくれたの」

「そう……」母の声が緩んでいました。眠たいのかもしれません。「楽しかった?」

「うん」と歩も母の声の強さに合わせて囁きます。「楽しかった」

「そう……よかったね」

「うん」

 歩は母の顔を見ないようにして、後部座席に座り直します。行儀良く足をそろえて、両手を膝の上に載せて、間違いのないいい子を演じます。

 バックミラー越しに福留の視線を感じました。父の子の座を歩から奪おうとする怪物が息を潜めているのです。

 歩は母の手を見ます。力なくシートの上に投げ出された白くて柔らかい掌を、見ます。触れて確かめたい衝動がこみ上げました。母はどこにも行かないのだと実感を覚えたかったのです。けれど、仕事で疲れた母はべたべたと触られることを疎むでしょう。

 歩は自分の膝を強く握って我慢します。母を失わないために、自分の硬い膝の骨を握りしめます。

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