〈2〉

〈2〉 ①

 父の仕事場は、小学校と母の高校を隔てる川を遡った辺りにある、薄茶色いビルでした。

 駐車場に車を乗り入れるとすぐに、一階の不動産屋さんからスーツを着た男の人が飛び出してきます。「お帰りなさいっ!」と大きな声の挨拶が響きました。

 父は歩にランドセルを持たせて車から降りると、「おう」とぞんざいに応じてビルへと向かいます。スーツの人が父の車に乗り込み、バックで駐車枠に車体を納めます。

 父は決して運転が下手ではありませんでした。少なくとも自分で駐車できます。それなのに、あのスーツの人は父の車を停めるために仕事を放り出して駆け出して来たのです。

「あの人、父さんの車係なの?」

「車係なんておらへんで」父は少し得意そうにビルを仰ぎます。「このビルにいる全員がワシの部下や。みぃんな、ワシの車を運転したがっとんねん」

 父の車が良い物だからなのか、父の立場への憧れのためかはわかりませんでしたが、ひとつだけ確かなことがありました。

 父は凄い人なのです。たぶんクラスの誰の父親よりずっと、偉い人なのです。

 父に手を引かれて、歩は不動産屋の横からビルの奥へと伸びる薄暗い通路に進みます。灯の点っていない階段と、大人が四人も乗ればいっぱいになりそうな小さなエレベータがありました。

 乗り込むと、父は「押してみ」と階数ボタンを示しました。

「何階?」

「何階でもええで」父は悪戯っぽく笑います。「みんな押してみ」

 よくわからず歩は一階のボタンを押します。閉じかけていた扉が開きました。二階のボタンを押すとオレンジ色に点灯しました。けれど三階、四階は何度押しても反応しません。故障だろうか、と首を傾げながら最上階の五階を押すと、今度は素直にランプが点ります。

「三階と四階は、階段でしか行けんのや、覚えとき」

「ここ、全部父さんのものなの?」

「せや。五階は他人ヒトに貸しとるけど、ワシの名前出したら入れてもらえるで」

 うぃん、と甲高いモータ音を立ててエレベータが上昇していきます。たった一階分なのですぐに着きました。

 父に背を押されて踏み入れた二階は、眩しく賑やかな部屋でした。黄ばんだブラインドが精一杯陽光を引き入れています。何台もの電話が鳴っては、すぐに誰かによって取られていきます。

「おかぇりな」

 さい、という最後の音は合唱でした。カウンターの中に詰め込まれた事務机が二つの島を作っていました。そのそれぞれに若い男の人や女の人が着いています。ざっと十人は下りません。彼らの全員が父を見て、挨拶をしたのです。

 父は「おう」とぞんざいに頷いただけでした。一方的に挨拶をされる立場であることに慣れきった態度です。すぐに若い男の人が近づいてきて、父に指示を仰いでいます。

 歩は呆然としていました。

 こんなに大勢の大人の人を前にしたのは初めてでした。こんなに大勢の大人に挨拶をされたのも初めてです。

 なによりも挨拶を返さなくても怒られなかったことなど、ありません。母はいつだって「挨拶ができないのは恥ずかしいことです」と言っていました。けれど父は少しも恥ずかしそうではありませんでした。むしろ堂々と、この場にいるどの大人より胸を張っていました。

 指示を終えた父は、カウンターにいた男の人を「おい」と呼びつけます。若い、高校生くらいに見える男の人でした。枯草色の短い髪がぱさぱさと勝手気ままに跳ねています。

「ワシの子や。面倒見たってくれ」

「はいっ」と威勢良く返事をしたその人は、歩を見下ろすと大きな口を開けて笑います。「似てないっすね」

「アホぬかせ。よう似とるやろ」

「社長、老眼来てます?」

 はは、と軽口を叩いて笑うと、男の人はカウンターを回り込んで歩の前で膝を突きました。目線が揃うと、彼の額にある白っぽい傷痕に気づきます。

「はじめまして。福留ふくどめです。福留、良行よしゆき

「由代、歩です」

「ほら」と彼が──福留が、笑います。「しゃちょーに、全然似てない」

 父は口をへの字にして、黙ってげんこつを福留の頭頂部に当てました。強くない、クラスの男の子同士がじゃれ合っているときのような拳です。父のそんな振る舞いを初めて見ました。

「回収どうなっとんねん」父はカウンターの中へと入っていきます。「なにチンタラ電話しとんや。飛ばれたらどう責任とんねん。とっとと工場でも家でも行ってガラ押さえてこい」

 父の鋭い指示を受けて何人かが駆け出して行きました。

「上、行きましょか」福留がやんわりと歩の背を押します。「ここはやかましぃんで」

「……福留さんは」

「福留でいいですよ」

「でも……大人の人なのに」

「社長のご子息にさんづけしてもらえないですよ」

 ゴシソクがどういう意味なのかはわかりませんでしたが、文脈から子供のことだろうと見当をつけます。それでも大人の人を呼び捨てにする勇気が出ず、結局そのまま質問を続けることにしました。

「……お父さんと友達なんですか?」

「まさか」即答でした。笑顔のまま、怖いくらい真剣な眼差しが父の背へと向けられます。「社長は憧れです。俺にとっても父親みたいなモンです」

 歩と父の間に、先ほどのようなじゃれ合いは存在しません。

 ふと、肩に食い込むランドセルのベルトを見ます。濃い緑色のそれは、男の子が持つ黒いランドセルに似ていないこともありません。

 父が、ある日突然持ってきたものでした。

 歩の、クラスの男の子たちと同じくらいの長さの髪も、父が切りそろえてくれたものでした。母は自分で洗って乾かせるようになれば伸ばせばいいと言いますが、少し伸びるとすぐに父がハサミを握るのです。

 父は男の子がほしかったのだろうか、と歩は俯きます。ショートパンツの裾越しにかさぶたが張り付いた膝が見えました。乾燥して粉を吹いた脛と汚れきったスニーカは、思えばクラスの女の子たちにはないものです。

 ぽん、と音がして、エレベータの口が開きました。よれよれのシャツを着た女の人が、怯えたネコのように入ってきます。歩と目が合うと、頬が強張ったようでした。

「いらっしゃいませ」とカウンターの中の女の人が言います。被さるように「持って来たかぁ」と父の低い声が響きます。

 腕組みをして立つ父の視線が歩を捉えました。瞬間、父は笑うことに失敗したように顔を歪め、すぐに真顔になりました。

「良行!」父が福留を怒鳴ります。「いつまでんねん! はよねや、グズが」

「すんません」と素早く一礼をした福留は、それでも優しく歩の肩を抱き寄せました。「上行きましょう。階段、しんどくないですか?」

「うん」と頷きながら、歩は頬が冷たくなっていくのを感じていました。

 歩が物思いにふけっていたせいで、福留が怒られたのです。父は、本当は歩を怒鳴ろうとしたのです。それなのに福留は歩を責めません。「三階も事務所なんですよ」と穏やかに話しながらエレベータの横にある急な階段を上っていきます。

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