〈2〉 ②
歩は先を往く彼の背を仰ぎます。階段の段差が、彼を壁のように見せていました。照明が遮られて階段全体が暗く曇っています。足音とランドセルの中で揺れる教科書の音が妙に反響していました。
「あの……」歩は自分の靴に囁きます。「ごめんなさい」
「んー?」緊張感のない声でした。「なにか悪いことしたんですか?」
「お父さんが怒鳴って……」
はは、と福留は笑いました。ぱっと彼の輪郭が光を帯びました。三階の廊下に出たのです。肩越しに顔だけで振り返った彼は、まるで歩と同年代の少年のようにはにかみます。
「俺はね、社長に怒鳴られるの嫌いじゃないんですよ。ご子息の前で言うことじゃないかもしれないですけど、親父にどやされてる気がして。俺、父親いないんで憧れてたんです」
歩はもうなにも言えませんでした。福留を追って眩しい廊下に出ます。二階にはない扉がありました。
「お疲れさまです」とノックもなく扉を開けた福留が部屋の中に叫びます。応じて「おぉ」と獣の呻きめいた合唱が上がりました。
「平田社長のご子息が来てるんで」
福留に手招きされ、歩は恐るおそる扉を潜ります。
大柄で人相の悪い男の人たちが歩へ顔を向けました。部屋の隅からは巨大な、天井にも迫るほどの躯体をもつ仁王像が、歩を睨み下ろしていました。体が竦みます。そのとき。
「お疲れさまです」
地鳴りのような挨拶が押し寄せました。部屋の男の人たちが一斉に、歩に向かって頭を下げたのです。
筋肉質で重たそうな体に似合わない俊敏さで、男の人たちが散っていきます。ある人は奥の部屋へ、ある人は階段を駆け下りてどこかへ、そして他の人たちはそれぞれの仕事に戻っていきます。
事務机が付き合わされた島がふたつできていました。部屋を監視するように、極彩色の木像が──仁王像のように思えましたが、確信はありません──隅に立っています。窓際に据えられた一台のデスクは事務机とは違って木製でした。その傍らには大小の金庫がどっしりと座っています。
デスクの真上、天井近くには神棚がありました。緑の葉と白い銚子、そして黄色い液体と生白い棒きれが詰まったカップ酒の瓶が供えてあります。
「こっち、どうぞ」と福留が奥へと続く扉を開けて手招きします。
大人の邪魔にならないように壁際を伝って移動する途中、「あ、あっ」と甲高い女の人の声がしました。
一番隅の事務机に、女の子がいました。すぼめた肩を覆うセーラー服の大きな襟と、枯れ草色のパサついた髪とが、彼女をおとぎ話の山姥のように老けさせていました。
「あ、ダメ」と彼女の胸元から甘ったるい女の声が聞こえます。事務机いっぱいを占領するブラウン管テレビの音声です。
家では自由に視ることのできないテレビに好奇心を刺激され、歩はそっと彼女の背後に回ります。ザラついた画面の中では裸の女の人がひっくり返ったカエルのようにうごめいていました。
「坊ちゃんには」すぐ背後で福留の声がして、歩の視界が真っ暗になりました。「早いですよ」
福留の掌が歩の目を塞いでいます。両手で彼の手に触れると熱いくらいでした。
女の人の声が、消えます。
視界が戻ると、テレビの画面にはまだ生白い女の人の裸体が映っていました。ぶよぶよと皮膚の弛んだ男の人が女の人にのし掛かっています。
画面を見詰めているセーラー服の女の子が、イヤホンを耳に入れるところでした。
「社長の」福留が低い声で言います。「ご子息」
セーラー服の女の子は横目で歩を窺うと「だから?」と素っ気なく応じました。
「社長の手ぇ空くまで、相手せぇ」
女の子は茶色い髪をかき上げて、画面に顔を近づけました。手元にはルーズリーフがあり、なにかの数字が書き込まれています。
「
福留に呼ばれた女の子は面倒くさそうな表情を取り繕うこともせず、椅子をくるりと回して歩と正対します。視線が揃いました。女の子の不機嫌顔の向こうで、テレビ画面がチカチカと明滅しています。
「あたしの仕事はモザイクチェックであって、子守じゃないんだけど」
「仕事」はっと福留が鼻を鳴らします。「小遣い稼ぎの中坊が」
「あんただって高三のガキのくせに」
「あの……」険悪な空気を察し、歩は精一杯の笑顔を作ります。「ひとりで待っていられるので、大丈夫、です」
福留の顔が途端に「しまった」という風に歪みます。
野分と呼ばれた女の子は両手で耳を覆うと、また椅子を回して画面に向き合います。
歩は後退りして奥の部屋へ続く扉へ身を翻しました。そのとき。
「これ」野分の声がしました。「あたしの母親なんだ」
振り返ると、野分はテレビ画面を見たままです。最初からなにも言っていないような態度に、歩は彼女の横顔と音のない画面とを見比べます。裸の女の人の顔ははっきりと見えません。野分と似ているか、歩には判然としません。
歩は自分の顔に触れてみます。福留に「父と似ていない」と言われた自分の顔を探ってみます。テレビの中の女の人と野分、父と自分。
「坊ちゃん?」
福留が男だと信じて疑わない自分の体を見下ろします。父と同じ性別だと思われていても、歩は父と似ないのです。
父と自分は本当に親子なのだろうか、と歩は少しばかり不安になります。もし自分がもっと父に似ていれば、父は母と歩が暮らす家に帰ってくるのだろうか、と考えます。
父は凄い人なのです。大人の人を何十人も従える社長なのです。そんな父が歩の家に帰ってきてくれたのなら、きっと歩の家も普通に、いいえ、ひょっとすると普通以上のなにかになれる気がしました。
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