〈1〉 ④
母が校舎に消えてから、歩は助手席に座り直します。息が漏れました。緊張していたのでしょう。
ゆっくりと車が加速します。
授業中の校舎は静まりかえっていました。窓越しに、授業を受ける生徒たちの横顔が並んでいました。小学校の教室にずらっと吊られていたランドセルのようです。
ああ、と歩はぼんやりと悟ります。自分はあそこには入れないのだ、と。母が教壇に立つ教室にあっても、自分は異物と化してしまうだろうと容易く想像できました。
恥ずかしい、と歩は助手席で拳を握ります。母の前では「普通の子」でいたいのです。母が望む、レベルの高い子を装っていたかったのです。
ずしっと重たい父の掌が歩の頭に載せられます。母の不在を寂しく感じていると誤解したのかもしれません。
「昼はラーメン食いに行こか」
父がのんびりと言います。脂っこいものが苦手な母とは決して行けないお店です。そもそも母は外食や出来合いの料理が嫌いなのです。
こっそりと小さな悪事を働くことは楽しいと、歩は知っていました。教えてくれたのは父です。それが誰かとふたりだけの秘密であるならなおさらです。
父は、頻繁に歩の前には現れませんが、歩とふたりになるとなにかしらの悪事と秘密を共有させてくれる人でした。
母が嫌うファミリーレストランで食事をしたあと、母ならば手に取ることすら許してくれないレジ前の菓子を選ばせてくれました。アニメのビデオテープを買ってくれました。もっとも歩が知らない番組の、何巻もある途中の一本だったので内容などほとんど理解できません。それでも、アニメといえば英語教材かドラえもんしか許されていなかった歩にとっては新鮮で楽しいものでした。
そういう秘密の中でいえば、ラーメンは小さな悪事の中でも下の方に入ります。何度も犯してきた悪事なので、さほど刺激も感じません。それでも歩は「うん」と弾んだ声を作って答えます。
父は満足そうに笑ってから、「そうや」と芝居がかった仕草でハンドルを叩きました。
「しもた。仕事がちょっと残っとるんや。ちょっとだけ、ホンマにちょっとだけ、父さんの仕事場、寄ってもええか?」
今度こそ、歩は心から「うん!」と頷きました。
父の仕事場には行ったことがありませんでした。父がどんな仕事をしているのかさえ知りません。以前、母に問うたことがありましたが困ったように顔をしかめて黙り込み、結局教えてもらえなかったのです。以来、なんとなく父に訊くことも憚られ、それきりになっていました。
「父さんは」今ならば訊ける、と歩は身を乗り出します。「なんの仕事をしているの?」
「ん?」数秒、父は意味もなく握ったシフトレバーの輪郭を親指で撫でました。「……ちっさい会社の、社長みたいなもんや」
「え」と驚きで声が大きくなりました。「父さん、社長だったの」
「みたいなもんや。みんな、ワシのこと社長て呼ぶしな」
社長だから社長と呼ばれるのではないだろうか、社長みたいなものは社長とは違う立場なのだろうか、と歩は首を傾げます。
「ああ、でも、お母さんには内緒やで。ワシの仕事場行ったなんて知ったら、またへそ曲げよるでな」
ふたりだけの秘密や、という言葉が嬉しくて、歩は助手席で体を揺らします。お腹の底が温かくなりました。自分が父の秘密を教えてもらえるほど価値のある子供だという事実に頬が緩みました。けれど。
「由代さんのおウチは」なぜかクラスメイトの言葉が耳朶に触れました。「そういうおウチなんだよね」
ほこほことしていた気持ちが急に冷めていきます。アニメを視るためのお手伝いを拒否されたときのように、体が空気と同じ温度になっていきます。
「普通なんて」と母の、歩を小馬鹿にしたような笑いも蘇ります。「どこにもないのよ」
たぶん母にとっての父も、普通ではないのでしょう。クラスメイトが噛みしめるように呟いたように、歩の父も歩自身も、そして母ですら、どこかオカシイのです。
けれど歩にとって両親は普通でした。歩が知る父と母はそれぞれ、ひとりきりでした。歩がこれまでに読んだ本に描かれていた家族は、たいてい父親が仕事で家を留守にしており、母親が子供と過ごしていました。漏れ聞こえてくるクラスメイトたちの家も似たようなものです。違いといえば、母の仕事が長引いたときに、父がどこからともなく現れることくらいです。それだって仕事に行き、出張で遠くへ行き、たまの休みに家族サービスをする父親像となんら違いはありません。
ならば歩の家も本に描かれるような、普通の家なのです。
「今日、本当はスーパーで働く人にインタビューしに行くはずだったんだけど」歩はシフトレバーを握る父の、ごつごつとした拳に話します。「わたしは、父さんにインタビューするね。社長さんのインタビューなんて誰もしてないよ」
「おう」と父は頬を緩めました。「なんでも訊いたらええ。若いモンもなんでも答えてくれるで。ワシの仕事が終るまで、ちょっとだけ待っといたってくれや」
自慢したれ、と笑う父に頷きながら、歩はグループの子たちの顔を思い出していました。グループの誰よりも凄いインタビューがとれたなら、スーパーではなく歩の父の仕事を壁新聞にしてくれるかもしれません。
母は、他の子たちのレベルに合せて歩が下がることはない、と言っていたのです。それは歩が、他の子たちより高いレベルにあることが前提の発言です。だから歩は母の期待に応えるために、他の子にいろんなことを教えてあげなければならないのです。これまでは誰も相手にしてくれませんでした。相対性理論も進化論も、学校ではまだ習っていないことだからです。
けれど今回は違います。課題は、身近にある仕事を知ることなのです。父の仕事は、なによりも身近な仕事です。父の仕事は社長なのです。社長の仕事を知りたがる子は、たくさんいるでしょう。
「由代さんのおウチは、そういうおウチなんだよね」と言った女の子──ここにきてようやく歩は彼女の名前を思い出します。どんなことでもはっきりと口にする雪野さん──に、胸を張って「わたしのおウチは、こういうおウチなんだよ」と教えてあげよう。そうすればきっと、わたしが普通なのだと理解してもらえる。色違いであってもランドセルはランドセルであるように、同じクラスメイトとして付き合ってもらえる。
そう、歩は考えます。そう考えて初めて、翌日の学校が楽しみになりました。
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