〈1〉 ③

 道路を渡り終えると、母は助手席の扉を開けて、歩を座らせます。

 渋い煙草の臭いが満ちていました。開けっぱなしの灰皿には、茶色くなった煙草のフィルタが乱立しています。

 ばむ、と低い音を立てて扉が閉ざされました。母が後部座席に乗り込むや、待ちかねたように車が発車します。

「遅かったやないか」

 父の、少し不機嫌な横顔がありました。焦げ茶色のサングラスが頬に影を落としています。

 前に会ったのはいつだろう、と歩は考えます。おそらく先々週の土曜日だったはずです。午前授業を終えた歩が母との待ち合わせ場所でひとり立ち尽くしていたところに、この白いセドリックが滑り込んで来たのです。

「担任の先生が見つからなかったの」後部座席から母が、窓に映った車内に向けて答えます。

「そんなモン、先に電話で連絡しとけや」

 担任の先生も副担任の先生もスーパーに行っているので、職員室にはいないのです。そのことを母に伝えなかったことに、歩は少なからず罪悪感を覚えました。「先生はいないよ」と言っておけば、母は父に詰られずにすんだのです。

「気の利かん女やの、なぁ」舌打ちをした父は、ぐっとアクセルを踏み込みながら片手を歩の頭に載せました。「歩もそう思うやろ?」

 歩は声を出さず、俯きました。父には肯定したと、母には返答に困って黙り込んだと、思ってもらえる角度です。横目に窓ガラスの中に映り込んだ母を窺います。そっぽを向いていて表情はわかりませんが、歩の挙動を見ていないようでした。

 母の意識が向いていないことに、安堵します。

 父はよく、歩の前で母をけなしました。自分に同意してもらえると信じて疑わない調子で、まるで意地悪な男の子が好きな女の子の悪口をわざと大声で言うように、歩に告げるのです。母はあからさまに不機嫌になったり、笑い飛ばしたり、歩を味方につけようと反論したりと、そのときによってまちまちの反応を示しました。おそらく、そのときに母の気分次第だったのでしょう。

 気紛れにやって来てどこかに帰って行く父にとっては遊び半分でも、母とふたりで暮らす歩にとって母の機嫌はなによりも大切で深刻なものでした。

 父が消えると母は静かに「アンタ、本当はわたしのことをそんな風に思っていたのね」と確認するのです。「あの人と一緒に、わたしのことを馬鹿にしているの」「あの人がアンタになにを言ったのかは知らないけれど、アンタはわたしよりあの人の味方なのね」「そんな風に思われているのにアンタを育ててあげているわたしは馬鹿みたいね」と決して声を荒らげることなく淡々と歩を責め続けるのです。

 歩がどう謝ろうが、母の静かな憤りは母の気が済むまで何日にも渡って、ふたりきりの家を支配し続けます。

 だから歩は、父と母がそろっている空間が苦手でした。けれど母だけと、もしくは父だけど、ふたりきりで過ごすことは好きでした。

 歩は両親を、それぞれちゃんと好いていたのです。

 もっとも母は、父の悪口が本心からの憎悪ではなく気を引きたいがための軽口だと理解していたはずなのです。だからこそ、自分の仕事が夜遅くまでかかるときは父を呼び、歩の面倒をみさせていたのです。

 今日も、そういう日でした。

 父は母の悪口の合間に、学校のことを訊き、歩の返答など待たずにまた母の悪口を挟み、別の話題へと移っていきます。小学校の前の道を真っ直ぐに進み、インタビューのために訪れるはずだったお店の前を通り過ぎます。何人もの小学生の姿が見えましたが、同じグループの子がいたかどうかはわかりません。

 そのまま道を進み、川を渡ってすぐの大通りを右折しました。住宅地に入り込み、父は器用に細道を抜けていきます。そうこうして五分もかからず、母の職場に着きました。

 母は高校の先生でした。

 週に何度か夜間部の授業を受け持っているのです。

 夜間授業がある、父が現れない日、歩はひとり夜の空き教室で母の授業が終るのを待っています。授業の邪魔にならないように、他の先生たちに歩の存在を気づかれないように、黙って机に着いて宿題をします。宿題が終れば小学校の図書室で借りた本を読み、与えられたスケッチブックに絵を描き、折り紙を折って、ひたすら時間を潰すのです。

 けれど今日は父がいました。

 母は「じゃあね」と言って車を降ります。軽く手を振るとすぐに背を向けて、校舎へと歩いて行きます。ストッキングに包まれたふくらはぎが、母の歩調に合わせて鮮魚の腹のように光っています。

 ふと、グループワークのことが脳裏を過ぎりました。本当ならば今頃、クラスメイトたちとスーパーにいたはずなのです。「良いお魚の見分け方はありますか?」と訊くはずだったのです。

 歩は助手席の窓を開けて、母のふくらはぎに手を振ります。「いってらっしゃい」と声をかけます。「頑張ってね」とは言いません。以前「わたしはいつもアンタのために頑張ってるのに、これ以上頑張れって言うの?」と氷のように冷たく問われてからは一度だって口にしていません。

 歩は一度した失敗を繰り返さないように注意深く生きているのです。

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