〈1〉 ②
小学校一年生の晩春の頃です。
生活を支えてくれるお店について学ぶ授業がありました。六人グループで決められた近所のスーパーを訪ね、店員さんにインタビューをして壁新聞を作るのです。
席順で自動的に決められたグループで、アニメの放映時間について教えてくれた女の子が一緒でした。
事前に「普段、商品を並べるときに気をつけていることはありますか?」「オススメの商品はなんですか?」「お店の商品は全部覚えているのですか?」とそれぞれの訊きたいことを挙げて、整頓して行きます。
そしていよいよ、お店を訪ねる日になりました。
二時間目と三時間目の間にある二十分間の中間休みを利用して、お店まで移動することになっていました。他の生徒が校庭へ走り出る中を縫うように、六人グループで校舎を出ました。
と、学校前の片側二車線道路の向こうに、白いセダンタイプの自動車が停まっていることに気がつきました。見慣れた、日産のセドリックです。運転席に、パンチパーマの男の人が座っています。
「あ」と声を上げて、歩は足を止めました。
「
「お父さんが来たから」歩は道路の対岸に停まるセドリックを指し、校舎側に半歩戻ります。「帰らなきゃ」
「は?」男の子が不愉快そうに声を低めました。「サボんの?」
「みんなで行くって決まってるのに?」別の子も歩を責める語調です。「お父さんと学校と、どっちが大事なん?」
「え、だってお父さんが来たから……」
「お父さんなんて家に帰ったら居るのに? みんなでインタビューに行けるのは今日だけなんだよ?」
「お父さんは家に居ないでしょう?」歩は至極当然に答えました。「お父さんが来てくれない限り会えないんだから、授業よりお父さんのほうが大事じゃない?」
グループの子たちが不思議そうに顔を見合わせていました。校庭へ掛け出る子たちの波はとうに収まっていて、運動場の賑やかさが遠くに聞こえています。
歩はもう半歩、校舎側に戻りました。道の向こうでは、父の口元から煙草の煙が忙しなく上がっています。焦れているのでしょう。
助手席から女の人が出てきました。歩の母です。白いブラウスとベージュのスカートというきちんとした身なりで、そのくせ足下はカジュアルなスニーカです。母は左右を素早く確認すると横断歩道もない道路を小走りに渡ってきます。
「お母さんも来てるから」歩はもう、体を校舎に向けていました。「帰らなきゃ」
ランドセルを取りに駆け戻ろうとしたとき、「うん」と誰かが肯きました。思わず足を止めて、振り返ります。「うん」と女の子が、道路の向こうを見詰めたまま繰り返します。歩にアニメのことを教えてくれた子でした。
「いろんな家があるんだよね」女の子は、ゆっくりと歩に視線を送ります。「由代さんのおウチは、そういうおウチなんだよね」
そういうおウチ、というのがどういう家を指すのかはわかりませんでした。けれど歩は「うん」と適当に頷いて、駆け出します。
背後で、「こんにちは」と母の余所行きの優しい声がしました。
「いつも歩と仲良くしてくれて、ありがとう」
「いえ……」とグループの誰もが言葉を濁しましたが、母はそれを謙遜だと捉えたようです。「これからもお友達でいてやってね」と続けるのが聞こえました。
グループの子たちがどう答えるのか知りたくなくて、歩は急いで校舎に入ります。
これからもなにも、彼らは友達などではないのです。歩はクラスの誰とも仲良くなどありません。それを母に告げられるのは、厭でした。
うまく友達のひとりも作れない自分が恥ずかしかったのです。
廊下ではたくさんの子供たちが休み時間を楽しんでいましたが、歩の教室の中には誰もいません。みんなお店訪問に出ているのです。
ふと、壁際に吊られたランドセルの列が目に留まりました。赤と黒の中にひとつだけ、濃緑色のものがありました。女の子は赤いランドセル、男の子は黒、というのが暗黙の了解でした。赤と黒の二色で構成されたグループのなかに一点だけ、まるで傷んだ果実のように、歩のものだけが違う色をしています。
そういうおウチ、という言葉が、歩の中でぼんやりとした像を結び始めました。
色違いのおウチ、暗黙の了解から外れたおウチ。
歩は教科書をランドセルに詰め、教室を後にしました。ランドセルを背負って廊下を走る歩を、すれ違う子たちが物珍しそうに振り返ります。
校舎を出ると、もうグループの子たちは居ませんでした。代わりに、母が仁王立ちで待っています。クラスメイトに向けた優しさを剥いだ母からは、静電気めいた緊張感が漂っていました。仕事モードの母です。ランドセルが急に重みを増したように感じました。
唐突な父の訪れは、母が日勤ではなく夜勤になったことを示していました。
ふと、歩はグループの子たちの反応を思い出します。まるで父親というものが、いつだって家に居るような様子でした。
歩にとって父は、居ない人です。歩は母とふたりで暮らし、母の仕事の給料で暮らし、母の手料理を食べて、母と眠るのです。父は、休日の昼間に気紛れに現れて遊んでくれる相手でした。母が仕事で不在の夜に現れて、一緒にご飯を食べてくれる相手です。
それが普通だと思っていました。そういう父親しか知りません。
母に手を引かれて片側二車線の道路を小走りで渡ります。
「ねえ」歩は母の横顔を見上げました。「ウチって、普通じゃないの?」
「え?」母は心底おかしそうに笑いました。「なに言ってるの。普通なんてどこにもないのよ。みんな、自分が普通だと信じているだけ」
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