第7話 頸木として
雨が降っている。
森は朝を迎えた筈なのに薄暗く、ざあざあと曇天の空からは大粒の雨が森に降り注いでいた。
聞こえるのは雨粒が葉を打ち付ける音と地面を叩く音だけ。
そして人だった時とは比べ物にならない程に鋭敏になった嗅覚は雨と土が混ざった独特な匂いを捉えていた。
それは文明の中では感じ取れなかった匂い、人では感知できない匂いではあったが以外にも悪くは無いと思っている自分がいた。
だが雨は良い事ばかりではない。
雨粒が降り注ぐ中に踏み出せば泥と化した地面に加え常に体温を奪われる天気である。
自前の毛皮である雨を弾くにも限度がある、それを超えればずぶ濡れになるだけであり余計な体力を消耗してしまうだけだ。
森の生物達も脳に響く言葉、まるで呪いの呪文の様なものに侵されてはいたが悪天候の中で動く気配は感じられない。
どうやら最低限の本能は残っていたのか余計な消耗を抑える為に今日は巣の中で大人しく過ごすことにしたのか森は何時にも増して静かであった。
そして自分も今日は大人しく寝床としている洞窟で過ごすことを選んだ。
其処は沢の近くにあった洞窟であり全身が何とか収まるほどの大きさしかないが身を隠すのに問題が無いので今は此処を拠点としている。
そうして水源である沢も近くにあり立地としては悪くないと考える洞窟から自分は外を眺め続けていた。
聞こえて来る雨音がそれ程強くも無い事から豪雨ではないようだが何時止むかまでは分からない。
また体調は今のところ問題は無いが空腹を感じたら雨水でも飲んで誤魔化すしかないだろう。
本来の予定であれば今日も狩をしていた筈だった。
だが朝起きて見れば外はざあざあと雨が降る中、正直に言って雨天での狩りはやりたくない。
日々の生活に余裕があるとは言えない現状を認識してはいても雨天での活動経験は少なく未だ慣れない身体で動けば事故を起こしてしまうだろう。
それに加え雨に濡れてしまえば身体は次第に冷えていき身体の熱を失ってしまうのは避けられない。
その結果、体温を保つ為に余計な体力を消費してしまい空腹に悩まされるのは避けたい。
結論から言えば雨天時は住処とする洞窟で雨が上がるのを待つしかないのが現状である。無駄なエネルギーを消費せず明日に備えて身体を休める、これも一つの手段であり馬鹿にしたものではない。
だからといって洞窟の中で雨が止むのを待ち続けるのは正直に言って暇であった。
人であればスマホでも取り出して目的も無くネットサーフィンをして時間を潰せただろうが人狼モドキになった自分にはそれは出来ない。
それに以前に人狼顔では顔認証システムを通過できずにタッチ操作も鋭い爪が邪魔をして碌に画面を押せないだろう。
そして止めとしてズボンのポケットに仕舞っていたスマホは既に無くなっているのだ。
まず間違いなく意識が朦朧とした時に森の何処かに落としてしまったのだろう。
加えて探し出そうにも当時の不明瞭な記憶しか残っていないので最早不可能である。
気付いた時には文明の利器とは今生の別れを告げており、今できる事は洞窟の中で丸まって外を眺める位しか出来ない。
そうして朝目覚めてからは洞窟の外を眺めるだけであった。
耳に聞こえるのは雨音と自分の心音……
「くぅるる~」
それと連れ帰ったチビ、昨日助けた小さな獣の寝息だけだ。
姿形からはキツネに近い姿をした動物ではあるが実際の所は分からない。
取り敢えずにチビと名付けた小さな獣は身体を丸めて自分の身体に埋もれる様に寝息を立てていた。
昨日、チビを見つけた直後の身体は弱り切り呼吸の時に僅かに動くだけ、小さな身体を抱えて見れば体温も冷たく感じられた。
此処が都市部であれば動物病院を探し出して適切な治療を受けられたのだろう。
だが自分がいる場所は日本の都市部ではなく自然溢れる森の中であり、治療は望むべくも無かった。
そうした状況から出来た事は雨で身体が濡れない様に洞窟に連れ帰り、自分の身体で温める位しか出来なかった。
だがそれで充分だったらしい、丸まって規則正しい寝息を立てている事からチビは大事には至らず持ち直す事が出来たようであった。
そうなると今度は別の問題が出てきた。
目下の問題は助けたチビをこの先どう扱っていけばいいのかである。
そして自分の頭の中にはいい考えが全く思い浮かばず、色々と考えは浮かんでくるが全く纏まる気配がしないのだ。
そもそもとして自分の今の心境すら正確に理解しきれていないのだ。
何故死に掛けのチビを食べずに助けたのか、それは単なる気紛れなのか、それとも自分はまだ畜生ではないこと自覚する為に生かしたのか。
明確な答えを見つけようとしても頭の中にある考えは纏まらず迷走を続ける始末。
だが幸いにも外は雨が降っているお陰で考える時間は沢山あった。
直ぐに答えが出るとは思わない、だがそれでも時間を掛ければ答えは出るだろうと楽観視しながら雨が降り注ぐ森を見ながら自分は考え続けた。
◆
結果として雨は一日中降り続け、翌日になってから漸く雨は止んだ。
そして一日中散々考えたがチビをどうするかの考えは纏まらなかった。
保護した理由は途中から言い訳となり、それを認めるのが嫌で屁理屈をこね、それに納得できずにまた一から考える。
それは時間が有り余っていたからこそできた無駄な思考の空回りの極致であった。
思考の途中からは自分でも何を考えているのか分からなくなり、いつの間にか眠っていて翌日になっていた。
そして目が覚めた時にはチビはいなくなっていた。
自分の身体の上で丸まっていた筈だが姿形は洞窟の中には無かった。
それを理解した時の胸中は複雑だった、恩知らずのチビめ、余計な事をしたと遣る瀬無い気持ちが沸き上がる。
だが、それは一部に留まり全体から見れば小さなもの、それよりも仕方がないと思う気持ちの方が大きかった。
何故なら目が覚めたら見知らぬ大きな獣の上で寝ていたのだ。
自分よりも大きな身体を持つ正体不明の生物、人であっても事情が分からなければ恐怖を感じて一目散に逃げる状況である。
野生動物に至っては生死に直結する問題であり理性ではなく本能に突き動かされてしまうのは当然のことだ。
そしてチビは人ではなく野生の動物だ、恐怖を感じて逃げ出すのは動物として正しく間違っていない。
「……サビしいナ」
だがお陰で今の自分の気持ちを理解できた、寂しかったのだ。
人である証明、傷付いた動物への慈愛、優しさ等ではない、チビは助けたのは自分が単純に寂しく一人では心細かったからだ。
常識を何処かに置き忘れてきた狂った森の中にいるだけで擦り減っていく精神は孤独を癒し、寄り添ってくれる存在を無意識に求めていた。
だがチビはもう何処にもおらず、残されたのは人狼モドキの自分だけ。
理性は納得をしていたが、それでも寂しさを感じずにはいられなかった。
だが何時までも過ぎ去った事を考え続ける余裕は無い、洞窟から出て朝日を浴びる。
雨はやみ、洞窟の外には見慣れた薄暗く不気味な森が目の前に広がっている。
ならば昨日考えていた通りに自分は狩をするしかない、何より一日食事を抜いた身体が訴えかける空腹を我慢するにも限界が近付いていた。
いい加減何か腹に入れないと身体が持ちそうにない、朝日を浴びて覚醒した身体を動かして森へ向かって歩き出す。
小動物でもいいが出来れば纏まった死肉が落ちている幸運を願いながら。
「くるる──ー!!」
そして森へ歩き出した自分を見つめる小さな影が一つ。
気付かれない様にしながら後を付けている事に自分が気付くのはもう少し時間が経ってからだった。
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