2章 獣への適応
第6話 堕落する
絶海に浮かぶ孤島、此処には緑豊かな森が存在していた。
周りは海に囲まれた事で隔絶された環境である結果、太古の昔から続く営みが島の中では細々と繰り広げられていた。
──だが緑豊かだった森は変わり果てた、島の外から持ち込まれた外的要因により森はその姿と性質を大きく捻じ曲げられていた。
島を流れる風は荒々しく吹き荒び、海は島を覆うように渦を巻き、島に生きる生物は少しずつ狂気に侵されていった。
そして森は、島は行き過ぎた弱肉強食によって殺伐とした環境に激変した。
だがその本質は弱肉強食を装って入るが蟲毒に近いものであった。
森に生まれた生物は大小に関わらずその有様を捻じ曲げられていき他者を殺し食らう、それを繰り返す度に身体を前よりも強く強靭に変わり、魂は無理矢理に肥大化させられた。
其処には慈悲は無く、情も無く、残忍で、残酷な歪められた狂気しかなかった。
そして森は、森の奥深くに潜む暗闇の意思は、目的は今も昔も変わらずに其処にあり続け森を狂わせる呪詛を吐き出し続けた。
──争い、殺し合い、喰らい合え、満たされぬ渇望、飢餓を原動力とし唯一無二の怪物となれと
◆
水面に映った自分の顔、それは見飽きた人の顔ではなく獣の顔、犬に近しい容貌をしていた。
その異常な変化を知ると同時に今まで疑問にも思わなかった自分の身体の変化を嫌でも自覚してしまった。
女性から白いと言われていた手は黒い体毛に覆われ爪は人間の物には見えない程に鋭く長く尖っている。
頭がおかしくなるような変化は片手に収まらず両手にまで及んでいる、既に両手は人とはかけ離れた形へと変わっていた。
安物の服は既に着ておらず上半身は裸であり下半身には半分以上敗れかけたズボンの残骸を着ている有様である。
だが服の代わりだというのか裸同然の上半身は硬く艶の無い体毛が全身を覆い尽くしている。
そして腰に今まで感じた事がない感覚と共に尾骨辺りから尻尾が生えていた。
両脚の骨格は人間のものから四足動物の後脚の形に変わりかけていた。
水面に映った自分の姿は既に人間ではない、まるでアメリカのB級映画に出てくるような狼男のような姿に変わってしまっていた。
何度目の衝撃、何度目の絶望、何度目の恐怖なのだろう。
此処は夢ではなく現実であることは何とか受け入れた、受け入れるしかなかった。
だからといってこれは無いだろう、人ではない狼男モドキに変わっていく事まで受け入れられない、受け入れたくない!
だが改めて自分の顔を触り狼男の顔を剥がそうとするも痛いだけ、抓っても、毛を幾ら抜いてもその下に人間の顔を見つける事は出来なかった。
一通りの悪足掻きをしてから沢を離れ近くにある木に凭れ掛かる。
上を見ればない事も無かったかのように空は明るかった。
だが何時迄も否定、否認を続ける程の余裕ある訳では無い。
だからこそ考える、今の自分の状態は完全に変化が完了した姿なのか、それとも別の形に変化する最中にあるのか。
しかし幾ら悩んで考えても明確な答えは得られず、それ以前に自分の身体がこの先どう変化してしまうのか考えることがとても怖い。
しかし考えない訳にはいかないのだ。
そうして自分の変化に付いて頭を悩ませていると脳裏に義務教育で学んだ物語が一つだけ浮かび上がってきた。
あれは山月記だったか、傲慢な男が虎に変わってしまい、その境遇を嘆いた物語である。
時代も違えば出典国も違う物語ではあったが書かれていた境遇は今の自分とよく似ている。
そして人間だった虎は物語の中で泣いていた、当時は理解出来なかった男の心の内を今なら理解出来てしまった。
怖かったのだろう、苦しかったのだろう、孤独であったのだろう。
人であった頃に積み上げてきた何もかもが無くなってしまう、その恐怖を、悲しみを誰にも伝える事が出来なかったのだ。
だが物語の最後では自分の事を知る友人に出会えた。それは男にとって待ち望んでいた救いであり、今の自分の姿を友人に見られたくも無かったのだろう。
そんな事を追い詰められている状況でありながら自分は考えていた。
それは現実逃避の為でもあり、理性が余計な思考を行い、平静を保とうとした反応であったのだろう。
だが余計な思考に集中し自分を客観視できた事でもう一つの異常に気付くことができた。
何処からともなく声が聞こえるのだ、繰り返し何度も何度も。
『考えるな、喰らえ、強く、強大になれ』
空気の振動によって鼓膜を震わせる音ではない。
その言葉は無意識に脳内に響き、身体が、脳が無意識に声に従ってしまいそうになる。
明らかに自然ではありえない不思議な力が声には込められていた。
そして声は絶えず呼び続ける、かける、考えるな、喰らえ、強く、強大になれ、それを何度も繰り返して自分に呼びかけてくる。
──逃げろ、逃げろ、逃げろ!!
頭がおかしくなる、声の異常さを理解した理性が危険であると訴え掛けてくる。
──従っていればいい、声の言う通り殺し食らうだけでいい。
聞こえて来る声に従っていればいいと本能が語り掛け理性を手放せと訴え掛ける。
それは自分が引き裂かれるような感覚だ。
同じ自分である筈なのに声によって意識が、魂が引き裂かれてしまいそうだった。
このまま身も心も畜生に堕ちてしまえば楽になると本能が語り掛ける、人としての理性が本能を拒絶し反発する。
そんな葛藤の最中でも腹は減った。
幾度もなく経験した飢えが身を蝕むと同時に理性が削り落とされていく感覚があった。
そして理性と本能の狭間で葛藤を続けていると鋭敏になった嗅覚が、一つの匂いを拾った。
──血の匂いである。
──距離はそれ程離れていない。
──今駆け出せば直ぐに見付け出せるだろう。
理性は削ぎ落され思考は中断された。
腹を満たす為に身体を支配した本能が匂いの元に向って身体を動かし森を駆け抜ける。
そして見つけた、死に掛けの小さな獣を。
小さな、とても小さな獣。
争い負けたのか、身体は傷だらけで毛から血が滲み出している。
近付いても逃げ出す事はない、逃げ出す体力も既に尽きているのだろう。
これならば直ぐにでも仕留められると本能が語り掛ける。
そして自分は獣に近付き鋭い爪を突き立て──
「きゅるる……」
小さな獣は逃げなかった。
獣は自分を恐れる様な素振りは見せず、逆に近付いて来た。
目は血によって殆ど見ていないのだろう、私の事を親だと思っているのか凭れ掛かると全身の力を抜いて脱力をした。
その姿は余りに無防備であった。
どうして、何故、過酷な森の中では吹けば飛ぶような軽い命の癖に。
幾ら考えても明確な答えは出ない。
そして思考をしている間にも本能は容赦なく語り掛ける
──何を躊躇うのだ、この生物は容易く仕留められる、殺し、喰らい、自らの血肉とせよ。
本能が命じる、自分ではない何かに唆され支配された本能が命じてくる。
それに従おうとする自分がいる、抵抗しなければ、理性を捨てれば楽になれると思っている自分がいる。
なのに、私は、俺は──
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