第5話 身体を蝕む

 男の身体を蝕む渇きと飢えは名も知らぬ獣を腹に収める事で解放された。

 だがそれは一時的な事でしかなく死にたくない、生きたいと願い続けるのであれば継続的に水と食料を確保する必要があった。

 そして男の胃袋の大きさからして死んだ獣の血肉を全て腹に収める事など不可能である。

 渇きや飢えもあって普段の男からは考えられない程の量の血肉を飲み食いしていたが1日もすれば全て消化され消えてしまう量でしかない。

 何よりある程度身体が満たされてしまった段階で食べ続ける事が男にとって苦痛になってしまった。

 それは胃袋の限界もあるが、根本的な問題として適切な処理をされていない生肉を食べ続ける事が苦痛だったからだ。

 男は日本人でもあり刺身や寿司、ユッケと言った生ものを出されれば食べる。

 だがそれは好物である以前に健康を害さない様に法律によって適切な処理が行われ、さらに飲食店によって入念な調理を経てから提供されるものである。

 飲食店や食料品売り場で売られている物とは違い下処理を何もしていない生肉は全てにおいて食べること自体が苦痛であるのだ。

 だが空腹と言う極上のスパイスにも誤魔化すには限度があった。

 それでも今後の先行きの事を考えれば食べられる内に生肉を食べるしかない。


 男は文字通り胃袋がはち切れそうになる寸前まで食べられるだけの肉と飲めるだけの血を飲んでいく。

 そして男は顔や両手は血で真っ赤に染めながら手で持ち運べるだけの肉塊だけを切り取ってその場を離れる。

 それは仕留めた獣の全てを持っていく運搬手段がなく、仮に運べたとして獣の肉を腐らせず長期間の保存をする術がないからだ。

 もしかしたら持ち運ぶ肉会から漂う血の匂いを嗅ぎ付けて男に近寄る動物がいるかもしれないが、飢える可能性を考えれば背に腹は代えられなかった。


 そして男は再び森の中を歩きだす。

 太陽が地平線の向こうに沈み掛けたせいで薄暗くなった森の中は見通しが悪い。

 何があるのか近くに顔を寄せなければ判別が出来ない程であり、そんな状況で原生林の中を歩き回るのは自殺行為でしかないだろう。

 だが不安は無かった、死に掛けた獣に導かれていた時の様に言語化しがたい感覚が同じように原生林の奥に続いているのだ。

 何処に辿り着くかは全く分からない、それでも現状において唯一の導きとなった感覚に導かれるままに男は森の奥底に向けて歩き続けた。






 ◆ 






 あれから何日が経ったのだろうか、森の奥に進む度に少しずつ何かが欠落していくような感覚を男は覚えた。

 だが何が欠落しているのかは分からない、日々襲い来る渇きと飢えをどうにかする事で精一杯な男に余計な思考をする暇はない。

 既に獣から切り取った肉も食い尽くした、それから男は最早形振り構わずに原生林に生息している小動物を仕留めるようになった。

 息を潜め、気配を殺し、感覚を研ぎ澄ませ近寄る小動物に襲い掛かり食らいつく。

 始めて独力で獲物となる小動物を仕留めた時は皮を剥ぎ取ってから焼いて食べようとした。

 だが人生において一度も動物の解体をしたことがない男が小さいとはいえ動物を解体する事は困難であった。

 皮を剥ごうとして食べられる肉をそぎ落とし、肉を潰した衝撃で内臓から余計な血が流れ出た、小さな失敗が積み重なり遅々として進まない作業によるストレスは大きかった。

 そして一向に進まない作業に業を煮やした男は解体を中断しそのまま仕留めた小動物に噛みついた。

 小さ骨を噛み砕き、生まれ持った歯で肉を噛みちぎる、流れ出る血は貴重な水分であり一滴も無駄には出来ないと口に流し込む。


 その行動は男の初日の慌てぶりからは考えられない、本人すら信じられないような変化であった。

 だが当の本人は極限状態に追い詰められた人間の適応力が変化だと捉えている。

 過酷な環境に適応し生存する為に人間の理性とは異なる生物として人間が持つ原始的な本能が働きかけた結果であると。

 効率的であり仕留めた獲物を一欠けらも無駄にしない、何よりこのままでいいと男は思ってしまった。


 そうして男は森に生きる小動物を喰らい続けながら何かに引き寄せられるようにして森の奥へ、奥へと進み続けた。

 その代償としてか奥へ向かうと共に男の感覚は徐々におかしくなりつつあった。 

 視覚は夜の暗闇であっても空から降り注ぐ星明り昼間の様に見渡せるようになった。

 反対に味覚は鈍くなり細かな味を判別する事が出来なくなったが生肉に齧り付く際に味わう苦味や渋さが緩和された事で食事は楽になった。

 そうした感覚の変化は生物としての生存戦略によるものか、環境適応なのかは男には判断できない。

 それどころか最近は喉が渇いた、腹が減った、眠りたい、等の原始的な欲求が根幹にある思考が頭を埋め尽くし小難しい事を考えるのが億劫になってきた。

 それでも水分は常に不足しているので何処かで水源を見つけたいとは考え続けながら奥へと男は進んで行く。


 そうしてどれ程の距離を歩いてきたのか男はもう覚えていない。

 長かったようにも、短かったようにも感じられ時間の感覚は当てに出来ない程おかしくなっている。

 まるで夢遊病の様に、熱に浮かされる様に男は森を進み続け──近頃鋭敏になった聴覚が何時もとは異なる音を拾った。

 草木が擦れるような音ではなく何かが流れるような音、それが聞こえた瞬間男は立ち止まり耳を澄まして音の出所を探った。

 そして音の発生源に目星を付けた男は走り出した。

 眼を血走らせ、不整地を物ともせずに駆けた先にはか細い沢であり、其処には水が絶えず流れていた。


 ──水、水だ! 


 男は躊躇せずに水面に顔を沈めた。

 冷たい水が走った事で火照った顔を冷やし、口を開ければ血とは違う混じりけの無い水分が喉を通り身体に染み渡っていく。

 そして男は胃袋が水で満杯になるまで飲み続けてから水面から顔を出した。

 飢えと渇き、その両方から解放されたことで暫くぶりの余裕を男は持つ事が出来、今度は打って変わって自分の身体から凄まじい匂いがすることに男は気が付いた。

 だが長い間風呂には入っていない事を考えれば至極当然の事ではある。

 今まで余裕が無かったため無視していたが血、土、汗、その他にも様々なモノが交じり合った匂いは強烈であり正直に言えば鼻が曲がる程の悪臭である。

 それに気が付いてしまった以上どうにかしなければ落ち着かない男は身体を洗おうとして沢に再び近付き──今の自分の顔を知ることになった。


「ア、なンだ、こレ、どうナって……」


 水面に映るのは人間の顔ではなかった、毛に覆われたナニかが水面に映っていた。

 男は自分の顔に両手を持っていけば、水面に映るナニかも同じように動いていた。

 それは見間違いでは無い、幻覚でもない、それが自分の顔であると分かってしまった。






 そうして人から獣へとなり果てた男の物語が始まった。

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