第4話 水を、糧を求めて

 喉が渇く、耐え難い渇きが身体を蝕んでいる、水を身体が求めている。

 空腹に苛まれる、身体の臓腑が無理やり搾り上げられるような飢え、食べ物を身体が求めている。


 水は身体の体調維持には欠かせない代物であり、成人男性では体重の60%が水分である。

 だが水分は生きているだけで汗、尿、不感蒸泄等と形を変えて常に体外に排出される。

 だからこそ人体は失われた水分を補う為に水を飲む、人間は水分を補充しなければ正常な生命活動を維持できない。

 成人男性が必要とするのは1日の最低1ℓ以上の水である。


 ──そして人は水がなければ “3日”しか生きられない


 だが男が迷い込んだのは文明の香りが一切ない原生林の只中。

 此処にはミネラルウォーターを詰めた自販機も無ければ固定インフラである筈の水道なんてものは存在しない。

 ならば湧き水でも何でもいい、水が流れている所は、雨水が溜まった窪地でもないかと男は目と耳を凝らして森の中を見渡すがそれらしいモノは一切見つかる事はなかった。


 端的に言えば男の行動は擁護しようもなく致命的な失敗だった。

 人間の生存な必要な水分の確保、それを怠り現状と夢と断じて二日間何もしなかった人間の末路はどうなるか、それを男は身をもって味わっていた。

 既に男の体調は悪化の一途を辿り喉の渇き、眩暈、軽い吐き気といった脱水症状の特徴が表れていた。

 今はまだ初期症状で住んでいるが水分が補給されなければ症状は悪化し続ける。

 このまま放置すれば重度の脱水症状に陥りに、遠からず死ぬ事になるだろう。

 それを理性ではなく本能として男は感じ取っていた。

 だが悪化する一方の現状に対処しようにも水を見つけられないのだ、そして男には極限環境下において湧き水や川、窪地に僅かに溜まった雨水以外に飲み水を得る方法を知らない。


 詰みである、もうどうしようもない、そんな考えが頭の片隅に芽生えてくるのに時間は掛からなかった。

 だがそれでも生きたいという本能が、単純な願望が男の身体を動かす。

 男の理性を、意思を置き去りにして本能は精も根も尽き掛けた身体を少しでも遠くに、少しでも速く動かそうとする

 それからどれほどの時間が経ったのだろうか、時間の感覚があやふやになった男には全く分からなくなっていた。

 それでも無心に近い状態になった男は当てもなく森の中をゆっくりと進み続ける。


 だが何処からともなく聞こえてきた音によって男の意識は急に呼び戻された。

 それは風によって森の木々が擦れ合って出る音ではない、それは間違いなく動物の鳴き声であり咆哮か雄叫びに近いものだ。

 それが一つではなく二つ、異なる咆哮が森の奥から聞こえて来た、そして最悪な事に聞こえる限りでは男からそれほど遠く離れてはいない。

 そして理性が判断を下す前に本王が身体を動かし声から遠ざかろうと動き出した。

 もしかしたら男の幻聴だったのかもしれない、だが逆に本物である可能性もあるのだ。

 そして聞こえてきた声、咆哮が本物であったとすれば全力で逃げ出さなければならない。

 見知らぬ森の見知らぬ生き物、もし肉食動物であれば弱り切った今の男は容易く仕留められる獲物でしかないのだから。

 だが森を歩き続け体力を消耗した身体は動いてはくれなかった。

 惰性で歩き続けてきた脚は限界を迎え小さな窪みに足を引っかけて転んでしまい、其処から起き上がることが出来ない。

 咆哮から逃げるために方向転換をしようにも身体が、足が動いてくれない、それどころか立ち上がる気力すら転んだ拍子に何処に落としてしまった。


「……ははッ、もう、嫌になちゃうよ……」


 僅かに残った体力を振り絞り身体が土で汚れるのを厭わずに這いつくばるように動き男は近くにあった木の根元に凭れ掛かった。

 僅かに残っていた体力は振り絞って使ったせいで身体のもう何処にも残っていない。

 朦朧とした意識のまま空を見れば日も傾いている、もう暫くすれば森は再び暗闇に包まれるだろう。


「……疲れた」


 男はもう諦めた、生存の為に行動することを辞めた。

 逃げる為の体力は底を尽いた、迷い込んでから時間が経ち過ぎた。

 遠くから唸り声や雄叫びが聞こえてくるが最早知った事ではない。

 元から無理があったのだ、危機的な常用から生存するのはハリウッドとフィクションにしか許されていない専売特許なのだ。

 男の知るサバイバル知識とは動画投稿サイトや雑学を通しての物でしかなく、それは現代文明の恩恵が受けられる範囲でしか通用しない代物でしかなかった。


「……せめて、痛みを感じさせずに殺してくれ」


 諦めた男は目を瞑り眠る、遠くから聞こえてくる咆哮を放つ生物が寝ている間に男を苦痛なく殺してくれることを願って。






 ◆






 どうやら男は死に損ねたらしい。

 それなりの時間の間眠っていたようで眠る前と比べて原生林は少し薄暗くなっている。

 何より遠くに見える太陽が地平線の向こうに沈みかけていた、もう暫くすれば太陽は完全に沈んで辺りは暗闇に包まれるだろう。

 だが此処から何をすればいいのか男には分からなかった。

 眠った事で僅かに体力は回復しているがそれだけ、残った気力は僅か、飲み水は一滴も見つからず、全くと言っていいほど現状を打開できる要素は皆無である。


 だが男の五感がその間際にあって言語化しがたい感覚を捕らえた。

 幻覚、幻聴、幻視、色々な可能性が考えらえるが妙な感覚は薄暗くなりつつある森の奥底を指し示していた。

 そして碌に動かない男の身体は何故か妙な感覚に引き寄せられるがまま立ち上がり森の奥に向って歩き出す。

 まるで手を引かれて連れていかれるようであった、悩む事は無く足元が覚束ない有様でありながら身体は勝手に動き出す。

 本来であれば一度立ち止まり考えるべきだろう、だが男は此処までくればもう如何とでも成れと投げやりな思考でいた。

 惰性でもいい、当てがなくてもいい、不思議な感覚に導かれるまま男は歩き続けた。


 ──そして死の間際で男はか細い糸を掴んだ。


 不思議な感覚に導かれるままに歩き続けた先にいたのは死に掛けの獣だった。

 大型の肉食動物に比肩する大きさをしている獣は獅子にも、犬にも見えるがどれとも違う男の人生において初めて見る生き物であった。

 おそらく森の奥から聞こえてきた咆哮の片割れ、もう一匹此処に居たであろう獣の片方と縄張り争いか、獲物の奪い合いかで争い、傷付き、負けたのだろう。

 弱り果てている獣の身体には至る所に傷があり、傷跡も一目見る限りでは深い様に見える。


 だが男が傷付き弱り果てた獣で目を引き付けたのは傷口から流れ出る血だ。

 そして今もなお止まらず少しずつ流れ出る赤い血を見て男は無意識に思った。


 ──アレを飲めば渇きから解放されると。


 生食の危険性、感染症の恐れ、様々なリスクを考える余裕は既に男には無かった。

 今は唯、身体を苛む渇きを沈める事しか考えられない。

 幸いにも殺すに足る凶器はすぐ傍にあった。

 地面にある大きな石、持ち上げるのは大変だろうが勢いよく振り下ろせば生き物を容易く殺せる威力を容易く出せるだろう。

 気力の尽き掛けた身体に鞭を入れ男は石を持ち上げた、そしてふらつく身体で死の掛けの獣に向けで石を振り下ろした。 

 獣から悲鳴が上がる、一度では息の根を止められなかった。

 だが僅かに身動ぎするだけで暴れ出すことは無い、元からそんな力も残ってはいなかったのだろう。

 好都合であった、男は再び意思を持ち上げ振り下ろした、獣が息絶えるまで何度も何度も。そうして漸く硬い頭蓋を砕き、柔らかな脳を潰した感触を振り下ろした石を通して男は感じ取った。


 そこから考えを巡らせる余裕はない、男は完全な死体となった獣から流れ出る血を両手で掬い喉を潤して喉を潤した。

 まだ暖かい血が喉を通して内臓に行き渡る、待ち望んだ水分に身体は歓喜した。

 そして振り下ろした衝撃で石が割れて出来た鋭い石の欠片を男は獣の身体に突き刺す。

 滑らかと言いにくい、それでも最低限の切れ味によって獣の身体から肉を小さく削いでいき切り出した肉を口に入れる。

 生臭く血の味しかない肉であったが飢えていた身体には充分であり空腹が満たされる

 そうして限界まで酷使された男の身体に水と栄養が行き渡る。

 味について考えることは無い、口を汚し、手を汚し、無意識に涙を流しながら、生物が持つ原始的な本能に従い渇きと飢えを満たすためだけに男は身体を動かす。


 ──口に入れた獣の血肉、それが自らを変異させる切欠になるとは知らずに。

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