第3話 見知らぬ森の中で

 あれから一夜が経った。


 暗闇から聞こえてくる遠吠えに対して自分が出来た事は目を瞑り、耳を抑え、悪夢は冷めろと念仏の様に唱えるだけ、それを夜が明けるまで何度も何度も繰り返し──しかし何も変わらなかった。

 いや一つだけあった、朝日が昇り暗みに包まれていた森の姿が露わにしたことだけが唯一の変化だった。


「どうすればいいんだ……」


 思わず口に出した独り言、だがそれに答えてくれる人はいない。

 相も変わらずスマートフォンに届く電波は皆無であり現代人にとって欠かせない知識の引き出し口でもあるネットとの接続は切れたままだ。

 それでも極短時間でも繋がった瞬間があるのではないか、見逃していただけではないのかと根拠のない希望を持って画面を見続ける。

 電波が届いた瞬間を、この悪夢における唯一の出口であろう瞬間を逃さないように。


 それと同時に日が昇ったことで目が覚めた頭でどうして自分がこんな場所にいるのか原因を考えている。

 不用意な危険を冒さないように穴倉に体を丸めて閉じこもっているおかげで考える時間は幾らでもあるのだ。

 だがいくら考えても理由も原因すら分からないが目覚める直前の記憶は今でも思い出せる。

 会社での仕事が終わり退社、寄り道をすることなく自宅帰り玄関の扉を開け──そこで記憶は途切れていた。

 当時の自分は素面でありアルコールを一切摂取していない、前後不覚になって玄関席で倒れるような事はあり得ない。

 ではアルコール以外で考えられるのは……身代金目的の人攫いの可能性が一番高い。

 だが何故時分なのか、幼児や小学生等の攫い易い子供ではなく成人男性を攫うのは困難であり反撃される可能性も顧慮すれば選択肢として悪い。

 それでも態々成人男性を攫うのであれば身代金以外の目的、例えば会社の機密情報を欲しがっているのではないか──とそこまで考えて自分の荒唐無稽な想像が馬鹿らしくなってくる。


 たかが食品流通会社の一社員、しかも世界的大企業の幹部クラスであればまだしも日本に数ある中小企業の中の一つだ。

 特に最近は世界情勢のきな臭さを鑑みて手広く事業を拡大に取り込んだ結果人手不足感が否めない会社ではあるが。

 その、とばっちりで部署関係なく便利屋のように使われ日々の残業が当たり前となり社畜の一歩、いや半歩程手前で留まっているのが自分である。

 そんな自分に価値があるとはいえないだろう……考えていて悲しくなってくるが間違ってはいないだろう。


 そうして幾ら考えても原因も理由も分らないまま時間だけが過ぎていく。

 やはり幾ら記憶を遡ってみても此処に来るまでの記憶は全くない以上、これは夢でしかない。

 そうであるならこれ以上考える必要はなく、夢から覚めるまでこの小さな穴倉の中で体を丸めているだけでいいのだ。






 ◆






 更に一夜が明けた。

 二日になっても現状は変わらなかった。

 スマートフォンの電源はとうに切れ光を出すことがない高価な板になった。

 一睡もしなかった事が影響しているのか昨日までの頑なさは何処にも残っていない。

 夜が明けて再び朝日が差し込んだ瞬間、夢でしかないと高を括っていた思考消え失せ、代わり芽生えてきたのは不安と恐怖──そして絶望だ。

 あり得ない、理解できない、おかしい……、そんな言葉は一夜の内で言い尽くし、今はもう言葉にするだけの気力は残っておらず穴倉の中から外を眺めているだけ。

 穴倉の中から覗いた先にあるのは都会では見る事が無い原生林、朝日に照らされた森にはコンクリートもアスファルトが影も価値も存在せず、聞こえてくる音の中には乗車のエンジン音は一切ない。

 それはどうしようもない程に此処が住み慣れた土地とは全く異なる場所である事を如実に物語っていた。


 森を見ても何も感じることは無い、加えて何かをする気力も湧かない、ただ茫然と外の景色を眺めるだけ。

 夢から覚めることを願い、洞の中で小さく丸まり続けて得たものは二日間を無為に過ごしていた結果だけだった。

 夢から覚める気配は一向にない、五感から送られてくるものは見慣れない光景と、見慣れない匂いだけ。

 皮肉にもそれらが未だに五感が動いていること、確かに機能している事を証明し続けいた。

 そして未だに機能し続ける身体よりも先に限界を迎えたのは精神の方であった。


「……どうすれば」


 何もしなかったお陰で考える時間は沢山あった、だがそれが結果として悪い方向に働いてしまった

 募る不安と現状に対する恐怖、それらを誤魔化すための方便を頭の中で繰り返し続け自分を欺き続けてきたがそれも限界、平静を保つ筈の言葉は目の前にある現実を否定し、自らの精神が削るのを早めるだけだった。


「水、水を……」


 そして何もせずに穴倉に籠っていられる時間はもう残されていなかった。

 腹に突き刺さるような痛みと共に空腹が、堪えがたい程の喉の渇きと共に脱水の症状が現れた。

 特に脱水に関しては危険な状態であり、あともう一歩で自分は死んでしまうだろうと本能で分かってしまった。


「死ぬ、だけど……死ねば……」


 夢の中で死ねば現実に戻れるのではないか、そんな考えが頭に浮かんだ。

 根拠はない、身体を襲う強烈な乾きと飢えが正常な思考を妨げた結果として苦し紛れに浮かんできたものでしかない。

 衰弱するしかない今の私にとっては心が傾く程の魅力的なものであるのは間違いなく──だがそんな都合の良い事が起こるものかと断ずる理性がまだ残っていた。


 最後に残った理性が告げる、此処に迷い込んでからの日々はどうだ。

 見知らぬ環境に怯え恐怖し穴倉に閉じこもり身体を小さく丸めて引きこもった。

 これが夢だと断じ、夢から覚める事を願い何もせず、念仏のように言葉を唱え続けただけ。

 それで何が変わった、それで救われたのか? 

 時間が経てば解放されると思っていた、その積み重ねた結果はどうだった。


「……夢じゃない」


 認めるしかない、受け入れるしかないだろう。

 締め付ける様な飢えが身体を襲い、五感を通して知覚できる音と光に横たわる身体に食い込む小石の感触、感じられる全てが本物であると、夢ではないと訴えかけている。

 それらを通じて此処は痛み感じる現実であり、夢ではないと理解させられた。

 死ねば夢から解放されるなど甘いことは言えない、本当に訳も分からずに死んでしまうかもしれないのだ。


「動かないと……、今まだ……動ける内に」


 だからこそ行動を起こすのであれば今はもう一秒でも無駄にすることは出来ない。

 そうなると穴倉に閉じこもった選択は今更ながら間違いであったとしか言えないが、仮に行動に移せたとしても事態が好転する保証は何処にもない。

 見ず知らずの場所での行動は困難を極めるに違いない、容易に事が運ぶことは無いだろう、文明に囲まれて育ってきた現代人が簡単に生存できる生易しい環境では決してないだろう。

 それでも生きたいのであれば残された時間を無駄には出来ない、此処で行動を起こさなければ待っているのは死しかないのだから。


 穴倉で小さく丸まり続けた身体を動かしていく。

 固まった筋肉を動かす度に鈍い痛みが走る、それをなるだけ意識しない様にして穴倉の外に、未知の世界に踏み出す。

 空から差し込む日の光が冷え切った身体を温めるのを感じながらふらつく身体を動かし原生林へ向かって歩き出す。


 今思う事は一つ、死にたくない、唯それだけである。

 生きたいと叫ぶ本能に従って生きるために行動を起こさねばならない。

 それでも心の隅では、これは諦めた訳ではない、ただ今は異常な事態にあること受け入れるだけだ、と小さく自分に囁き掛けながら原生林の中を進んで行った。

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