第2話 夢は覚めず
目の前に広がる光景、これは現実のものなのか。
あり得ない事が起こっている、あり得ないものが見えている。
今言える事は自身が立っている原生林は自力で辿り着けるような場所ではない。
可能性は限りなく低いが拉致された、あるいはアルコールによる前後不覚の状態であれば迷い込んで──いや、それはり得ない。
自分は蟒蛇でありの肝臓の強さに関しては会社で並ぶ者はおらず実はロシア人ではないかと疑われる程だ。
そんな自分が酒で意識朦朧となるのは在り得ないは知っている、であるなら残された可能性は拉致しかない。
だがそうであるなら拉致した人間を何故原生林に放置するのだ。
拉致したのであれば犯人は自分を目の届く場所に置き身代金なり何なり請求を請求するのではないのか。
「現実味がなさすぎる。であるなら夢でしかないのだろう」
結局のところ、考えらえる結論は全て夢に集約される。
実際に現実ではありえない光景、空に浮かぶ二つの月がその確たる証拠である。
地球の日本で生まれ育ってきた自分が身に着けた知識、常識によって今見えている見慣れないもの全てが夢であると結論付けた。
だが夢であると結論付けたものの今も止まらずに五感には大量の情報が流れ込んでくる。
今迄嗅ぎ慣れていたコンクリートやアスファルトの匂いとは違う、圧倒的な自然が運んでくる植物の独特な匂い。
埃っぽい熱気を孕んだビル風とは全く違う、肌を撫でて過ぎ去るだけ冷たく湿ったそよ風。
何重にも重なって耳に聞こえるのは聞きなれた車のエンジン音ではない、多種多様な木々と植物の葉が互いに擦れて生まれる音だ。
夢である筈なのに脳には正常に五感が作動していなければ得られない情報の濁流が流し込まれ告げている。
──目の前に広がる光景は夢でも勘違いでも何でもない、コレが現実だと。
「はッ、馬鹿馬鹿しい。単なる明晰夢だ」
だからといって自身の直感を直ぐに受け入れられる自分ではない。
私は変に世離れはしてはおらず、夢見がちな少年の年齢でもない。
大人として会社で働き、給料を貰い、物を買い、納税し、日々コツコツと老後に向けた貯金をする一人の社会人である。
「あり得ない、あり得ないに決まっている。そうだ、これは明晰夢だ」
明晰夢、睡眠中にみる夢であり、自分で夢であると自覚しながら見ている夢のこと。
それが今、私に起こっている現状で一番理屈が通り説明できるものだ。
「これは明晰夢、単なる夢、だから早く起きればいいだけだ」
いきなり違う世界に迷い込んでしまった、といった世迷言をフィクションとして楽しむ分には問題は無いが、それが現実に自分に起こったというのは流石にどうかしている。
とはいえ夢を見てしまった以上覚めるまで待つしかない、本当であれば泥の様に眠りたかったのだが間違いなく昨日の仕事の激務が応えているのだろう。
眠りが浅くなりこの様な荒唐無稽な夢を見る羽目になってしまった。
そう考えて納得してしまえば何と迷惑な夢か、つまり余りにも忙しすぎて仕事から遠く離れたいと願った脳が生み出したのがこの夢なのだろう。
「何とも極端な夢だな、こちらは夢なんか見ずに熟睡したいのに」
社会人として日々の体調管理は大切な仕事の一つである。
それを怠れば翌日の勤務に支障が出るのは間違いなく、勤務評価がマイナスになってしまうので全く笑えない。
「さっさと夢から覚めて寝なおそう」
であれば一度夢から起きる必要があるが目を覚ます方法は簡単だ。
今見ている物が夢だと自覚する、それに加えて夢の中で驚きや恐怖を感じれば直ぐにでも目を覚ます筈だ。
そうする事で感情が高まり心拍数が上昇、脳が睡眠状態から活動状態に移行して覚醒に移行する。
唯一の問題は寝起きが悪くなってしまう事だが仕方がない、今はするべき事は夢から目を覚ます事だ。
「……覚めないな、それ程夢に深く浸かっているのか?」
だが目の前に広がる景色は何時まで経っても何一つ変わらない。
空には二つの月が浮かび、そよ風が吹いている。それどころか薄暗かった森がさらに暗くなっていく。
夢であると自覚した筈なのに目が覚める気配は一向にない
「ホラーは苦手だ、早く覚めてくれ」
正直に言って薄暗くなっていく原生林に立ち続けるのは怖い。
幼い頃よりホラーや幽霊と言ったものを苦手であり大人になった今は多少改善されているがホラー等を連想させる様な暗闇には出来るだけお近づきになりたくない。
だが周りが薄暗く闇に染まっていく事に恐怖を感じていながら夢から覚める気配を全く感じられない。
人は夢の中で興奮すると、心拍数の上昇と共に体温が上昇し、その結果としてより容易に夢から覚醒してしまう筈なのだ。
実際に暗くなる原生林に自分は本能的な恐怖を感じている、心拍数は嫌でも上昇しているのは間違いない。
もしかしてまだ夢から覚めるには足りないのか。
そうであるなら興奮する以外にも思考を活発化させる事も覚醒の要因になる。
現在進行中の夢のイメージに逆らう物を思い浮かべればいい、夢の流れを思考で歪め逆らう事で夢の構成に干渉すればいい。
夢の形が変わる程強く念じて変化させるには複雑な思考が必要であり、その行為が覚醒を早める効果を持ち目が覚め易くなる筈だ。
だから強く念じる、思い浮かべるものは会社にある自分の机だ。
夢でも仕事場を思い浮かべるなんて社畜染みていると自分でも思うが見慣れたものであり細部まで想像し易いから仕方がない。
──だがいくら強く念じても夢が覚めることは無かった。
目の前に会社の机が現れる事も、目に見える光景が変化する事も無い。
原生林の中にいる事は変わらずに暗闇が少しずつ近付いて来る。
まるで底なしの穴の様な暗闇、一歩でも踏み込んでしまえば際限なく下に落ちてしまいそうだ。
それが単なる錯覚であると頭では理解していても無意識に身体は動き出す、暗闇から逃れようと後ろへ下がり──だが何かに足を引っ掛けて転んでしまった。
「痛い……?」
幸いなことに勢い強くなかった事もあり後ろへ倒れはしたものの地面に両手をついて止まる事が出来たので大きく転ぶことは無かった。
だが地面に付いた両手から誤魔化し様も無い明確な痛みが襲ってきた。
どうやら手を置いた場所に鋭く尖った小石でもあったのか掌には小石食い込んでいて其処から鋭い痛みが伝わってくる。
加えて掌には幾つもの細かな傷が刻まれ、僅かだが血が滲んでいた。
「……痛い。夢だろう、これは」
それは誤魔化しようがない痛みだ。
夢で感じるような掴み処の無い感覚ではない、現実と相違ない痛みだ。
「覚めろ」
不安が膨らむ、それを晴らすために頬を抓る──ただ痛いだけだ。
「覚めろ覚めろ」
頬を軽く叩く、軽い痛みと共に心拍数が上がる。──首を伝って駆け上がる血流を自覚できてしまう。
「覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ」
頬を強く叩く、我慢の限界近い痛みが襲ってくるが何も変わらない──口から水分が失われていくのを嫌でも自覚してしまう。
「覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろッ! いい加減に夢から覚めろ!」
頬を叩くだけでは足りない、近くにあった樹木に額を打ち付け、衝撃が額から頭蓋に伝わり脳を揺さぶる。
──だが何も変わらない、夢から覚めない、何かもがそのままだ。
「なんなんだよ、これ……。なんなんだよ……」
押し寄せる不安と恐怖が冷静さを削ぎ落していく。
それでも残った理性を総動員し、自分を誤魔化して冷静であろうとした。
──原生林の何処から鳴き声が聞こえてきた。
「ひッ!」
動物に関する知識は殆ど持ってはいない。
犬猫や有名な動物の鳴き声を動画で聞いた事はあるがそれだけであり聞こえてきた鳴き声から動物を特定する知識なんてものは皆無だ。
──だからこそ恐怖の対象にしてしまった、知識の浅さが暗闇で聞こえる鳴き声を致命的なものにした。
何かが森にいる、それが私を狙っているのではないか。
被害妄想じみた考えだ。
それでも冷静な思考が蒸発した今、それが唯一の現実だと認識してしまった。
「あ、ああ、あッ!」
気が付けば走り出していた。
何処まで走ったのか、どれ程移動したのか、そんな事を考える余裕は無い。
ただ息が切れるまで、肺が焼け付く程の熱を持つまで唯只管に走り続けた。
そして気が付けば一歩も踏み出せない程の疲労があった。
何時の間にか立ち止まり膝に手を突いて激しく息を吐いていた。
肺が酸素を求めて荒い息を吐き出し新鮮な空気を求めた。
そして一息ついて顔を上げた先に木の洞があった。
大き過ぎず小さ過ぎない奥行きのある洞、最早碌な思考も出来なかった私は身体をその中に入れ、小さく丸くなる。
隠れるように、自分の存在を消すように。
「大丈夫だ、目が覚めたらベットの上にいる。大丈夫だ……」
木の洞に身を隠しながら小声で囁く。
この悪夢にも終わりが来るはずだ……と自分に言い聞かせ更に小さく身体を丸めた。
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