人獣伝
@abc2148
1章 人から獣へ
第1話 月光の中で
あれは中学生の頃だったか。
学校指定の国語の教科書、その中に載っていた人から虎に変わってしまった男の話を大人になった今でも偶に思い出すのだ。
その男は虚栄心というのか、傲慢というのか、とにかく自己が肥大化し過ぎていた男だったはずだ。
物語の舞台となったのは古代中国、流石に年代までは覚えていないが男は当時の古代中国ではそれなりの官位を得られ一種の勝ち組であった。
しかし男は与えられた立場、地位に満足しなかった。
それどころか自分は偉大な詩人であると自称し、今の地位や立場は私には相応しくないと言って官位を捨て詩人になった。
だが男には詩人としての才が無かった。
碌な詩を作れず懐にあった筈の路銀は何時の間にか底を尽き、このままでは飲み食いできないと悟った男は渋々地方の下級官吏の職に就いた。
もしその時に自らの行いを振り返り反省することが出来れば男は地方の一下級官吏として平凡な生涯を送れただろう。
だがそうはならなかった、男は自分自身の身の丈を知ることは無く下級官吏として過ごす現状を認めることが出来なかった。
そして際限なく肥大した自己により男は発狂して山に消えてしまった。
それから幾年が経ち、偶々山に迷い込んだ男の友人が発狂して虎になってしまった男と再会、そして虎になってしまった男が作った詩を友人が書き留める……そんな話だった。
正直言えば当時の未熟で幼い自分には意味の分からない話だった。
無論古代中国と現代の考えが違うのもあるが、それでも男が人だった事に拘る意味が今一つ理解出来なかった。
国語の先生は文部科学省の学習指導要領に沿って物語の此処では登場人物の気持ちは~であり、~であると話していたが自分は納得出来なかった。
では当時の自分が何を思ったのかと言えば、人から虎に変身するってかっこいいな~、位しか考えてなかった筈だ。
なにせ虎だ、小さな男の子が憧れるカッコいい動物の一つだ。
虎最強!
森の王者だ!
でも生肉って美味しいのかな?
位しか考えていなかったような気がする。
でも仕方がないだろう、当時の私は幼く未熟であり子供であったのだから。
◆
意識が覚醒するとともにコレは良い睡眠でないと最初に感じた。
まず寝間着が良くない、通気性が悪く熱が籠り全身に汗をかいているのが嫌でも分かる。
その次にベッド、いやこれはベッドなのか、反発性が皆無のカッチカッチの板のような物の家で寝ている。
それだけでも最悪なのに申し訳程度の厚手の布すらない、寝ている間に何処かに行ってしまったのだろう。
結論として快適な嗣明をする為に必要なものが二つも欠けているのだ、微睡む事すら苦痛であり嫌でも起きるしかなかった。
「…最悪の目覚めだ」
未だ覚醒には程遠い頭を使いベッドを探す。
滅多に無い事だが恐らくベッドから落ちて、そのまま寝続けたのだろう。
硬い床で寝てしまったせいか身体が固い、直ぐにふかふかのベッドに戻らねばと考えながら寝ぼけ頭で周囲を見渡しベッドを探した。
だがベッドは何処にも見つからない、そればかりが辺りが薄暗く視界が悪いせいで何も見えない。
「えっと、電気はたしか…」
手探りで電灯のスイッチを探す。
住み慣れた家でありスイッチの道筋は身体が覚えているのでよたよたと手を前に差し出しながら歩いた暗闇の中を歩いた。
「たしか、此処に──」
だがそこら先は言葉が続かなかった、何かに足を取られ転んでしまったからだ。
前に進もうとした身体が足先を起点して受け身も取れずに倒れる。
突然の出来事に足して寝ぼけていた頭では碌な対応は出来ず、顔面から転んでしまい寝ぼけていた意識は強烈な衝撃と共に強制的に覚醒させられた。
「痛くは無い?痛みはあるけど、そこ迄じゃない?」
家のフローリングに顔面から衝突した筈だが痛みはそれ程ではない、不思議に思いながら両手を床に付いて身体を起き上がろうとし──そこで漸く異常が起きている事に気が付いた。
「なにこれ、土?」
両手の掌に付いていたのは黒っぽい土だ、フローリングの床ではありえない。
そして覚醒した頭に五感を通して様々な異常が知らされる。
自宅の匂いとは似ても似つかない緑の匂い、都会の匂いが全くない、排ガスの匂いがない。
何かの鳴き声が聞こえる、そこには遠くから聞こえる車のエンジン音はなく、何より自宅にあるパソコンのあの小うるさいクーラー音が無い。
何より今此処からは都会の騒々しさが全く見えも聞こえもしない。
「どこだ、此処は…」
立ち上がれば此処が自宅ではない事は一目瞭然であった。
目の前には鬱蒼とした原生林が広がっており左右を見ても、後ろを見ても植物しか見当たらない。
そして自身の服装が就寝前に着た薄手の寝間着ではなく職場に行くときのスーツを着ている事に気付いた。
なんでスーツを着ながら寝ていたのか、そもそも今いる場所は何処なのか、何で此処にいるのか、頭の中には様々な疑問が芽生えるも先ずはズボンのポケットに手を入れ、スマホを取り出す。
「スマホで現在地を調べれば、取り敢えずタクシーを呼んで急いで帰ろう」
自分が契約しているキャリアは業界最大手、日本全国に居ながら安定した通信網を提供し山奥でも繋がるという触れ込みだ。
実際に契約してからは電波が途切れたことは無く他社に乗り換えるのも面倒臭いので契約の更新を続けていた。
「あれ、動かない、電波が届いていない?」
だが不可解な現状はさらに混迷を深めていく。
日本全国何処でも、という謳い文句のキャリアである筈なのにスマホの電波受信表示は圏外を示していた。
念の為に一度スマホの電源を切って再稼働、機内モードにして解除等一通りの作業を行っても表示されるのは圏外であるのは変わらなかった。
「何で電波を拾えないんだ!」
契約キャリアだけではない、其処彼処に飛んでいる有象無象の無線LANも他社回線の電波も何も拾えない。
これで単純にスマホが壊れていて電波が拾えないのであれば運が最悪であったと愚痴を零すだけで済む。
だがもしスマホが壊れていないのなら、電波が拾えないのではなく電波が全く飛んでいない事になる。
日本に住んでいる限り余程の僻地に行かなければそんな事は在り得ない、だがもしそうであるのなら最悪を通り越して絶部的な状況としか言えない。
「くそ、本当に此処は何処だ。タクシーが拾えないと歩いて帰るしかな…い……」
電波が全く拾えないのは在り得ないと自分に言い聞かせ、感情の昂ぶりによって思考が空回り始めたのを落ち着かせるために一度深呼吸をする。
冷たい空気が身体を冷やし、今度は熱くなった頭を冷やすためにさらに大きく深呼吸をしようと視界が上を向き──在り得ない光景が空に広がっていた。
「月が二つある…」
頭上に輝くのは月──それが二つもあった。
青い月と白い月、形こそは日本で見ていた月とは変わらないが大きさが全く違う。
何時か見た満月、あれよりもはるかに大きく軽く見積もっても何十倍も大きいのだ。
「……何だ、あれ。いや目の錯覚だろ、そうだ、そう違いない。これは夢、出来の良すぎる夢だ……」
自分の理解を超えた光景を見た時、人は只々圧倒されるという。
今迄半信半疑であったが、それが事実であると身をもって知った。
人生において一度も見た事がない光景、幻想的としか言えない非現実的な光景に唯々圧倒され空を見続けるしか出来ない。
「だから早く、夢から覚めてくれ……」
それでも現状を否定し、認めないと口ずさむ。
心の大部分を占めるのは感動ではなく不安だ、それでも両目には眩いばかりの月光が降り注いでいた。
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