第3話 金魚すくい
僕は力ずくで赤い着物の下の白い半襟ごとめくった。が、帯がきつく結ばれているのか、着物はほとんどはだけなかった。蛇女は隙を見つけたとばかりのけぞり、逃げようとしたが、僕はがっちりと肩を掴んで地面に押し付けた。
「なんで逃げようとするんだよ。」
自分からこんな声がでるとは初めて知った。自分の身体にも相手の身体にも響くような低い、邪悪な声。その声を聞くと蛇女はぴくんとして逃げようとする動きを止めた。
「答えろ。」
まるで自分の身体が自分ではないみたいだった。再び低い声を上げると僕は、自分の細く白い両手を蛇女の首に掛けた。蛇女の首は子どもの僕にもわかるくらい華奢だった。しばらくするとクックッという感触とも声ともわからない音が、手のひらを伝って僕の腕に、肩に、胸に伝わって来た。しかし僕は構うことなく首に手をかけ続けた。
そんなに長い時間ではなかったと思う。そのクックッという感覚が無くなったことを感じると僕は達成感と脱力感に襲われて、蛇女に抱擁するように前かがみになった。
股の間がじんわりと熱い。
蛇女の首から手を離し、自分のズボンの中に手を突っ込むと、ひんやりとした何かで濡れていた。「ああ、これが。」僕が呟くと蛇女の目が薄く開いた。
「男になったじゃないの。」
僕は蛇女の胸に頭を載せた。僕の鼓動と蛇女の鼓動、そして遠くで太鼓を打つ音が混じり合ってぐちゃぐちゃになる。僕はこのまま蛇女と二人で地面にとろけてしまっても良いと思ったがふと口にした。「いや、まだだよ。」
僕がゴロンと女の胸から退いて空を見上げると、黄昏時は過ぎてもうほとんど真っ暗だった。蛇女が上体を起こして僕の顔を見つめた。
「もう、行けるわね。」
僕はうなずくと蛇女は立ち上がり、身体を払い、着物の乱れを直した。あれだけ地面に押し付けたのに、不思議と土埃一つ付いていないことに少し驚いたが、口に出しはしなかった。
ピューッという笛の音が一閃鳴ると、太鼓の音が一層大きくなった。祭りが始まったのだ。この村の祭りは日が落ちてから始まる。喧しい男女のはしゃぐ声が、少し離れたこの林まで聞こえてきた。「さあ、いきましょう。」蛇女に差し出された手を握ると地を這うように走り出した。到底自分がそんな速さで走れると思わなかったが、どうやらこれは蛇女の力らしい。祭りの会場にはあっという間に着いた。
「良いこと。祭りに来ている間、私の手を絶対に離してはいけない。分かったわね。」
僕はコクコクと頷いた。
たこ焼き、焼きそば、わたあめ、かき氷、りんご飴、祭りで売っているものは全て輝いていた。僕が堂々と祭りに来ることができたのは僕にとって遠い昔のことだった。まだ髪も短く、いじめが始まる前。今いじめてくる連中と一緒に屋台の間を走り回って店主に怒られた記憶がある。そんな僕は今、この赤い着物の女に手を引かれて歩いている。
ふと気づいたことがある。もしかすると、いや、ほぼ確実に、今僕は誰にも存在を気づかれていない。それどころか自分の身体も、蛇女の体も少しだけ透けて見えるのだった。少しだけ怖くなって自分の腕をさすってみると、確かな感触がそこにはあった。そんな僕の姿を見て、蛇女は微笑んだ。
「不思議でしょう。でもこれは本当。確かにそこにあるのに、見えないものなんて沢山あるわ。今の私達もその一つ。だから、今はこの祭りを楽しみましょう。」
その時の僕は、正直に言うと、この言葉の意味が全く分からなかった。いや、今でも少しだけわからないところがある。ただ、この身体だったら祭りを楽しめることは確かだった。その時の僕はそれに甘んじることにし、祭りの間は蛇女の手を離さないと決めた。
金魚すくいをしている女の子がいた。近所に住む山田の家の子だ。山田の家は父親が居らず、それほどお金が無いという話を聞いていた。祭りの日くらいは金を持たせてくれたのだろうと僕は邪推したが、そもそもお金がないという話がデマで、我が子を案じて母親が節制していたことを知るのはずっと後になってからのことだった。
山田の家の女の子はポイ(金魚すくいの際に用いられる円形の枠に和紙を貼ったもの)を静かに水面に沈ませると、口を一文字にして金魚が上を通るのを待った。その様子を僕と蛇女が見つめていると二匹の金魚がポイの上に来た。ポイを握る手にぐっと力が入る。気配を感じたのか、大きい方の金魚が真ん中で急に方向転換すると、紙が少しだけ破けた。
まだ大丈夫、我々は固唾をのみ、その真剣な姿を見つめた。もう片方の一匹はのんきにポイの上でゆらゆらとしている。山田の女の子はそおっと尾が紙にかからないように頭からすくい上げると自分の桶の方に寄せるが、じわじわと先ほど破けた箇所のほころびが広がった。慎重さと勢いのなかで、明らかに勢いが必要な場面なのに、山田の女の子は慎重さを優先させていた。
突如、山田の女の子の手が大きくぶれた。「あっ」山田の女の子と蛇女は声を上げ、僕は目を上げる。そこにはいつも僕をいじめてる連中がいた。
「貧乏が金魚すくいなんてしてんじゃねえよ。金魚が可哀想じゃねえか。」
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