信用と信頼の違い

春風秋雄

電車の中で俺を睨みつける美女

電車に乗るとき、俺はいつも本を読んでいる。しかし、周りを見渡すと、本を開いている人はごくわずかで、みんなスマホを見ている。時代の流れなのだろう。スマホを見ている人はSNSのやり取りをしている人、動画を見ている人、ネットショップのサイトで服を選んでいる人、様々だ。しかし、確かに言えることは、電車に乗っている8割くらいの人はスマホを見ているということだ。スマホを見ていない人は寝ているか、本を読んでいるといった感じだろうか。

ところが、その中で、起きているのにスマホも見ず、本も開かず、ジッと正面を睨みつけている女性がいた。見るからに気の強そうな女性だ。しかし、かなりの美形で、男性なら誰でも口説いてみたいと思うだろう。事実その女性が電車に乗って来た時、この車両に乗り合わせた近くにいる男性のほとんどが、その女性に目をやり、しばらくはチラチラとその女性を盗み見るといった感じだった。そして俺はその女性の正面に座っている。つまり女性が先ほどからジッと睨みつけているのは俺の顔というわけだ。俺はなるべく顔を上げないよう本を読み続けた。しかし、内容が頭に入ってこない。文字が横滑りして、ページが進まない。あと、ふた駅でこの状況も終わる。それまでの我慢だと俺は必死に本を読むふりをして俯いていた。しかし、その姿勢に疲れた俺は、怖いもの見たさもあり、ふと顔をあげた。それが間違いのもとだった。その瞬間、その女性と目が合ってしまった。俺は慌ててまた顔を伏せた。電車が駅に着き、あと一駅だと思った時、俺の隣に座っていた男性がその駅で降りた。すると、向かいに座っていた女性が席を立ち、俺の隣に移ってきた。ええ?どういうこと?と思っていると、女性が俺に声をかけた。

「すみません」

俺はドキッとして思わず本を落としそうになった。

「どこかでお会いしたことありませんか?」

どうやら、俺が誰だか知っていて席を移ってきたというわけではないようだ。

「さあ、ちょっとわかりませんね」

俺は俯いたまま、そう答えて本を読むふりを続けた。

「そうですか?絶対どこかで会っていると思うんです。さっきから気になっているんですけど、思い出せなくて」

そういうことって誰にでもあるではないか。普通はそのままわからずじまいで終わって、すぐに忘れるものだろう?わざわざ席を移動して本人に聞くか?と思っていると、俺の心の声が聞こえたのか、女性が言った。

「私、気になることがあると、寝られないタチなんです。何かモヤモヤするなあ」

俺は早く次の駅に着けと心の中で叫び続けていた。ようやく電車が減速し、駅に着こうとしている。しかし、女性は俺の横顔をジッと睨みつけたまま動こうとしない。焦れた俺は思わず言ってしまった。

「もう駅に着きましたよ。ここで降りるのでしょ?」

「え?」

驚いたように女性が目を見開いた。しまった。余計なことを言ってしまった。と思った瞬間、女性が俺を指さして言った。

「わかった!下着泥棒の人だ!」

車内の乗客が一斉に俺を見るのがわかった。俺は自分が降りる駅ではないのに、ドアが開いた瞬間にホームに飛び出した。飛び出して3歩ほど進んだところで、誰かが俺の腕を掴んだ。振り向くと、あの女性が俺の腕を掴み、必死な形相で俺を見ていた。


俺の名前は棚橋正樹(まさき)。35歳。ごく普通の、独身サラリーマンだ。今まで他人に自慢できるような賞を取ったり、優秀な成績を収めたことはない。運動会の徒競走でもいつも3位か4位。ごく平均的な、決して目立たない存在だった。その代わり、俺は生まれてこの方、人様に後ろ指を指されるようなことをしたことはない。そう、神に誓って俺は下着なんか盗んだことはない。

俺は3年前まで今降りた駅の近くにあるマンションに住んでいた。駅から徒歩8分。5階建ての2階だったが、1LDKで家賃が7万円、近くにコンビニがあり、とても便利な部屋に新築で入居できて、俺は非常に気に入っていた。ところが、そのマンションに住んで2年も経たないうちに事件がおこった。隣に住んでいる住民が警察を呼んだのだ。ベランダに干していた下着が盗まれたということらしい。俺は当時朝早くマンションを出て、夜遅く帰ってくるといった生活だったので、隣の住民と顔を合わせたことがなかった。新築で同じ時期に入居したので、特に改まった挨拶を交わすこともなかった。だから、お隣さんが男性なのか、女性なのかも知らなかった。隣の住民の女性が言うには、外部から2階のベランダまで侵入するのは難しいので、隣の住民が怪しいということだった。俺と反対側の隣人は女性だったので、必然的に俺が怪しいということになった。俺が夜帰宅すると、警察官がドアの前で待ち伏せていた。事情を説明したあと、部屋の中を見せてほしいと言ってきた。俺はやましいことは何もなかったが、人様に見せられるような部屋の状況ではなかった。疲れていることもあり、丁重にお断りして部屋に入った。すると、隣の住民がやってきたようだ。

「絶対に部屋に私の下着を隠しているに決まっています。捜索令状をとって調べて下さい」

と俺のドアの前で警察官に食い下がっている。俺は頭にきてドアを開けた。

「いいですよ。じゃあ、気が済むまで調べて下さい」

その時、初めて隣人の女性の顔を見た。俺を睨みつけるその顔は、かなり気が強そうな感じはしたが、綺麗な人だなあと思った。

警察官は部屋に入り、一通り俺の部屋を調べた。しかし、当然のごとく下着は出てこない。

「もうすでにどこかに売ってきたのでしょ?」

女性がとんでもないことを言う。

「そんな時間はありませんよ。俺は朝早く仕事に行って、今仕事から真っ直ぐ帰ってきたのですから。そのことは会社が証明してくれます」

女性はそれでも納得していないようだったが、警察官に宥められて、その日は引き下がった。ところが、この事件のことがマンション中に知れ渡った。マンションの住民が俺を見るたびに好奇な目を注ぐようになった。そのうち、大家から、住民からクレームが来ているがどういうことかと連絡があった。大家としては退去を迫ることは出来ないだろうが、出来たら出て行って欲しいのだろうと、その電話で分かった。俺は無実だが、それを証明することは、まさに悪魔の証明で不可能に近い。俺としても、マンションに居づらくなってきたので、しかたなく転居することにしたのだった。


そんな忘れてしまいたい、忌まわしい出来事を作った張本人である女性が今、目の前にいる。俺の腕を掴んだ女性は何も言わず、俺を駅前の喫茶店に連れていった。そして、向かい合わせに座り、ドリンクを注文した。促されて俺もホットコーヒーを注文する。

神妙な顔で俺を見た女性は、いきなりテーブルに頭をこすりつけんがばかりに平伏した。

「ごめんなさい。あの時は、本当に申し訳ありませんでした」

「ええと、どういうことですか?」

「あなたがマンションを出て少ししてから、真犯人が捕まったんです」

話を聞くと、別の場所で犯行におよんだ犯人が現行犯で逮捕され、その供述でこの女性のマンションでも盗んだと認めたらしく、押収された盗品の中に女性の下着もあったということだった。

「私のせいでマンションを出て行くことになって、どうやってお詫びをすれば良いのか・・・」

「まあ、疑いが晴れたのであれば、何よりです」

「お詫びに今から食事でも御馳走させて下さい」

「今日はお客さんと会食で、もう食べてきましたから遠慮しておきます」

「じゃあ、日を改めて御馳走させてください。連絡先を教えてもらえますか?」

お詫びなんかどうでも良いと思ったが、この綺麗な女性と食事をするという魅力に負けて、俺は連絡先を交換した。

女性の名前は吉野沙耶さんという。広告代理店で働いているらしい。女性に年齢を聞くのは失礼だと思い、聞かなかったが、大卒で働き始めて6年目というので、28歳くらいだと思う。


LINEのやり取りで日付を決めて食事に行くことにした。お互い仕事がない土日にしようということになって、土曜日の夜に設定した。ところが、土曜日の昼間に吉野さんからLINEが入った。昨日の夜から熱を出して寝込んでいるので、延期にしてほしいということだった。


”大丈夫ですか?“

“あまり大丈夫ではないです”

“熱は何度くらいあるのですか?”

“さっき測ったら38度7分ありました”

“病院へは行きましたか?”

“行っていません”

“行った方がいいよ”

“動けないのです”

“誰か連れて行ってくれる人いないの?”

“そんな人、誰もいません”

俺は少し迷った末にメッセージを打った。

“俺で良ければ連れて行こうか?”

返事がなかなか来ない。迷っているのだろう。数分後に返事がきた。

“お願いできますか?”

“じゃあ、今から行きますので、準備しておいてください”


俺は車に乗り、3年前に住んでいたマンションへ向かった。敷地内の片隅に車を駐車できるスペースがある。本来は駐車してはいけない場所だが、短時間であれば大丈夫だろう。勝手知ったるで、俺はそこに車を置いた。インターフォンで呼び出すと、無言でオートロックが解錠された。俺は住んでいた時にそうしていたように階段で2階へあがる。以前俺が住んでいた部屋の隣の部屋の呼び鈴を鳴らす。しばらくしてドアが開き、吉野さんが出てきた。顔色が悪く、かなり辛そうだ。吉野さんは鍵を閉めて歩き出したが、ふらついている。俺は肩を抱いてあげて支えながらエレベーターまで歩いた。並んで歩くと、173㎝ある俺と左程身長が変わらない。女性にしてはかなり背が高い方だろう。

吉野さんを車に乗せ、休日診療の病院へ連れて行った。検査ではインフルエンザではないということで、とりあえず点滴をしてもらうことになった。俺はその時間を利用して、近所のスーパーへ行き、ポカリスエットやレトルトのお粥、温めるだけのうどんなどを買った。

点滴が効いたのか、病院を出ると吉野さんは少し元気になっていた。マンションまで送り、スーパーで買ったものを渡すと、俺は部屋には上がらず帰った。


その夜、吉野さんからメッセージが届いた。

“今日は、本当にありがとうございました。棚橋さんの優しさに感激しました。こんな親切で優しい方に、私は本当に申し訳ないことをしたと、改めて悔恨の念にさいなまれています”


日を改めて吉野さんと食事へ行った。連れていってくれたのは、俺でも名前を知っている高級な焼肉屋さんだった。

「こんな高い店いいんですか?」

「下着泥棒の件のお詫びと、この前のお礼だから、これだけじゃあ足りないくらいですよ」

吉野さんは、よく飲むし、よく食べる。仕事柄、接待とかよくあるみたいだし、これくらいの方がクライアントから喜ばれるのだろう。

最初は恐縮していた吉野さんだが、アルコールの酔いが回ってくると饒舌になってきた。

「この前は、本当にもう駄目だと思ったから、助かりましたよ」

「彼氏とかに連絡して来てもらうわけにはいかなかったのですか?」

「彼氏なんかいないもん」

「これだけ綺麗な方なのに、彼氏いないんですか?」

「私ね、気が強いし、思ったことはっきり言うし、そして嫉妬深いから、彼氏が出来てもすぐに振られるの」

確かに、気が強そうだし、思ったこともはっきり言う人だと思う。しかし、嫉妬深いというのは意外だった。

「嫉妬深いんですか?」

「何だろうね、独占欲が強いのかなあ」

「じゃあ、彼氏が女性と二人っきりで飲みに行ったりするのは許せない方ですか?」

「絶対無理」

「それが仕事の一環だったら?」

「はっきりと仕事だというのがわかれば、気分は悪いけど許せるかな」

「そうかあ、仕事証明書なんてないですから、彼氏は大変ですね」

「そうなのよ。だから、私は28歳にして、もう結婚は出来ないと諦めているんだから」

「吉野さんは28歳なんですか?」

「そうだよ。棚橋さんは?」

「俺は35歳です」

「どうりで落ち着きがあるわけだ」

「もうオジサンですよ」

「そんなことないよ。見た目も若いし、話していても全然年齢を感じさせないもん」

「ありがとうございます。今のお世辞も、お礼のうちですか?」

「違うよ。お礼ではなくて、お詫びの方だよ」

吉野さんと話していると楽しい。これだけ綺麗で、会話も楽しくて、申し分のない女性だ。しかし、一旦付き合うと、大変なんだろうなと思った。

さんざん食べて、飲んで、そろそろ出ようかと言う時に、吉野さんが言った。

「また食事に誘っていい?」

「もうお詫びも、お礼も十分ですよ」

「そうじゃなくて、私、棚橋さんと話していると楽しいの。だから、また会いたいなと思って」

「じゃあ、今度は俺がおごりますよ」

「本当?じゃあ、思いっきり高い店を探しておくね」

「やっぱり、割り勘にしましょう」


吉野さんと何回か食事をしているうちに、吉野さんに惹かれている自分がいることに気づいた。しかし、今の関係がベストで、彼氏彼女になってしまうと、嫉妬深い吉野さんとの付き合いは大変なものになるだろう。今までの彼氏同様、別れの日が来ることは容易に想像できる。それならば、今の関係を続けた方が良いと、自分に言い聞かせていた。


吉野さんと何回か外で食事をしているうちに、最後に吉野さんをマンションまで送っていくことが決まった流れになった。どうせ最後はここまで来るのだから、いっそ最初から家で飲もうということが何回かあり、吉野さんは平気で俺を部屋にあげるようになった。そのうち吉野さんは、まったく俺に気を使わなくなり、天気が悪い日などは、平気で部屋の中に下着を干している。そんなときは決まって、

「せめて下着くらい隠せよ」

「盗まないでね」

「俺は下着泥棒ではありません」

「その節は、大変ご迷惑をおかけしました。お詫びに1枚くらい持って行ってもいいですよ」

「いらねえよ」

といった会話がなされる。


その日は、めずらしく吉野さんは酔っていた。いや、今考えると、ひょっとしたら酔ったふりをしていたのかもしれない。食事が終わってソファーに並んで座り、テレビを見ながら缶ビールを飲んでいると、吉野さんが聞いてきた。

「ねえ、マサくん」

吉野さんは、いつの間にか俺のことを『マサくん』と呼ぶようになっていた。

「私って、魅力ない?」

「吉野さんは、充分魅力あるよ」

「本当?」

「本当だよ」

「女として?」

「もちろん、女として」

俺がそう言うと吉野さんは俺に抱きついてきた。そして、吉野さんの艶めかしい目を見た瞬間、俺の理性は、はじけ飛んでしまった。


ベッドの中で余韻に浸っていると、吉野さんが言った。

「私ね、嫉妬深いのは直らないかもしれないけど、今までの失敗を反省して、浮気でなければ、他の女性と食事に行ったりすることに対して目くじら立てないようにする」

「本当に?」

「でも、浮気は絶対ダメ」

「それは当然だろ」

俺は安心した。浮気をするつもりはないし、吉野さんがいれば浮気をしたいとも思わないだろうから、付き合いは続きそうだと思った。


二人の交際は順調だった。吉野さんの部屋で半同棲のような生活を送るようになり、休みの日に車を使う予定があるときは前日に俺のマンションで過ごすといったパターンが続いた。吉野さんの気の強さや言いたいことを言う性格は、俺は気にならなかったし、それが吉野さんの魅力だとも思った。

しかし、ある日事件が起きた。その日は休日前で、俺が自分のマンションに帰ると、吉野さんは合鍵で部屋に入って俺を待っていた。俺は吉野さんの顔を見た瞬間、嫌な予感がした。

「ねえ、この領収書、何?」

それは机の上に出しっぱなしにしてあった、俺が経理に出し忘れていた領収書だ。

「ああ、この前の打ち合わせの時の領収書だ」

「打ち合わせでホテルを使うの?」

「そのお客さんの時は、いつもホテルでの打ち合わせなんだ」

「だって、明細を見ると喫茶室ではなくて、客室になっているよ。日付を見ると、打ち合わせで遅くなるから、自分の部屋で寝ると言って、うちに来なかった日だよね」

どうやら吉野さんは、俺の浮気を疑っているようだ。もっと早く経理に領収書を出しておけばよかったと後悔した。

「そのお客さんは、業界では顔が知られている人だから、人目に付かない場所での打ち合わせを指定してくるんだよ」

「男の人なの?」

まずい、痛いところを突かれた。

「いや、女性だ。といっても、もう50歳に手が届く年齢の女性だし、うちの会社からは、もう一人打ち合わせに参加しているから、1対1で会っているわけではないから。なんなら、そいつに証言させようか?」

「そんなの、口裏合わせたら、何とでも言えるじゃない」

またしても、悪魔の証明だ。していないことの証明は難しい。裁判であれば「疑わしきは被告人の利益に」という鉄則があるが、ここは裁判の場ではないので、疑わしきは、限りなく事実となってしまう。

結局その日は、吉野さんは自分のマンションに帰ってしまった。

ヤバイ、このまま俺たちは終わってしまうのだろうか。


その3日後に再び、例のお客さんとの打ち合わせとなった。一通りの打ち合わせが終わり、雑談をしている中で、俺は先日の吉野さんとのやりとりを話してしまった。すると、その話を聞いたお客さんが、今からその彼女をここに呼べと言い出した。仕方なく俺は吉野さんに電話をし、ホテルまで来るように言うと、渋々承諾した。

吉野さんが部屋に入って、椅子に座るなり、そのお客さんは言った。

「あなた、こんなしょうもない男とは、もう別れなさい」

いきなり言われて吉野さんは戸惑っていたが、俺もビックリした。てっきり浮気なんかしていないから、安心しろと言ってくれるものだとばかり思っていた。

「だって、あなたにとっては、信頼に値しない男なんでしょ?浮気していているかどうかの事実はともかく、この人の言うことを信用できないということは、あなたは棚橋君を信頼していないということでしょ?つまり、あなたにとって棚橋君はその程度の、信頼に値しない男っていうこと。だったら、これから先、付き合っていってもあなたに何もメリットはないわよ。だから別れなさい」

「ちょっと待ってください」

俺は思わず口をはさんだ。

「棚橋君は黙ってなさい!」

ピシャッと言われて、俺は口を噤むしかなかった。

「で、どうなの?あなたにとって、棚橋君は信頼できない男なの?」

「棚橋さんは、とても優しいし、いい人だと思っています」

「そんなのはどうでもいいの。赤の他人の男と女が、一緒に歩んでいくというのは、相手を信頼できるかどうかなの。どんなに優しい人でも、どんなに良い人でも、信頼に値しない人とは一緒に暮らせないし、歩んでいくこともできないの。そんな人と一緒になったら、不幸になるのは目に見えているわ」

「・・・・」

吉野さんは、じっと考えて何も言葉を発せなかった。

「いい?信用するということと、信頼するということは違うの。信用とは、相手を信じるということだけど、信頼は、相手を信じた上で、相手を頼る、つまり自分の身をすべて委ねるということなの。うわべの言葉が信用できるかどうかなんて、どうでもいいの。この人が言うのであれば、それが嘘でも構わない、嘘をつく時は嘘をつく時で、それなりに考えがあるのかもしれない。だったら、仮にそれが嘘でも、この人がやろうとしていること、行こうとしている道に、身を委ねて一緒に行こうとするのが信頼なの」

そう言われて、吉野さんはハタと前を向き直って相手の目を見た。

「これはねえ、女に限らない。男もそうなの。人間は弱い生き物だから、一人では前に進めないことが多いの。だから、一緒に歩んでくれるパートナーを見つけるの。そして、一緒に歩む以上は、相手を信頼していないと、前には進まないの。だから、生涯を共にするには、自分の身を委ねられる、信頼できる人と一緒にならないとダメなの。それで、どうなの?あなたは棚橋君を信頼できる?」

「はい。棚橋さんは、信頼できる人です」

「そう。だったら、棚橋君が言っていることが、本当か嘘かなんて、どうでもいいこと。棚橋君の根っ子の部分を信頼してついていきなさい」


ホテルを出て、俺たちは駅に向かって歩いた。

「俺も、吉野さんを信頼しています」

吉野さんは、チラッと俺の顔を見て、照れたように微笑んだ。

「吉野さん、結婚しましょう」

俺がそう言うと、吉野さんは俺の手を握ってきて、はっきりと答えた。

「はい。私と結婚してください」

駅が近くなったところで、吉野さんが聞いた。

「ところで、あの女性は何者なんですか?」

「この業界では有名なやり手社長」

「すごい人ですね」

俺は、あの社長が3回離婚を経験していることは伏せておくことにした。


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