第7話 整備士
段々原、恵。メグミではなくケイと読む。
忘れないように。
元々、日記なんか書く方じゃなかった。SNSは他人の記事を読むばかりで、反応をつけるだけなら苦じゃない、そんな感じだった。
そのSNSがなんだったかもおぼろげで、段々原家がどんな家族で、10代の頃に「こんな姓は嫌だ」と駄々をこねたのか、こねられた親が1人なのか2人なのかさえわからない。
書いてて気がついたけれど、読むと嫌な名前だと浮かぶのでなんらかの不満はあった。それに親が1人なのか2人なのか曖昧だと、2人親に育てられた人間が言うのは違和感があるので、シングルマザーかファーザーだったのかもしれない。せっかく手一つで育てた娘が全部忘れてごめんね。本当は2人ともいたら2倍ごめんね。
こうなる前、女の車両整備士というのが少数だったのだろう記憶は、不愉快な感触とともにある。女であることというより、私が働いていた工場自体に何かがあったんだと思う。九頭類浄水場コミニュティでは専門の整備士は私しかいない。流行以前の関係をスッパリ絶ってコミニュティに1人で参加した決断を覚えているが、なぜ工場の人間と行動しなかったのか、誰も私から聞いてないという。よっぽど言いたくないことだったのだろう。
あのヤブ医者が早く言えば、他人に言いたくないことでも、自分のことを書いて忘れないようにしていたのに。
SNSのことを最初に書いたけれど、反応をつけていたのが多分女友達の記事に向けてだ。反応を返さないとなんで返してくれないのかと問い詰めてくる奴だった。あんた、あたしじゃなかったら、こんなわがまま誰も聞いたりしないよ、なんて面と向かって言ったような気がする。食い下がるかと思ったら申し訳なさそうにしてた。寂しがり屋だったんだあいつは。私も本当にやめて欲しかったわけじゃないのに。
あの娘がここにいないことだけはわかる。名前も、顔も、なんでここにいないのかも思い出せないのに。工場の人間と違った別れ方をして今に至っているんだろう。そのはずだ。
ヤミ人形になれば、こんな寂しさなんか無くなるんだ、いっそなってしまおうか、今の私は人間として生きていない、この先には何もなく、私は惰性で生きている残骸だ。そんな風に思ってたが、いざなってみると全くそんなことはない。ヤミ人形は残骸よりひどい。
記憶を失い、大事な物がわからなくなり、気がついたら思い出の品はみんな金属だけ残して消えている。しかも、台無しにしたのは誰でもないこの自分なのだ。さらにつらいのは、何を悩んでいたかが突然わからなくなる。今こうして自分の書いた文を読み返すと、他人の文を読んでいるみたいだ。
自分の中にいる何かが、気にしなくていい、辛いのはもうやめよう、前向きに前向きにとなだめてくる。それが人間の私なのか、ヤミ人形なのかはわからない。きっと忘れる前は色んなことがあったんだ。
前なんか向くものか。
どんなに不愉快なものにまみれてても、私の人生には捨てたもんじゃないという瞬間があった。あの寂しがり屋だった娘がそうだ。この見ず知らずの土地に来て、どんな車も騙し騙し使える状態にするほど、整備の腕も磨いてきた。
ヤミ人形は、それを全部奪って、私の頭を掴んで、ヘラヘラさせ、ありもしない明日に向かって前向きに前向きに歩かせようとしている。
忘れない。絶対にこの怒りを忘れない。忘れてはいけないんだ。
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