ボクと奇妙な男の子

(お前じゃ無理だよ)

 男の背中にむかって、ボクはささやいた。


 その男は、帰宅ラッシュの人混みの中、全身を強張らせて歩いていた。カチコチの体をぎこちなく動かしている様はどこか滑稽に見える。おまけに、男のシャツの裾には小指の爪くらいの大きさの、コーヒーのシミまでついてるし。


 男は、改札口に着いてからようやくシミに気付いたらしい。シワの寄った茶色のジャケットを着て隠したつもりのようだけれど、ボクはごまかせない。逆にみっともないったら、ありゃしない。


(そんな情けないザマで、ホントに今日、プロポーズするのかよ?)

 コンビニの窓ガラスを鏡代わりに覗き込んでいる男に、ボクは問いかけた。


 一瞬、窓に映ったボクと男の視線が、パチリと合う。

 でも、男はキュッと唇をかんで、返事をしなかった。それどころか、目を閉じて自分の頬を叩いている。


 ボクはフン、と鼻を鳴らした。

 この男、完全にボクを無視するつもりらしい。

 まぁ、いい。むしろ、ボクにとって好都合だ。


 ボクは音もなく人混みをすり抜け、男の背後ににじり寄る。そして、ゆっくりと男のズボンのポケットに向かって手を伸ばした。


(どうせ、お前にプロポーズなんて無理なんだから……ポケットの小箱は、ボクが持ち帰ってやるよ)


 そうしてボクは、その男のポケットから白いビロードの小箱をスルリと抜き取った。


 改札口の周辺には、帰宅途中の会社員やら、塾に通う学生やら、大勢の人が歩いている。でも、誰もボクの姿を見ていないし、ボクに気づいていない。小箱を抜き取られた男ですら、ボクに気づいてない。


 そういう人はたぶん、自分の外側のことで忙しいんだと思う。自分の内側の状態を、じっくり理解する時間のある人なんて、そうそう居ないのかもしれない。

 まぁ、男の場合はボクを直視したくないだけかもしれないけれど。


 なんにせよ、ボクには好都合だ。

 ボクは男から抜き取った白い小箱を、懐に滑り込ませた。


 断っておくけど、ボクはこの小箱が欲しかったわけじゃない。だけど、ボクがこの小箱を持ち帰ることには大きな意味がある。

 なにせ、この小箱がないせいで、男のプランは頓挫するのだから。さしあたり、今日はプランを決行することは不可能だ。これが重要なのだ。


(さて、じゃあ帰りますか)

 目を閉じて、なにやらブツブツ呟いている男を横目で見ながら、僕は小箱を持って歩き出す。


 その時だった。


 唐突にボクの腕が、ぐいっと引っ張られる。


 つまり、誰かがボクの腕を掴んでいるというわけだが……正直、予想外の事態だ。

 なにせ、この駅に居た大勢の人は誰も、ボクを見ていなかったのだ。小箱を抜き取られた男ですら、ボクに気付いていなかった。


 それなのに、誰がボクの腕を掴むんだ?


「おい。どこ行くんだ、お前。そんなキレイな白い箱を持ってよぉ」

 不意に聞こえた乱暴な声の方を見ると、小学1~2年生くらいの背丈の男の子が、ボクの腕を掴んでいた。


 そいつは、なんとも奇妙な男の子だった。

 不機嫌そうにひんまがった口から覗くのは、獣のように尖った歯。黄色い帽子からはみ出す、もじゃもじゃの黒髪。

 そして、小学生とは思えないくらい威圧的に光る目。

 首にぶら下がっている黄色の子供用スマホが、恐ろしく似合ってなかった。


 でも、1番奇妙な点は男の子の風貌じゃない。

 その男の子が、涙目の女の子の手を引いている点だった。幼稚園生くらいの女の子は、たった今泣きやんだばかりのようで、まだ鼻をすすっている。たぶん、ひどく大泣きしていたのだろう。女の子が胸に抱いているクマのぬいぐるみの腹がぐっしょりと濡れ、テカテカに光っていた。


 なんだこの子供たちは。ボクは小さく後ずさりをした。

 でも、男の子はボクの腕を放さない。綱引きみたいに僕の腕を掴んだまま、地面に踏ん張っている。


「オレ、見てたんだ」

 男の子が凄む。

「お前、あのシワシワジャケットの兄ちゃんから、箱を盗ったろ」


(このクソガキ)

 ボクは男の子に毒づいた。

(いいからボクの腕を放せ)


 ボクは、男の子の手を振り払おうと、もがいた。

 でも――。


「こら暴れんな。これ以上、仕事を増やすンじゃねぇ。こっちは文字通り手いっぱいなんだ」

 男の子の手は離れない。万力のようにボクの腕を掴んだままだ。

 この子、ホントに小学生か? 実は、腕相撲の世界チャンピオンだ、とか言わないよな?


「ねぇ、キミ、誰に話してるの?」

 唐突に女の子が男子の片手を引っ張り、怯えたように叫んだ。

「あたしのお母さんとお父さんを、一緒に探してくれるってキミが言ったじゃん!」


「あぁ、そうだな嬢ちゃん。すまんな」

 男の子が早口で女の子に謝った。でも、ボクを解放するつもりはないらしい。男の子の手は、ボクの腕をがっちり拘束しているままだ。

「悪いが、ちょっと待ってくれ。さすがにコイツをほっとくわけにもいかなくてよ」


「コイツって何のこと? わけわかんないよぉぉ」

 女の子の目から涙があふれ、声を上げて泣き出した。


「ちくしょー……せっかく泣きやんだのに」

 男の子は呻いた。

「嬢ちゃん、大丈夫だ。お前の父ちゃん、母ちゃんは必ず探してやる、な? ただ、ちょっと待って欲しいんだ。こいつを――」


 今だ。

 男の子の注意が逸れた隙に、ボクはするりと腕を抜く。


「あ、こら待て!」

 男の子が叫ぶが、もう遅い。

 ボクは脇目も振らずに走り、帰宅ラッシュの人混みに飛び込んだ


「違う。嬢ちゃんに言ったんじゃない。頼む、泣きやんでくれ」

 背後で聞こえる男の子の困り果てた声と、女の子の泣き声が、次第に遠くなっていく。


 それでも、ボクは足を止めず、人混みの中を走り続けた。

 立ち止まっている余裕なんて、ボクには無かった。


 なぜなら。

 男の子の声が人混みの中に紛れて消える直前、ボクは聞いてしまったのだ。


「こちらナナコ。今、迷子を1人案内しているんだけどよ。誰か応援これねぇか? 場所は――」


 男の子の話している内容は、ボクには意味不明だ。でも、これだけは分かる。

 あいつ、オレを追いかけてくるつもりだ。

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