僕と待ち合わせ

 僕がそれに気付いたのは、幸か不幸か、駅の改札前で彼女を待っている最中だった。


 僕の着ている白いシャツの裾に、ポチっと付いている茶色いシミ。これはたぶん、コーヒーだと思う。駅を歩いている最中に、帰宅ラッシュに揉まれたせいで、缶コーヒーを持ったままふらついてしまったから。


 僕は丸々1分間くらい、小指の爪くらいの大きさのシミとにらめっこした。

 やってしまった。よりによって今日かよ。せっかく昨晩、慣れないアイロンをかけたってのに。


 僕はため息をつきながら、腕時計を確認した。

 只今の時刻、17時。


 これから別のシャツを調達して着替える時間なんてない。間違いなく彼女を待たせてしまう。それは避けたい。今日は特に。

 

 じゃあ、どうする?

 少し考えて、僕は1つの妥協策をひねり出した。


 僕はカバンの底から茶色のカジュアルジャケットを引っ張り出す。桜も散り始めたこの季節、今日のようなよく晴れた日中は、ジャケットを羽織っていると汗ばむのだ。


 期待を込めて取り出したジャケットを眺めた僕は――思わず低く唸った。

 僕のジャケットは、カバン底での丸1日プレスに耐えられなかったらしい。ものの見事にペチャンコだった。おまけに、力いっぱい伸ばしても消えないシワが、うんざりするほどついている。


 僕は小さく頭を抱えた。

 コーヒーのシミがついたシャツか。ペラペラでシワシワのジャケットか。

 これは、どっちがマシなのだろう。


 しばし悩んだ結果、僕は、特大のため息をつきながら、ジャケットを羽織った。

 それから、改札口の前のコンビニの窓ガラスを鏡代わりに、最後の服装チェックを試みる。


 自己採点の結果は「コーヒーのシミよりはマシだろう」だった。

 ジャケットの茶色の生地にシミの色が紛れているような気もするし。

 シワだらけなのは、やはり気になるが……「カジュアルジャケットだから」と言い訳して、多少のシワは良しとしよう。


(ほんとに良いのか?)

 コンビニの窓ガラスにぼんやりと映るが、不安げな瞳で見つめ返している。

(そんな情けないザマで、本当に今日、彼女にプロポーズするのかよ?)


 僕は返事のかわりにキュッと唇をかんだ。

 そして、両手で自分の頬をピシャピシャ叩いて気合を入れる。


 僕はそのまま目を閉じて、今日のデートを脳内で最終シュミレーションを開始した。


 本日17時30分。彼女と駅前で待ち合わせ。

 なお、当初の予定通り、僕は30分前には駅に到着できている。

 仕事終わりに彼女と待ち合わせて夕飯に行くという、お馴染みのデートプラン。

 だが、これはタテマエだ。


 ディナーに行く前に、ちょっと寄り道をする。そして、彼女にサプライズのプロポーズをする、というのが本音。


 そして、寄り道――というか目的地――は、彼女との初デートで訪れた例の神社だ。

 駅から車で10分程度の小高い山に例の神社はあった。

 夕暮れの境内はきっと人も少ないはず。


 茜色に輝く海と夕日を背景に、僕と彼女は向かい合う。

 ここからが、本音のプランのクライマックスだ。

 僕はゆっくりと、僕はポケットに忍ばせた、白いビロードの小箱を取り出して――。


「――って、あれ?」


 僕はズボンのポケットに手を突っこんだまま、立ちつくした。

 ない。ポケットに入っているはずの、小箱がない。


 いや、待て。落ちつけ。

 つい先ほどまでは、ちゃんと小箱はあったはずだ。

 駐車場から駅まで歩いている間、ズボン越しに小箱が足に当たる感覚があったのだから、間違いない。


 もう一度、確認するんだ。

 ズボンのポケット。カバンの中。靴の底まで。僕は次々と思いつく限りの場所に手を突っ込んでいく。


 だけど、成果ゼロ。小箱なんてどこにもない。

 僕はさーっと血の気が引くのを感じた。

 そんなバカな。あれは僕の給料3カ月分――とは言わないけど、それでも1ヵ月半の給料をかき集めたくらい――の価値はある。絶対に失くさないように、肌身離さず持っていたはずだ。何より、あの箱がないと今日の僕のプランは全て無意味になってしまう。


 腕時計は17時を過ぎている。

 彼女が来るまで、残り20分もなかった――。

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