第二章

悩み①

これは、遠く、苦い記憶。


台所で料理を作っている母が当時の俺に話しかけている。


「次の参観、私、行ってもいいかな」


細かった腕はより細く。


太陽のようだった笑顔が今は曇りがかったよう。


頭に巻かれた白のバンダナは否が応でも目に入り、それを視界にいれないようにするのに必死になる。


「いいよ、来なくて」


無理して来なくてもいい。


「でも‥」


弱々しく振り向く。

何もしなくてもいい。料理も、洗濯物。なんなら、歩行さえも。


新聞を広げている父にもイライラしながら、当時の俺は強めの口調でこう言った。


「恥ずかしいんだよ!そんなもの頭につけた人が来たら」


瞬間、頬を叩かれた。


ガシャン!とテーブルに置いてあったガラスのコップが割れる。


じん、じんと痛む頬を抑え、驚いて父を見ると、父は歯を食いしばって俺を見ている。


しかし驚いたのはその先で、今度はその父の頬が叩かれる。


弱々しく、ぺちん、という音。


母が、「子供に、手をあげるなんて」と涙を溜めながら父を見ていた。


緊張が走った空気を察したのか、小学二年生の妹が泣く。


母の目を見つめ返す父も、弱々しく見えた。


俺に向き直った父は「スマン‥」と頭を下げた。


「だがな、定春」


その言葉の先を聞きたくなかった俺は、家を飛び出した。


自分の考えなしの言葉は、相手を傷つける事がある。


そんな当たり前のその事実が、当時の俺には深く心に刻まれた。

母の、涙の映像と共に。


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人間にとって、睡眠がいかに大切な事なのかを俺は今体感している。


アラームの音ではなく、鳥の囀りとお日様の温かい日差しによって目覚める朝。


なんて、清々しいんだ。


時刻は7時00分。


スマホの憑依アプリを開き、中のひょういこみゅにけーしょんをタップすると、【アイ】という名が消えていた。


「これって、つまり」アイが今藍良に憑依しているから、このアプリから消えたって事だよな。


だから、4時51分にアラームが鳴らなかったのだろう。


俺は背伸びをする。

何も問題は解決していないが、今はこの気分を味わおう。


「ご主人様!」


ガチャ、と勢いよく扉を開けたのは、制服姿の藍良だった。


「ちょっと!ノックくらいしろよ!」


「あ、すみません。忘れてました。‥あら?」


歩くたびになびく綺麗な黒髪と、ぱっちり二重の瞼。その大きく見開いた二つの目が俺の布団の下半身部分を捉えている。


そして藍良なら決して言わない一言を口にした。


「お元気そうですね!」


「なっ」


何言ってんだよ!


「私、お手伝いしましょうか?」


「お前、もう出ていけよ!」


俺は顔が真っ赤になりながら布団にくるまった。


「かしこまりました!下で待っていますね!」


軽やかなステップと、眩しいくらいの笑顔。

下ネタを言っても全く動じていない、屈強なメンタル。


「何だよ、お手伝いって」


まだ顔が赤い。

俺の息子よ、しずまりたまえ。


一つ再確認できた。

あれはやはり、藍良では無くアイだ。


「どんな生活をしたらあんな発言が出てくるんだ」




落ち着いた俺はリビングに顔を出すと、既に料理が並べてあった。


「遅い!何してたんだ」


父親のいつもと変わらぬ大声。


朝からうるさいよ。俺は生理現象と戦ってたんだよ。


「お父さん、お兄ちゃんもお年頃だっていつも言ってるじゃん」


妹が、ねぇー、と隣でパンを頬張るアイに同意を求めている。


「ふぁい。ふぇんきほうでひた」


「え、何て?」


「藍良!口に食べ物が入ったまま喋ったら行儀が悪い、止めなさい!」


本当に、不用意な発言はやめて下さい。




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