第19話 新婚夫妻とすれ違い

 アンヘルの胸板は思っていたよりもしっかりとしていた。腕の力は強かったが、苦しさはなく、支えられるような安心感があった。


 ヴィオレータは腕ごと彼の胸に閉じ込められ、身じろぎもできずに目の前に迫った喉を見つめた。


「アンヘルさま……?」


 声をかけると、アンヘルの喉はごくりと音を立てて動いた。掠れた声で、彼はささやく。


「すみません。頭ではわかっているんです。二年で、あなたを解放しなければいけないんだと。こういうことも、慎しむべきだ」

「なぜ? 終わりを決めているだけで、それまでは夫婦ではありませんか」

「──それでは僕が辛くなる」


 とっさに口を突いて出る自称なのだろう。アンヘルが自分を『僕』と呼ぶときはいつも、取り繕わない姿が垣間見える。ヴィオレータは彼のそんな一面を年齢よりも幼いと思っていたが、そこがかわいらしいとも感じていた。男性に対するそうした表現が、愛しいと同義であることくらい、世間知らずなヴィオレータにだってわかる。


 永遠に続く関係性のなかで生じたものであったなら、しあわせな感情だっただろう。だが、婚姻期間を二年と先に区切ったのは、ほかでもないアンヘルのほうだ。カルティべ領に着いた初日に、こちらを突き放したのも彼だ。彼の気持ちは、ヴィオレータにはないはずだ。彼は、婚約を厭うヴィオレータを憐れんで、唐突で失礼な求婚を受け入れてくれたに過ぎないのだから。


 考えれば考えるほどに、いま、自分が何を言われたのか、ヴィオレータにはうまく理解できなくなった。


「わたくしは、アンヘルさまの妻です。そのように扱ってくださって構いません。離縁であなたの名を汚してしまうのですから、妻の義務として、子を産んでいくべきだとさえ考えております」


 必死にことばを紡ぎだすものの、くちびるから溢れでるのは、取り止めのないかけらばかりだ。ヴィオレータの口にした内容に、アンヘルは顔色を失った。即座にヴィオレータの両肩を掴み、からだを引き剥がす。


「そうですね。非常に貴族的で正しいお考えだと思います。しかし、私はあなたと床を共にする気はありませんし、我が家には弟が三人もおりますから、継嗣についてのお気遣いは無用です」


 低い声音だった。距離のある口調だった。これまでにないほどの激しい拒絶に、ヴィオレータは失言を悟り、みずからも一歩退いた。


「差し出たことを申しました。どうかお許しくださいませ」


 頭を下げ、服が乱れないよう襟元をかき合わせる。やわらかなショールの感触は心許ない。つま先を見つめるあいだも、胸が早鐘を打つ。せっかく打ち解けてきたと思っていたところでのしくじりに、泣きたくなった。いつものアンヘルなら、ヴィオレータに頭を下げさせはしない。優しく、寛容で、慈悲深い。その彼が、いまだに何も言ってくれない。


 もし、許してもらえなかったら? これまでのようにいろいろなところへ同行させてもらえなくなったら? 笑いあいながら、楽しく討論や議論を交わせなくなったら? アンヘルのことばを待ちながら、その実、返事を聞くのは恐ろしかった。


「……っ!」


 続く沈黙に募る不安が、不意にからだを動かした。謝罪の途中で部屋を飛び出してしまっては、もう後戻りはできなかった。室内履きと薄着のままで廊下を走る。滞在先の屋敷の構造など、詳しくない。角をいくつか曲がったところで、ヴィオレータは立ち入ったことのない区域に迷い込んでいた。


 立ち止まり、あたりを見回す。あまり、使われていない区域らしく、客間の付近と比べると、手入れが行き届いていない。壁にかけられた大きな絵には、額の天辺にほこりが積もっているのが見えた。けれども、まったくひとが行き来しないわけではないらしく、廊下には間遠ながらも灯りが点されていた。


 ヴィオレータは壁にもたれかかり、ぼんやりと向かいにある絵を眺めた。描かれているのは、なんの変哲もない冬の風景だ。一面に雪の積もった平原と、遠くけぶる山並み。空には暗い雲が立ち込め、いまにも雨が降りそうだ。しかし、山脈のむこうには青空があるようにも見える。


 じっと見つめているうちに、予期せず、ぽろっと涙があふれた。床を共にしないと強く明言するほど、アンヘルはヴィオレータに触れたくないらしい。そのことが、胸に刺さった。彼がよくしてくれるからと、図に乗って勝手に好意を抱いていた自分が恥ずかしかった。当たり前だ、醜聞に困っていた相手に、身分を盾に結婚を迫るような女だ。好かれるわけがなかった。


 一度堰を切った涙は止まらない。しゃがみ込んで泣いていると、いつのまにか近くに貴婦人がふたり、立っていた。


「お見苦しいところをお見せいたしました」


 慌てて立ちあがると、待っていたひとり──カルティべ伯爵夫人はふっと笑い、ゆったりとかぶりを振った。


「その顔じゃ帰せないわね。ついていらっしゃいな」


 言ったのは、この屋敷の女主人だ。友人同士、遅くまでおしゃべりしていたのだと聞かされながら、すぐ近くの部屋に通された。つい先程まで伯爵夫人と茶を楽しんでいたようすがありありとわかる空間に恐縮していると、女主人はヴィオレータを手招いて、長椅子に深く座らせた。


「可愛らしいこと。確かに、娘に欲しくなるわね」


 女主人のことばに、伯爵夫人は微笑みながらヴィオレータの隣に腰かけた。


「アンヘルは女心に疎いから、苦労をかけますね」

「なんたって、牛のひとですもの」


 よほど気心知れた仲なのだろう。息子に関する女主人の発言にも、伯爵夫人が気を悪くするようすはなかった。しかし、ヴィオレータにしてみれば、夫が悪者にされるのは、居心地のよいものではない。何より、今回失態を犯したのは自分なのだ。


「アンヘルさまは、優しいかたです。わたくしのことをこまごまと気遣ってくださいます。このレアル羊のショールも、アンヘルさまが贈ってくださったものです」

「アンヘルを庇ってくれてありがとう、ヴィオレータ。でも、私はね、あの子があなたをあんな暗い廊下で、ひとりで泣かせたのが許せないのですよ」

「そうよ、あなたが泣いた理由も聞く気はないわ。知らない土地に嫁いできてくれたお嬢さんを泣かせること自体が悪業なんだから」


 ふたりにかかれば、いくら優秀な後継ぎであっても、十代のアンヘルなど形無しだ。これほど全面的にこちらが支持を受けるとは思わなかった。その思いが顔に出てしまったのだろう。伯爵夫人はくすりと笑った。

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