第20話 新婚夫妻と我慢比べ
「こう言って慰めになるかわからないけど、私たちも若いころは隠れて泣いたものよ。子どもを何人産んでも、嫁いだ女性自身は余所者のままだもの」
「そのような立場の妻を守るのが夫の義務です。もちろん、ヴィオレータのことは、私も守ってあげますけれどね」
口々に言われているうちに、涙がおさまる。ヴィオレータは目尻を指で拭い、膝を見つめた。
──子を産んでも余所者なら、夫と同衾もしないわたくしは、単なる居候。赤の他人だわ。
これまでは、触れられこそしなくても、同じベッドに眠ることに抵抗はなかった。そういうものだと、割り切っていたからだ。しかし、床入りを拒否されたいまとなっては、彼に近寄ることさえ、いけないことのように感じた。
「恐れ入りますが、アンヘルさまとは別のお部屋をお借りできないでしょうか」
切り出したヴィオレータに、女主人は困った子を見るような目で微笑んだ。
「落ち着いたら、元の部屋へお帰りなさい。そうしないと次は、明日、顔を合わせるのも嫌になるわよ?」
「でも……」
「気まずくても、目を逸らしてはいけないわ。何もせずに日を跨ぐのは、ぜったいにダメ。もしも先にアンヘルが寝ていたら、叩き起こしてでも話し合いなさい。夫婦のあいだに起きる#諍__いさか__#いで、時間が自然に解決してくれることなんて、この世にひとつもありはしないのよ」
そんなことを言われても、契約結婚の自分たちには当てはまらない。話し合うことなどない。アンヘルは、ヴィオレータには触れない。二年で離縁するためだ。子も必要ない。それが結論で、揺らがないのだ。
契約が秘密である以上、カルティべ伯爵夫人にも女主人にも、詳しくは話せない。どうしたものかと目を向けた姑もまた、女主人と似通った笑みを浮かべていた。
「泣かされた側が歩み寄らなければならないなんて、理不尽に思うでしょう? でもね、そう思うのならね、ヴィオレータ。あなたはアンヘルの前でこそ、わんわん泣いてやらなければいけなかったの。いま、あの子にはあなたの気持ちなんて、ちっとも伝わっていないのですから、教えてやってちょうだいな」
「男なんて、そんなものよ? 口に出したって伝わらないことすらあるのに、察してくれているはずがないわね」
一度は親身になってくれそうに見えた年上の貴婦人たちから、まるで的外れなことを言われて諭されながら、ヴィオレータは反論や抵抗を諦めた。
王太子から逃れるためにカルティべにやってきたのは自分だ。離縁の日までの二年足らずの辛抱だ。アンヘルが他人として振る舞いたいのなら、望みどおりにするしかない。そのほうが離縁しやすいのは確かなのだ。
女主人の侍女に送り届けられ、客間の前に帰り着く。侍女を帰したのちも、なかなかドアを開けられずに、木目をじっと見据える。これを開く前にきちんと、アンヘルを好ましく思うこころを閉ざしておかなければ。そうしなければ、先程のように不意にやわらかなところを抉られてしまう。
自分の世間知らずで無防備な部分がすっかりと殻にこもるのをゆっくりと待ってから、ヴィオレータはドアをノックした。応答はない。もう休んでいるのか。考え、ドアノブを握ったときだ、内側から、ドアが勢いよく開いた。
手が弾かれる。鋭く走った痛みと、表情とを切り離す。ドアを開けたアンヘルは、ヴィオレータが怪我をしたことに気づくようすもなく、どこかほっとしたような顔になる。そんな彼を見上げて、ヴィオレータは深く頭を下げた。
「先程は取り乱しまして失礼いたしました。二度と無いようにいたします」
「いえ、私も言いかたがきつかったと反省していたところです」
部屋に迎え入れられて、肩からレアル羊のショールを外す。きっちりと折りたたみ、鏡台の前に置く。このショールを纏うことは、もうないだろう。考えつつ、指を離す。思ったよりもひどく打ったらしく、痛みで指がうまく動かない。だが、それをアンヘルに気取らせてやる気はなかった。
「昨日までのように同じ寝台を使ってもよろしいですか?」
「──ええ、構いませんが」
「ありがとう存じます」
さっさと寝台に潜り込み、戸惑うような夫の視線に気がつかないふりをする。あれは、他人だ。こちらが気にする必要はない。
そうやって、アンヘルを無視したまま一晩を明かし、翌朝、食堂へのエスコートを受ける際になって、彼は遠慮がちな問いをかけてきた。
「ヴィオレータ。もしかして、昨晩のことを怒っていますか?」
「いいえ? なぜ、そのようにおっしゃるのでしょうか」
「あ、いや、いつもより表情や会話が乏しい気がして」
「きっと寝不足のせいですわね。あまり頭が回らないのでしょう」
絶えず、隙を見せまいと気を張っているせいで、かえって綻びが出たのだろう。気づかれるなど、自分もまだまだ未熟者だ。
ヴィオレータは微笑みを作りなおして、食事の席に着いた。和やかに食事を終えたあとになって、伯爵夫人に呼び止められる。足を止め、振り返ると、彼女はエスコートするアンヘルからヴィオレータの手を奪うようにした。
「腫れているじゃないの! いつ怪我したの?」
女主人を通じて、てきぱきと手当てのための指示が飛ばされるのをよそに、ヴィオレータはただ、ほんのりと微笑んだ。答える気はない。引き結ばれた口元を見て、ためいきをつき、伯爵夫人はアンヘルを見上げた。視線の意図を察して、先回りして口を開く。
「旦那さまには関わりのないことですわ。このくらい、すぐに治ります。どうぞ、お気になさらず」
「なぜ黙っていたのですか」
「いくらヴィオレータが黙っていたとしても、こんなに腫れ上がっていたら、さすがに手を取るときにわかるでしょう? どうして気づけないのです?」
アンヘルに対する伯爵夫人の刺々しい口吻に、やんわりと口を挟む。
「旦那さまに落ち度はありませんわ、おかあさま」
「でもね──」
「旦那さまを煩わせてはと、わたくしが勝手に気を回して隠しましたの。ご心配には及びません。少し冷やせば、見た目も落ち着きますわ」
にこりと笑って、ヴィオレータは話の合間に用意された冷たい濡れタオルを手首に当てた。ミントの香りがスーッと鼻腔を刺激する。消炎効果のある精油を使ったのだろう。さわやかな芳香に、気持ちも穏やかになる。
促されて、談話室のソファに場所を移す。隣に腰掛けたアンヘルは、先刻から一言も発さない。気まずさから目を逸らして、ヴィオレータはやむなく夫に自分から声をかけた。
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