第18話 新婚夫妻と小旅行
ヴィオレータとアンヘルは、カルティべ伯爵夫人とともにいくつかの領地を訪れ、暖冬の小麦に関する情報を集めていった。
訪問した家のなかには、ヴィオレータの母から手紙を受け取っていた夫人もいた。ヴィオレータは母のことばを思い起こし、王都の生家から遠く離れて心細いこと、実の母の代わりのように夫人を頼りにしていることをできるだけ伝えておくように努めた。
たった二年の婚姻期間のうちには、このやりとりが意味を持つ日は来ないかもしれないが、蒔かぬ種は生えぬのだ。すべきことを為さずにする後悔だけはしたくなかった。
よその夫人を母代わりに頼る姿勢を見せるだけでは、姑である伯爵夫人との関係性を疑われてしまう。しかし、その点の補完も抜かりなく打ち合わせてあった。
伯爵夫人がほんとうにヴィオレータを娘として扱ってくれたのだ。さりげなくヴィオレータと揃いの色やデザインを使ったり、共布を用いたりしたドレスを仕立てて、出かけた先で示し合わせて何度も着てみせた。
互いに無理にしたことではない。男子ばかりに恵まれた伯爵夫人にとって、「娘とおそろいの服装」は、一度はしてみたかったことなのだと言う。対外的にも、関係の良好さのアピールとしてはこれ以上ないかたちだろう。どんなに聞こえのよいことばを重ねるよりも、目に見えるものは雄弁だ。
一方で、小麦を気にしていたアンヘルにも収穫は多かったようだ。客間の寝室に入ると、どの家のときも彼は目に見えて多弁になった。
「暖冬の年はやはりどちらでも小麦の収穫量が減るようです。追肥の回数を増やしたり、増える雑草の除去に気を配ったりする方法は、ウチと変わりません。排水を工夫するのはこちらの領地に特有のものですね。排水によって土の乾燥が叶えば、霜害にも有効かもしれません。試してみる価値はあります」
楽しそうに語る彼に微笑んで、ヴィオレータはナイトドレスの肩にかけたショールの手触りを楽しむ。毛織のショールは、アンヘルが贈ってくれたものだ。よく泡立てたクリームのようななめらかさと軽さを兼ね備えた質感は、レアル種の羊毛の特徴だ。もちろん、とても暖かい。
レアル羊は、その羊毛の上質さから王室専用にも飼育されている種の
「旧友から、結婚祝いにと、羊毛が一頭分送られてきたんです」
「羊毛ですか? 織らずに、そのまま?」
「ええ、織るどころか紡ぎもしない原毛です。さいわい、よく洗われてはいましたが、実にあいつらしい実用的な贈りものです。材料のままのほうが染めも織りも好きに加工できて喜ばれるとでも思ったのでしょう。単に手元にあるものを送っただけかもしれませんが」
苦笑いする夫の目は、懐かしそうな色をたたえていた。ヴィオレータは彼と友人とのあいだの交流を推しはかり、興味をもった。
「遠くにおいでなのですか?」
「いいえ。でも、会えません。修道士になるので、会話が許されないのです」
ヴィオレータが遠まわしに「会ってみたい」と言ったのを察して、アンヘルはキッパリとかぶりを振った。旧友が修道士見習いと聞けば、さすがに諦めがつく。誓願を立てるまでの沈黙の戒律は特に厳しいと聞く。修道院によっては、身振り手振りでの会話すら禁じられるそうだ。彼らは孤独のなかに身を置くことで、日々に神の愛を見出していく。
「外部との手紙や物のやりとりは許されるのですね」
「厳密には許されていませんよ。実は、今回送ってきた品も、本来は持ち出し禁止の品ではないかと思います。彼は特殊なんです。修道士になりたくて見習い生活を送っているわけではないので、境遇が院長の同情を買って、多少の目こぼしがあるようです」
特殊な生い立ちに踏み込むべきではないだろう。好奇心を抑えたヴィオレータは、アンヘルのことばのなかに不穏な単語を拾ってしまった。
「──アンヘルさま。まさか、ご友人がおいでの修道院では、レアル羊の飼育が行われていますか?」
「そうですね、確か、王室専用に飼われている羊です」
そらとぼけたアンヘルの回答に、ヴィオレータは額を押さえた。道理で手触りが極上のはずだ! 修道士見習いの旧友とやらは、アンヘルの結婚祝いに、王室用の羊から取れた原毛を横流しして寄越したのだ。
「……ご友人が罪に問われることはございませんの?」
「彼自身にも、受け取るあなたにも王家の血が流れています。そう思って、これ以上は気にせずにおきましょうか」
アンヘルは事を荒立てずに沈黙を貫くつもりらしい。指摘すれば、友人も修道院長も立場が危ういが、こちらが気付かぬふりをすれば、一頭分くらいなんとかなるという腹だ。
公爵家出身のヴィオレータに流れる王家の血など、いちばん新しくても降嫁した曽祖母のもの。ずいぶんと薄まっている。アンヘルの旧友のほうは、もっと血縁が近いのだろうか。気になるが、追及はしないほうがよさそうだった。この文脈で、アンヘルが敢えてヴィオレータに友人の名を明かさないのだ。表立って口にすべき事柄ではないのかもしれなかった。
そんなやりとりを思い起こしながら、熱をもって語るアンヘルを見つめる。彼の頭のなかには、きっと、自領を良くすることしかない。ひたむきな努力は報われてほしいし、ヴィオレータ自身も彼を助けたかった。恩返しになるならば、できるかぎりのことをしたい。
「アンヘルさま。年ごとの各領地の小麦収穫量の資料ならば、秘匿されたものではありません。国立行政文書館に問い合わせて、近隣地域のぶんだけ抜き書きの写しをいただきましょう。この地域で暖冬がいつ起きたのかの記録は国にはありませんが──」
「あります。僕や父の日記がある!」
アンヘルは早口で言い、ヴィオレータの両手を取った。緑の目はきらきらと光を受けている。いつもより、こころなしか瞳が大きく見えるのは、彼が興奮しているせいか。
「比較するんですね、各地の農法の効果を!」
「はい。ウゴ先生のように正確な検証はできませんが、暖冬への有効性について、きっと、だいたいの予測はつきますわ」
「──!」
気づいたときには、暖かな腕のなかにいた。がばっと音のしそうなほどの勢いで抱きしめられ、ヴィオレータは目を白黒させた。
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