第3話 じゃがいも令嬢と思い込み
用事を一度切り上げて、王妃の執務室までたどりつくと、開かれていた扇子はようやく閉じた。長椅子に腰掛けた王妃のようすに、侍女たちがすかさずお茶の用意をはじめだす。ヴィオレータも促されて、王妃の向かいに腰をおろす。
「あの娘は、近ごろフェリペにつきまとっているのよ」
「ミュリエルという娘のことでございますか?」
うなずいて、王妃は淹れたばかりの茶をひとくち口に含んだ。
「知ってのとおり、フェリペはわたくしの産んだ子ではないけれど、嫡子として育てているでしょう? マロ伯爵はね、フェリペの実母の姉にあたる女性を妻として迎えているの。おそらくは、自身を次期国王の伯父だとでも考えているのよ」
「まぁ……。それで、あのかたはあのような振る舞いをするのですか」
ヴィオレータは呆れたが、王妃に倣ってカップをくちびるに寄せ、それ以上はことばにしなかった。
愛妾が産んだ子は庶子であって、王子ではない。王位継承権も存在しない。だが、生まれたばかりの子を王妃が引き取り、嫡出子として扱えば、正式な王子と認められるのがこの国の法だ。翻せば、フェリペが愛妾の子として扱われるうちはマロ伯爵の甥であるが、彼が王妃の子となってからは、お互いにまったくの無関係な間柄になるのだ。マロ伯爵の振る舞いは、こうした法と慣習から逸脱したものだった。
たとえ王太子の伯父だとしても、王妃への無礼は許されない。マロ伯爵は、よもや、義理の妹である愛妾をこそ国母とでも考えているのか。それとも、子のない王妃を軽んじているのか。どちらにせよ、国王の臣下である以上、その妃を軽んじるなど、まともな貴族のすることではない。
「自分を顧みれば、陛下に重用されぬ理由などわかりそうなものですよ、まったく。さいきんは、遠縁だと言うあの無作法な娘をフェリペにけしかけて、よからぬことを企んでいるようすなの。フェリペはまだ年若いから、見目のよい娘にならば絆されてしまいそうで恐ろしいわ」
「ご心配には及びませんわ。王太子殿下はご自分の責務をよくご存じでいらっしゃるかたでございます」
流れで王太子をフォローしてみて、はたと思いあたる。そういえば、めずらしく断られたエスコートの件、あれはどういった思惑からの発言だったのだろうか。あのあと何度か、王太子付きの侍従に儀式についてどうするのかと返答を催促しているが、一向に音沙汰がなかった。さすがに豊穣祭の前日ともなれば、方針を定めてくれなければ困る。
ヴィオレータは、いつまでも愚痴が続きそうな王妃の目先を逸らすように、明日の王太子の予定について、水を向けた。
「王太子殿下は明日の豊穣祭に参加されないようですけれども、代役はどなたがなさるのでしょうか」
「──なんですって?」
声を上げた王妃は、うっかりと手元を狂わせそうになっていたが、持ちなおし、そっと茶器をテーブルに置いた。それでも、やや動揺した風情でヴィオレータに膝を向ける。そのようすに、ヴィオレータのほうがたじろいだ。王妃は、まさか、この件をいま初めて耳にしたのか。
「あの子がそんなことを? 豊穣祭に王族の不参加は認められません。まして、王太子が不在だなんて、ありえないわ。今日はフェリペは外ね。……直ちに王太子の筆頭秘書官をこちらへ連れて参れ」
侍女のひとりに指示を飛ばして、王妃はゆっくりと息を吐いた。
「ヴィオレータ、あなた、その話はいつごろ聞いたの?」
やってしまった。気づいたが、下手な弁明はせず、ヴィオレータは問われたことにしっかりと答えようと努めた。その声は、自然と震えていた。
「伺ったのは、ひと月ほど前のことです。豊穣祭後のパーティーでのドレスの色合わせについて書面で問い合わせましたところ、エスコートはしないから、ドレスの色は気にしなくてよいとの回答を口頭でいただきました。夜会の時間帯にのみご予定が入ることは考えにくいので、日中の豊穣祭でのお役目についてはいかがなさるのかと幾度かお伺いしておりますが、わたくしのほうにはお返事をいただいておりません」
「なんてこと。慎重なあなたらしくもない! どうして、その段階で、すぐにわたくしや陛下に報告しなかったのです?」
慢心があったのだ。豊穣祭に王太子がいなくてよいはずがない。王族でない自分が知っているしきたりなのだから、王太子は知っていて当然だし、自分に話して聞かせるくらいだから、国王と王妃への根回しは済んでいるだろう。どれも、ヴィオレータの勝手な思い込みだった。
言い換えれば、ヴィオレータは王太子の行動にそれほどの信頼をおいていた。彼は確かに幼稚な面があるし、頭に血がのぼりやすいほうではあるが、こと執務においては真面目に、実に熱心に向き合っていた。書類に書かれた法律用語や言い回しが難しいと言っては怒り、怒りながらもきちんと調べて、納得するまで食らいついていく。その姿勢は尊敬できるものだった。
だからこそ、神託のせいで降って湧いた政略結婚であったとしても、そのせいで日々多忙を極めたとしても、ヴィオレータは王太子との婚約を嫌だと思ったことは一度もなかったのだ。
筆頭秘書官が来るまでの時間、王妃の執務室はとても重苦しい空気に満ちていた。王妃はヴィオレータを哀れに思ったのか、席を立ち、隣に座りなおした。固く握りしめたこぶしを手で包み、慰めを口にする。
「そなたひとりを責めるつもりは毛頭ありませんよ。フェリペが婚約者のあなたをエスコートしないなんて、とんでもなく失礼な話だわ。それにね、衣装の色合わせをしていないことに、フェリペの衣装部が気づかないのもおかしなことなの。先日の豊穣祭の予行演習にも、あの子はちゃんと来ていたのよ? いったい何がどうなっているのかしら」
やがてやってきた筆頭秘書官は、王妃の詰問に目を丸くした。彼が言うには、王太子は豊穣祭にも、その後の夜会にも出席予定らしい。そのうえ、衣装の色合わせは済んでおり、色はヴィオレータの用意したドレスと、ぴたりと合わせられていた。
怪訝な顔を見合わせて、王妃とふたり、釈然としないまま秘書官を帰し、休憩を終え、明日の確認作業を詰めた。手も頭も休まらないが、気持ちはもっと乱れていた。
──どういうこと? 訳がわからないわ。
公爵邸に帰宅して、ヴィオレータは侍女に問うた。
「わたくしの明日着るドレスについて、王太子殿下からお問い合わせはあって?」
「いいえ、姫さま。特にご連絡は頂戴しておりません」
「──そう」
不可解なできごとに、なんだか胸騒ぎがした。ヴィオレータは言い知れぬ不安を抱きながら、豊穣祭の当日を迎えることとなった。
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