第2話 じゃがいも令嬢と妃殿下
高位貴族が城内に滞在することはめずらしいことではない。ヴィオレータの実家であるエストレラ公爵家も、ひと部屋、決まった部屋を持っている。宴の日が近くなるにつれて、城内には貴族たちの姿が増えていった。
宴の前日にも、ヴィオレータは宴の采配を行う王妃に付き添う傍ら、自身の役割の最終確認を行っていた。
「毎年毎年、自分から手伝いを申し出てくれるだなんて、あなたはほんとうに勤勉ねえ」
王妃が心底感心したようすで微笑む。ヴィオレータはいたたまれない気持ちになりながら、こうべをたれた。
「恐縮でございます。わたくしは妃殿下に学ばせていただくばかりで、お手伝いになどなりませんのに」
「何を言うの。フェリペなど、いつまで経っても宴や儀式の流れも侍従頼みですもの。ヴィオレータ、あなたのほうがよほど国を治める覚悟がありますよ」
苦労をかけますねと、王妃から労られ、ヴィオレータはますます縮こまった。ヴィオレータが宴のたびに王妃の手伝いを買って出るのは、ほかでもなく自分の見学のためだ。
ヴィオレータは王太子の婚約者。つまり、いつかは王妃になるのだ。いずれ自分がしなければならない仕事を、現役の先輩がいるうちに間近で見られる機会など、そう多くないだろうと踏んで、数少ないチャンスを逃すまいと行動したに過ぎない。
そんな下心のある振る舞いを勤勉だと褒められてしまっては、心苦しくてたまらなかった。今度からは自分で動かず、
王妃が足を止め、ぱらりと扇子を開く。口元を隠すしぐさに、ヴィオレータはハッとして立ち止まった。王妃付きの侍女たちがヴィオレータを取り囲むように王妃のうしろを塞ぐ。
王城には使用人だけで数千の目と耳がある。朝議のために立ち入る貴族やその従者を含めれば、恐ろしい数にのぼるだろう。安心して打ち合わせのできるタイミングがあるとは限らないので、王妃とはあらかじめ、緊急用の合図をいくつか決めてあった。
開いた扇子で口を隠すのは、そのうちのひとつだ。意味は、「口を開くな」。ヴィオレータが話しかけられても、王妃がなんとかするから、扇子を閉じるまでは決して口を開いてはならないと言い含められていた。
城の女主人たる王妃が立ち止まったのにもかかわらず、相手は道を譲ろうともせず、のしのしと傍若無人に進んでくる。隣で、年若い侍女が眉を顰める。それを目でたしなめて、ヴィオレータは緊張をほぐすように自分の扇子の骨を指でなぞった。
王妃がこんな合図を使う相手は、いったいだれなのだろうか。そっと前を確かめる。
見えたのは、禿頭の壮年の男と、ヴィオレータと同年輩の娘を中心とした集団だ。男のほうには見覚えがある。マロ伯爵だ。ヴィオレータは視線を落とし、王妃の背を見つめた。精緻なレース編みのリボンに目を向けながら、マロ伯爵についての記憶を辿る。
伯爵領はぶどうの産地として名高い。そのまま食べるための品種ではなく、ワインに加工するものだ。所領は代官に任せきりで、伯爵一家は王都に常駐していると聞く。
──あまり、真面目なかたではないと言えるわね。
ヴィオレータの感想はともかくとして、特段、悪いウワサを耳にしたことはない。なぜ、王妃がここまで警戒しているのかと首を傾げ、ヴィオレータは目を伏せたまま、耳に神経を集中する。
「これはこれは、王妃殿下! ご機嫌麗しゅう!」
「……マロ伯爵も息災のようですね」
聞いたこともないような、王妃の冷ややかな声にゾッとする。それもそのはず。王妃が話しかけもしないのに、臣下のほうから声をかけてくるなど、無礼極まりない所業だった。
一般に、宮廷の作法では、王妃がいることに気づいたら、ただちにその場で立ち止まり、頭を下げ、視線を床に落とし、王妃からのお声がかりを待つものだ。しかしながら、マロ伯爵はそのいずれも行わなかった。真正面からケンカを売られては、温厚な王妃とて気分の良いものではないだろう。
「よかった、これで宴の前にご紹介できますな! 妃殿下、これは私の遠縁の娘で、ミュリエルと申します」
「はじめまして、王妃さま! ミュリエルです。──わぁ、ホントにフェリペさまの言ったとおりだぁ!」
聞こえてきた素っ頓狂な声に目を上げる。王妃の肩越しに、髪を高く結った小柄な娘と目が合った。
「あっ、フェリペさまの婚約者は、とても背が高いんだっておっしゃってたんですよぉ。きっと似合わないから、ドレスもアクセサリーも喜ばないんだって。かわいそうですよね、フェリペさま。ミュリエルだったら、なんだって似合うし、ドレスをもらったら、すっごくうれしいのに!」
ヴィオレータは呆気に取られて、ミュリエルを見下ろした。何を言っているのかわからないが、あまり相手にしないほうがよさそうだと直感する。もとより、王妃に指示されているところだ、口を開く気はないし、公爵令嬢の自分が話しかけもしないのに、王妃を飛び越してまで、ヴィオレータを会話の場に引きずり出そうとする言動は不愉快だった。
敢えて押し黙っていると、ミュリエルはさらに言い募った。
「いつもお仕事の話ばかりでお高く止まってて、気づまりだって言ってましたよぉ! ミュリエルとお茶するほうが何倍も楽しいって! それにね、じゃがいも令嬢なんて呼ばれてて恥ずかしいって!」
──そんなにたくさん、殿下とおはなししたことなんてあったかしら。
ヴィオレータは、ただ仕事をしていただけだ。王太子の補佐なのだから、上司にあたる王太子に仕事の報告をするのはあたりまえではないか。それに、じゃがいも令嬢と言われるのだって、別に気にしていない。結果として、救荒作物が民を救うなら、あだ名のひとつやふたつ、どうだってよい。
「ミュリエルや、そんなに言ってはエストレラ公爵令嬢がおかわいそうだ。ほら、うつむいてしまわれたじゃないか」
「ええー? でも、ホントのことだもん」
口を尖らせるミュリエルをことばではたしなめながらも、マロ伯爵はニヤニヤと王妃とヴィオレータとを窺っている。
扇子の裏で、王妃が小さくため息をつくのが聞こえた。
「マロ伯爵、わたくしは明日の支度で忙しいのです」
「お引き止めいたしまして、申し訳ありません」
ミュリエルには一切言及しないで、王妃はすげなく立ち去ることを決めたらしかった。ヴィオレータはだれかの舌打ちを背後に聞きつつも、王妃の背を追って、その場を後にした。
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