第3話「灼熱地獄で勝つのは誰だ?サウナットウの果たし状」

 行きつけの喫茶店。古びた木製のドアを開くと、カランと鈍い鈴の音が鳴った。室内に入ると、ふわりとコーヒーの良い匂いが鼻を掠め、心が少し和らぐ感じがする。

 カウンターにいる喫茶店のマスターがいつものように笑顔で会釈するのに微笑みを返して、俺は喫茶店の一番奥にあるボックス席へと向かった。

「すまない、待たせたか」

 ソファーに座る人物に声を掛けた。人形のような黒のフリルのドレスに、長い艶のある金髪から真っ白い顔をのぞかせる女性。目元の黒い化粧と紫のリップがさらに人形のような雰囲気を際立たせるその女性は、伏せていた黒い目をふっと俺の方に向ける。

 しばらく彼女は俺の顔をじっと見つめてから、首を静かに横に振った。俺は「ならよかったよ」と笑って、彼女の向かい側の席に腰かけた。

 マスターにいつものようにコーヒーを二つ頼むと、俺は机の上に手を組んで真剣な顔を作った。

「……で、依頼っていうのはなんだ、ケイ」

 俺がそう尋ねると、彼女……ケイは静かにフロッピーディスクを俺の方に差し出してきた。依頼情報が、この中に入っているという事だ。

 パフガドルの事件から数日。俺は嵐と逃げ出した事についての処分を何故か全く受けなかったのを良い事に、ケイからの依頼に取り掛かろうとしていた。

 ケイは俺が唯一繋がりのある情報屋である。バブルクラヴの情報を送ってきたのも、俺に怪事件情報の入った小型のコンピューターを渡してくれたのも彼女だ。俺が怪事件について調べられるのは彼女のおかげだといっていい。

 今のところ黄金原財閥と怪物との関係はまだ明確に掴めていないものの、ケイの力を借りながら必ず真相に辿り着いてやる。今はそう思っていた。

 俺は持ってきた小型のコンピューターにフロッピーディスクを差し込むと、コンピューターの画面に情報が映し出される。俺が画面を見ている時、ふいに誰かの気配が近づいてきたのに気づく。マスターがコーヒーを持って来てくれたのかと思って顔を上げると、そこにいたのは……。

「あ、嵐!?」

 俺が驚いていると、何故かこげ茶のエプロン姿の嵐が「…ミゾロギ?」と首を傾げる。

「違う、俺は三代木みじろぎだ! って、そうじゃなくて……嵐、君はなんでこんな所にいるんだ」

「俺はここで働いているんだが」

「な、なんだって? いつから?」

「……たしか、一昨日くらいからだ」

 いくら探しても見つからないと思ったら……まさかこんなところにいたとは。灯台下暗しといったところだ。

「コーヒー。淹れてやったから飲め」

 嵐が持っていた銀のトレイの上からコーヒーカップを取って机に置く。こいつ、コーヒーなんて作れるのか……? と不審に思いながら、コーヒーを口に含んだ。

 瞬間、吹き出しそうになった。

「俺のオリジナルコーヒーだ。砂糖と蜂蜜…それから練乳、黒糖なんかを混ぜておいた」

 嵐がやけに自信満々な顔で語る。コイツ、なんてことをしてくれてるんだ……。

 ケイが目の前にいるから辛うじて吹き出さないようにしたが、あまりに……あまりに甘すぎて身体の拒絶反応が起きている。喉が甘さで爛れたような感じがして、俺はその場でげほげほと咳き込んだ。こんなの飲んだら絶対虫歯になる、というか歯が溶ける。もうちょっと溶けてると思う。

「ケイ……絶対飲むなよ。死ぬぞ」

 ぜーぜーと息をしながらケイに忠告する。こんな甘いもの、飲んだら歯が……いや、身体の一部が溶ける。絶対に。

 俺の忠告を聞いたケイはコーヒーを覗き込んで静かにそれを見つめる。そして、躊躇う事もなくそれを飲んだ。

「ケイ!」

 俺は思わずケイに叫んだ。ケイの喉がこくりと動いて、コーヒーを嚥下する。俺は心配になってケイの様子を窺った。このままケイの体内が溶けてしまったなら、嵐を絶対逮捕しようと心に決める。

 しかし俺の心配とは裏腹に、ケイは顔色一つ変えずコーヒーをごくごくと飲んだ。なんか、むしろいつもより飲むペースが速い気すらする。

 あっという間にコーヒーを飲み干したケイは、何も言わずに嵐をじっと見つめた。まるで、「どうだ、飲んでやったぞ」とでもいうかのような視線だった。

「……ほう、なかなかやるな」

 嵐がケイを見つめてニヤリと笑う。ケイはにこりともせずに、透き通った黒い瞳で嵐を見つめた。何だか、二人の間に火花が散っているような気がするのは気のせいなのだろうか。

「で、三代木は仕事もせずにデートか」

 急に俺の方を向いた嵐が言う。突然話を振られた俺は「そんなわけないだろ! 仕事だ仕事!」と即座に否定した。すると嵐は「そうか、なら俺も話を聞いてやろう」と俺の隣に無理矢理座ってくる。何で君が話に入ってくるんだと抗議の目を向けたって、もう嵐はここに居座る気しかないみたいに勝手に俺のコーヒーを飲みだした。「ん、うまい」と嬉しそうな声を出す嵐。コイツは味覚が狂っているのかもしれない。

 嵐の事を諦めてケイに視線を戻すと、ケイは「こいつはなんだ」という目で見てくる。基本的に、ケイは一言も喋らず視線や動作で物事を伝えてくる事が多いのだが、十分にその目から警戒心が伝わってきた。ちゃんと紹介しないといけないな、これは。

「あー……えっとな、ケイ。彼は嵐っていうんだ。俺の知り合いで……変な奴だが、怪事件を解決する力があって……」

 言いながら、そういえば結局俺は嵐の事について何も知らない事に気が付いてしまう。今ここで改めて聞いてやろうかと嵐の方を向くと、気づけば嵐はまたまた勝手に俺の持っていたコンピューターを使っていた。

「コラ! 勝手に使うな!機密情報が入ってるんだぞ!」

 俺が怒っても、嵐は無視。コンピューターを見つめて「ふむ……」と興味深そうな声を出す嵐と一緒に、俺も画面を覗き込んだ。さっきまで読みかけだった文章を追うと、そこには新たな怪事件の情報がある。

「銭湯に怪物、か……」

 情報によると、三丁目南にある銭湯「湯花」を怪物が占拠しているという。銭湯を経営しているお婆さんの安否が不明になっているのだが、怪物の所為で親族も近所の人も銭湯に迂闊に近づけないそうだ。これは、すぐにでもその銭湯にいかなければ。

「銭湯とはなんだ、三代木」

 嵐が不思議そうな顔で尋ねてくる。銭湯を知らない奴ってこの世にいるんだなと驚きつつ、俺は嵐に説明する。

「銭湯っていうのは、色んな人が風呂に入れる施設……っていえばいいのかな。とにかくデカい風呂がある場所だ」

「…ふうん、なるほど。その風呂はどれくらいデカいんだ?」

 嵐の目にきらりと光りが宿る。気になる所ってそこか?相変わらず着眼点が不思議な嵐に「まあ…普通の家にある風呂よりかはデカい」と曖昧な事を言うと、嵐は意気揚々と立ち上がった。

「デカい風呂、見てみたい。行くぞ、三代木」

「ち、ちょっと待て嵐! ていうか君は仕事中じゃないのか!」

「もう飽きた」

「飽きたって君なあ……!」

 さっさと歩き出した嵐の後を追いながら、慌ててお代をマスターに払う。その際、マスターが「とっとと連れて行ってください」というような笑顔とジェスチャーをしたので、やっぱり嵐が迷惑をかけていたんだなと察した。

「ケイ! また連絡する!」

 振り返ってケイに声を掛け、俺はすぐに喫茶店から出た。

 嵐は俺を待つ事もなくすでに遠くを歩いていて、俺は走ってそれに追いつく。追いついてから数分、相変わらず何を考えているか分からないクールな顔つきで嵐が「三代木」と俺の名前を呼んだ。

「銭湯には飯があるのか」

「また飯の話……いや、ないよ。ああ、でもコーヒー牛乳とかはあると思うぞ」

「コーヒー牛乳? ……それは美味いのか」

「風呂上がりに飲むと美味い」

「ふうん」

 興味があるのかないのか、適当な返事をする嵐。何を考えてるんだかわからないが、一応俺達は事件の調査に行くんだからな。……なんて、嵐は別にその気はないんだろう。ただ、デカい風呂に興味があるだけ。なんだか真面目に仕事をしている俺が馬鹿みたいだが、今回だって人命がかかっている。気を引き締めて行かないといけない。

「にしても、三丁目南か。ここから歩くとまだかかるな……」

 呟いて、少し悩む。実を言うと、喫茶店の前に自転車を停める場所がないので、今日は歩きで来てしまったのだ。まさか、こんなにすぐに事件現場に向かうことになるとは思ってなかったので大誤算である。

「三代木、あれに乗ればいいだろ」

 バスにでも乗るかと考えていると、嵐が道端を指さす。なんだ?と指を指した方向を見ると、そこには二人で運転するタンデム自転車が放置されていた。近づいてみてみると、張り紙で「ご自由にどうぞ」と書いてある。まったく、ちゃんと然るべき処分をしろと怒りたくなったが、今は好都合だ。タイヤの空気があるのを確認して、俺は自転車に跨る。

「嵐、一緒に漕ぐぞ」

「フ、こんな形で共闘とはな……」

「めちゃくちゃカッコイイ言い方だが、自転車を一緒に運転するだけだからな」

 なんでいちいちかっこつけるんだ。俺は呆れた気持ちになりながらも「じゃあ、行くぞ」と告げて自転車を漕ぎ始めた。

 結局のところ、目的地に到着するまで嵐は全然ちゃんと漕がず、ほとんど俺が自力で自転車を漕いだ。ていうかちゃんと見えなかったけど、嵐ペダルから足離してただろ! その癖に「遅い」とか文句を言うし、挙句の果てにリコーダー吹き始めるし。君も漕げっての!

 なんやかんや嵐に文句を言われながらも銭湯の前に着くと、俺は汗だくになっていた。まだ夏より少し前だが、身体を動かすと結構暑い。

 もしここが事件現場じゃなければ、風呂に入って汗の一つでも流すのだが……今はそれどころではない。

「ここが、銭湯……」

 俺より一足先に自転車から降りた嵐が銭湯の入り口に立つ。なにか、物珍しいものをみるような視線だ。俺も自転車を道の邪魔にならない所に停めて嵐の隣に立った。

 昔ながらの古風な趣の銭湯だ。黒い瓦屋根にちょっとくすんだ壁、木枠の窓。昭和か、それよりもっと前に建造されたものなのだろうか。俺がまじまじと建物を観察していると、ふいに正面玄関の横に置かれた看板……の上に貼られた張り紙に目が行く。

「サウナットウ様専用銭湯……? なんだこれ」

 俺がそう口にした途端だ、正面玄関のほうからばたばたと音がする。もしかして、生存者が逃げてきたのかと顔をあげて、俺はぎょっとする。

「な、なんだ君達は……!」

 銭湯から、下半身が黒タイツで頭に藁納豆の被り物をした謎のプロレスラーのような人物が数人現れる。怪物は一体ではなかったのか? 俺が藁納豆の被り物の人物たちと睨み合っていると、どすどすと銭湯の奥から音が聞こえる。また、誰かがこちらに歩いてくるようだ。……なんか、妙な匂いもする。

「ネババーッ!」

 玄関から、今度は全身が図太い藁納豆になった怪物が現れた。すると、藁納豆頭のレスラー達が一斉にデカい藁納豆の怪物に向けて敬礼する。どうやら、こいつがボスの怪物のようだ。

「お前ら! ここはワシ、サウナットウ様の私有地だぞぅ! 気安く近寄るんじゃねえ!」

 納豆の独特の発酵した匂いをまき散らしながら、藁納豆の化け物が俺達を指さす。俺はサウナットウを睨みながら言った。

「なにが私有地だ! ここは公衆浴場だろ!」

「いいや違う! ここはワシが手に入れた専用の銭湯だ! ワシ以外の使用は絶対許さんぞぅ!」

 勝手に占拠しておいて、よくも手に入れたなんて言えたものだ。俺は正義感が燃えるのを感じながら叫んだ。

「銭湯は……お前だけが独占していい場所じゃない! 沢山の人の憩いの場なんだ! それを奪うなんて……絶対に許さん!」

「フン。ならば、ワシとのサウナ対決で勝ったならこの銭湯を返してやるぞぅ!」

「……サウナ対決?」

 それまで黙っていた嵐が喋った。何か引っかかったらしい。

「そうだ! ワシとお前達でサウナに入り、我慢比べをするんだぞぅ! ワシよりサウナの熱さに耐えられたなら、この銭湯を返してやるぞぅ!」

「いいだろう。その勝負、乗った」

 なにをふざけたことを、と俺が言おうとしたのとほぼ同時に嵐が頷いてしまう。俺は思わず「おい嵐!」と叫んだ。

「また君は……!」

「なに、ただ我慢すればいいんだろう。簡単だ。……ところで、サウナとはなんだ?」

 嵐が微笑んで首を傾げ、俺はその場に崩れ落ちた。サウナットウも「え、サウナをご存知でない……?」と不安げな声を漏らす。そりゃそうだ。今の時代、サウナだサウナだってやたら騒がれているっていうのに……ああ、なんで嵐ってこんなに無知なのに無鉄砲なのだろう。

「とにかく、お前に勝てばいいって話なんだよな? 乗ってやるからとっとと案内しろ」

 俺とサウナットウの困惑を無視して、ズカズカと嵐が銭湯に入っていく。サウナットウが我に帰り「あ、お前! ちゃんと靴を脱がんかぁ!」と騒ぎながらのそのそと銭湯の中に入っていく。お供のレスラー達もそれに続く。残されたのは俺だけだ。

「はあ~~~! もうどうにでもなれ!」

 一人ぼやいて、俺は銭湯の中に乗り込んだ。


 ***


 銭湯の中に入ると、カウンターにお婆さんが一人座っていた。俺は慌ててお婆さんに「ご無事ですか!」と駆け寄る。お婆さんは少し怖がったような顔で頷いたが、見た所怪我などはなさそうだった。俺はすぐにお婆さんを安全な外へと逃がし、男湯の暖簾をくぐる。

 男湯の脱衣所には嵐やサウナットウの姿はなかった。どうやらもう風呂場の方に行ってしまったらしい。

 嵐が心配になって、俺はすぐに着ていた服を脱衣所に置かれたロッカーの中に押し込んで風呂場へと向かった。

 浴場の中は当たり前だがとても広く、風呂の壁には大きく優美な富士山が描かれている。まさに古き良き銭湯の雰囲気だ。こんな状況じゃなければ、もっとゆっくりこの銭湯にいたいと思うのになあ。って、それよりも嵐を探さなければ。

「嵐! どこにい……」

 嵐を呼ぼうとして洗い場を覗き込んだ。すると、そこでは……何故か嵐がサウナットウの手下に身体を洗われていた。酷い絵面だ。なにしてるんだこいつら。

「神聖なサウナに入る前にはまず身体を清めなければならぬからな! 汚れを払って風呂に浸かり、ベストなコンディションで戦いをはじめるのだぞぅ!」

 サウナットウが嵐達の後ろ手腕を組みながらそんな事を言っている。どこで礼儀を発揮しているんだよと思っていると、突然後ろから忍び寄ってきたサウナットウの手下に羽交い締めにされる。

「うわっ、なにするんだ!」

「お前もだ! 身体を清めてもらうぞぅ! 手下ども、入念にそこの奴らをぴかぴかにしておけ!」

 サウナットウがビシッと俺を指さす。ウ、ウワーッ! 嫌だ! こんなむさくるしい男どもに身体を洗われるとかどんな拷問だ! せめて美女が良かった!

 俺の心の叫びも必死の抵抗も空しく、俺はむさくるしい色黒のレスラー達に身体を隅々まで洗われた。こんな屈辱ってないだろ。

「もうお婿にいけん……」

 熱さの丁度いい風呂に浸かりながらそう呻く。嵐は俺が何でショックを受けてるのかわからないみたいな顔をしていた。嵐は何でこんなに平気な顔をしているんだ? しかも首にチョーカーつけたまま風呂に入るんだな。

「風呂、思ったより小さい」

「……君はどんだけデカい風呂を想像してたんだ」

 嵐の神妙な口ぶりに思わず突っ込む。嵐の頭の中ってどうなってるんだろうか……。まさか、東京ドームくらいの風呂を想像していたりして。そんなわけないか。

 嵐の何かを考えているような顔を見ていると、再びサウナットウが俺達の前に現れる。

「ネバーッ! もう身体も十分ほぐれた頃だろう。戦いを始めるぞぅ!」

「……望むところだ」

 嵐が立ち上がり、湯船が波立つ。「ついてこい」とサウナットウが歩き出した後ろを、嵐が警戒する事もなくついていく。俺も風呂から上がりついていくことにした。

 サウナットウに案内されたサウナ室に入ると、途端にムワッと湿度の高い熱気が身体中を包みこんだ。階段状になった部屋の下段にどっかりとサウナットウが座る。俺は嵐が「上に座りたい」と言うので二人で上段に座った。続いて、手下のレスラー達も続々と入って来て……気づいたら、サウナ室がパンパンになった。満員電車かここは。

「ネババッ! 戦いは始まった! サウナ対決、開幕ネバーッ!」

 レスラー達がウオオ! と叫ぶ。ああ、むさくるしい。むさくるしすぎる。もうクラクラしてきたんだが。

「サウナ、存分に楽しませてもらうぜ」

 嵐が嬉々とした笑みを浮かべる。まるでアトラクションに乗る様な子供の顔だが……はたして本当に嵐は耐えられるのか。俺は正直もう帰りたいのだが、この銭湯を守るためには仕方ないと覚悟を決めた。

 誰も彼もが黙り込んで、時間がゆっくりと進んでいく。じわじわと熱と湿気が放出される部屋は想像以上に暑い。あと、たまにレスラー達と肩がぶつかるのが地味に不快だし、サウナットウの身体から臭い立つ納豆の生臭さが部屋に充満していてかなり地獄だ。早く時間よ過ぎてくれ。

 俺はちらりと嵐の方を見た。嵐は汗を流しながらも平然とした顔で腕を組んで耐えている。もしかして、嵐って意外に我慢強いタイプなのか? まあ嵐って神経図太そうだし、この地獄も耐え抜けるのかもしれない。

 俺が嵐の方を見ていると、嵐がふいにこちらを向いた。ちょっと驚いていると、嵐が言った。

「三代木、これに勝ったらコーヒー牛乳とやらを飲もう」

 ふ、とシニカルな微笑みを浮かべる嵐。俺は「……そうだな」と笑い返した。この戦いに勝った後のコーヒー牛乳は、美味そうだ。

 ……そうしてどれくらい時間が経ったか。あれからかなりの時間が経ったと思うが、サウナットウは耐えている。レスラー達も、誰も部屋から出る者はいない。こいつら、なんて忍耐力なんだ。

 俺はと言えば、限界が近くなっていた。喉は乾いているし、頭もくらくらする。でも、俺が倒れたらまずいだろうと膝に爪を立てて何とか意識を保つ。だが、納豆臭い空気が苦しくて息が荒くなっているのを我慢することは出来なかった。

「ネババ、もう我慢の限界か?」

 俺の息遣いに気づいたサウナットウが振り返る。俺は「な、なんのこれしき……」と意地を張るが、意識が遠くなりかけていた。せめて納豆の匂いさえなければ……。

 俺が身体を傾かせた時、隣にいた嵐が急に立ち上がった。どうしたんだ、と重い頭を動かして嵐を見上げると、嵐はそっと首についたチョーカーに手を当てた。

「アルケマイズ、ガデン」

 嵐の身体を、黒いリボンが包んでいく。その身体が鮮やかなマゼンタになるのをぼーっとした頭で眺めていると、驚飆のガデンとなった嵐が言った。

「もう我慢の限界だ。決着をつけてやる」

 言いながら、ガデンが上段から飛び上がり……サウナットウに殴りかかった。

「ネババーッ!」

 サウナットウの叫びと共に、ざわついたレスラー達が立ち上がる。そして、ついに狭い個室で乱闘が始まった。こんな狭い個室で暴れるなと叫びたかったが、俺にはもうそんな元気もない。

 薄れゆく意識の中でガデンがむさくるしいレスラーを次々と殴り倒し、華麗に舞うのが見えた。それはまるで灼熱の荒野を飛び回る蝶であり、納豆臭い砂漠に咲く一輪の気高い花のようで……いや、俺はもうおかしくなってしまっているんだなあ……。

「三代木」

 ブラックアウトしかかった意識が、嵐の声で引き戻される。重い瞼をゆっくりと押し上げると、そこにはガデンが立っていた。身体中納豆まみれになった、マゼンタのヒーローが。

「……倒したのか?」

「ああ。サウナットウの奴は俺が倒してやった。だから、ここから出るぞ」

 ガデンが手を伸ばす。とてもかっこいいヒーローだが、手の平が納豆のせいでねばねばしている。すごく、糸を引いている。

 ちょっと今のガデンには触りたくなかったので、俺は自力で身体を起こしてふらふらと出口に向かった。が、床のぬめぬめの納豆に滑って転びそうになる。それをガデンがすかさず支えてくれた。なんてスマートなんだと感心したが……ガデンの肩に支えられた瞬間、ぬちゃりと身体に納豆のネバネバがひっついた。

「……なあガデンよ。そのスーツって、上からシャワーを浴びせることは出来るのか?」

 俺が尋ねると「出来なくもない」と答えるガデン。

 俺はその答えを聞き、ふらつく身体に鞭打って速攻ガデンを洗い場のシャワーで洗い倒したのだった。

 ガデンを洗い倒した後。風呂場を出て軽く服を羽織ると、ふっと糸が切れたみたいに脱衣所の長椅子にうつ伏せで倒れ込んでしまった。どっと疲れが出たのだ。結局ガデンが力にものを言わせて何とかしてくれたが、あのままサウナ対決を続けていたら……どうなっていたことやら。乱闘が起きて、よかったのかもしれない。

 これでサウナットウの魔の手から、この銭湯は守れた。きっとこれからたくさんの人がまたこの銭湯に通い始める事だろう。これで、一安心……と俺は目を閉じた途端。ピタリと頬に冷たいものが当たった。

「つめた……」

 目を開けると、いつのまにかガデンの装甲を解いていつもの服に着替えた嵐が俺の顔を覗き込んでいた。その両手には、瓶のコーヒー牛乳。

「さっき貰った。助けてくれたお礼だと」

 嵐が長椅子の少し空いたスペースに一つコーヒー牛乳の瓶を置く。嵐の言うお礼というのは、もしかして銭湯のお婆さんからか? あれから逃げていなかったのか、はたまた戻ってきたのか。どっちかはわからないが、とりあえずお婆さんはあの後も無事だったのに安心した。

 どす。俺がほっとしていると、突然尻に重い何かがのしかかる。……何が乗っかってきたかは、何となくわかった。

「……おい、嵐。俺の尻は椅子じゃないんだが?」

「ふむ、座り心地は……まあまあだな」

 人の話、全く聞いてない。俺が振り向くと、嵐は俺の尻の上で足を組み、悠々自適にコーヒー牛乳を飲んでいる。傍若無人過ぎだ。

「うまい」

 コーヒー牛乳を飲んだ嵐が、にんまりと笑う。本当に幸せそうな顔に、何だか何も言えなくなる。謎に包まれている嵐の、素顔を垣間見たような感じがした。

「……俺の分も飲んでいいぞ」

「ほんとか?」

 俺の言葉に、ぱっと嵐がこちらを向く。いつも何にも興味がなさ気な嵐の目が、子供の様にきらきらと輝いている。そんな顔されてしまったら、コーヒー牛乳を差し出さずにはいられないだろう。それに、サウナットウを倒したのは嵐だからな。

 それから嵐が二本目のコーヒー牛乳を飲み終える頃、ようやっと動く気力が湧いてきた俺は、身なりを整えて銭湯を出た。

 銭湯を出る直前、銭湯の経営者のお婆さんにお礼を言われたけれど俺は特に何もしていない。事件を解決したのは、俺の隣にいる嵐だ。嵐は「大したことはしていない」と言ってすぐに出て行ってしまったが、お礼を言われて少し嬉しそうだった。

 玄関から道路に出ると、気づけばもう外は暗くなり始めていた。

「そういえば嵐、君の家はどこなんだ」

 ふと気になって聞いてみると、嵐は俺の顔をじっと見つめてから小さく笑う。

「丁度いい場所があった。」

 丁度いい場所があった……って、何か引っかかる言い方だな。と思っているうちに、嵐が踵を返して歩いていく。どこに行くんだ、という俺の声も聞かずに嵐はそのまま歩いていってしまった。なんとも、勝手なやつである。

「……アッ! というか、自転車……」

 二人乗り自転車、あの男め置いていきやがった。俺が一人で漕げっていうのか。この二人乗り自転車を……。

「……はあ。まあ、もう仕方ないか」

 俺はそれ以上考えるのをやめて、疲労を感じる体に鞭打って自転車を漕ぎ始める。一人で二人乗り自転車を漕ぐのは結構大変で、家につく頃にはヘトヘトだった。

なんとか最後の気力を振り絞り、築30年ほどのアパートの錆びた階段を登って部屋へ辿り着くと、ぷつりと糸が切れたみたいに畳の床に倒れ込んで眠ってしまう。

 夢の中では、驚飆のガデンが鮮やかに舞い踊る姿があった。かっこよくて、眩しいくらいにキラキラしていて、すごく強くて……俺を助けてくれるヒーローの姿。 気づけば膝をついていた俺の前に現れたガデンが、手を伸ばす。その手を俺は嬉しくなってつかんだ……瞬間。

 ぬちゃりという感触に違和感を感じ顔を上げると……そこにはガデンではなく納豆の怪物、サウナットウの姿が!

「うわあーッ!!」

 叫びながら飛び起きた。はあはあと荒い息を吐いて、なんとか跳ね上がった心臓を元に戻そうとする。着っぱなしのワイシャツが汗で肌にくっついてきて気持ちが悪い。なんて悪夢だ!

「おい、大丈夫か三代木」

「……あ、う、ああ……大丈夫、だ」

「いきなり大声あげるからびっくりしたぜ。何か悪い夢でも見たのか」

「いや、別になんでも……って、え?」

 何気なく会話していたが、なんか……一人多くないか? この部屋には俺一人だけのはずなんだが。俺は声のした方をゆっくりと振り返る。

「……君、なんでここにいるんだ?」

 そこには何故か、ついさっき別れた筈の嵐がいた。

「ドアが開いていた。まったく、不用心だぞ三代木。俺がいなきゃ泥棒の一つにでも入られていたところだったぜ」

 いや、こっちからしたら君も泥棒みたいなもんなんですけど。不法侵入なんですけど。

 俺の凝視もモノともせず、嵐は……俺の買って取って置いたプリンを食べている。最後の一個だったのに! とかもはや叫ぶ気力もない。色々言いたいことがあるのに、言葉が出てこないのである。

「そうだ、言い忘れていたが、今日から少しこの狭い家で世話になる。これからよろしくな、三代木」

 傍若無人の極みみたいな嵐の微笑み。堂々としていて、未知の事に嬉々としているような子供の笑みだ。そんな笑い方されたら……もう何も言えないだろう。

「……勝手にしてくれ」

 言いたいことは、明日全部言ってやる。今日はやかましく説教する元気がない。

 楽し気にプリンを頬張る嵐を横目に、俺は倒れ込むようにして再び折りたたまれた布団に身体を沈み込ませた。

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