第五章 紅楼春雪抄 8

 楽師スキエルニエビツェはその時バルコニーに出て調弦をしていた。暖炉のきいた部屋の中よりも冷たい空気の中の方が音が澄んでわかりやすいからだ。いつもより少し厚着をして雪の下(表白・裏紅梅)を纏い、時折冷たいそよ風を感じながら探るように音を奏でていた。

 何気なく首をめぐらして見たものは―――――連れ立って紅楼に向かう兄弟。

「―――――」

 なんという悲しそうな背中。二人とも―――……この先何が起こるのかを知っている。知っていて、逃れられないたった一つの運命と対峙しようとしている。

「……」

 スキエルニエビツェは何も見なかったかのように、またリュートの音を探り始めた。

「―――――……・兄上……俺は葵剣を出る」

 何の前置きもなしに、ライクは突然言った。

 紅楼の最上階に登り、二人して沈黙したまま砂漠を見渡し風に吹かれること一呼吸、二呼吸……・長い沈黙はライクの方から破られた。

 その言葉は何気ないようでいてひどく重大な意味を持っていた。

 王位継承権を持つ者が自らの意志で国を出る―――即ち出奔するという事は、謀反を意味している。

 無論全てを捨てて旅に出たい継承権のすべてを捨て自由になるというのならば別だが、残念ながらそういったことは彼の口から出てこなかったし、状況から推してみてもライク

がそんなことをするはずがなかった。

 ホ……ロ……ン……

 そよ風のようにどこからか楽の音が聞こえてくる。



       寒蝉 凄切たり   

        (秋蝉が悲しく鳴く)

       

       長亭の晩

        (駅亭の夕暮れ、)

    

       驟雨の初めて歇むに対す

    (驟雨は今あがったばかり)



「……ライク……」

 痛切な声でレグノテックは言った。ライク、ライク。幼い頃から何度、こうして弟の名前を呼んできただろうか。そしてその幼い頃には、こんなことは予想もしなかった、こんな思いでお前の名前を呼ぶことになろうとは。

 ライクは欄干に歩み寄りじっと砂漠を見つめた。

 その瞳……・怒りに燃えもせず、憎しみを孕んでもいない。純粋で無垢な光、痛いまでに愛するものを見る目だ。

「…………」

 レグノテックは絶句した。

 この瞳―――――。

 この瞳こそが真のライグゥアラック、王弟でもなく王でもなく、ただ毎日を笑い合って過ごした時のライクの瞳。真実の彼。



       都門に帳飲すれば 緒無し

    (町の出口で別れの宴を張っても気はそぞろ、)

   留恋足る処 蘭舟発するを催す

        (うしろ髪ひかれる思いに、舟は出発をうながす)



「……・私にも責任があるのだ」

「兄上……・」

 眉を寄せレグノテックは低い声で言う。

「お前を周囲から庇いきることができなかった。……いや、庇うのではない、もっとライクを見てくれ、私と比べないでくれ、ライクはライクなのだから、と……・」

「―――――」

「言っても無駄だったかもしれない、しかし言わないよりはましだ。私はお前を見捨てたのだ」

「兄上……・・」

 ライクの悲痛なつぶやきが、遠くで低く唸った風に今にも消えそうだ。



       手を執りて涙眼を相看れば

        (手を取り合い、涙にうるむ目を見つめあい、)

 境に語無くして凝咽す

        (ついに言葉にならず、むせぶだけ)



「お前が自身の苦しみによって奈落の苦痛を味わっているとしたらそれは……・私のせいなのだ。私がいたからお前の苦しみがあった」

「……それは違う兄上」

 レグノテックは振り返った。弟を見ると、今まで見たこともないような強い瞳で、自分を見ている。それは怒っているようにも見え、そしてひどく美しかった。

「あなたに非はない。……結局……・・我々を取り巻く環境はそれほど劣悪だったということ。そんな劣悪なものに俺はずっと固執し、拘り続けてきた。あんなものに捉われたくない、あんなもの、あんなもの……・そう思い続けて、思いながらも気付いてほしかったのだ。兄上のせいだとかそんなことは関係ない。連中の器と人格に問題があっただけ」

「ライク……」



       去り去く 千里の煙波を念えば

    (行くての千里の霞める波を思えば、)

       暮靄沈沈として 楚天開し

        (夕もやが立ちこめて、楚国の空は広がる)

    

       多情古より離別を傷む

    (情け知る者は、昔から別れに胸を痛めてきた)

   更に那ぞ堪えん 冷落たる清秋の節に 

        (ましてや万物が凋落するうらさびしい秋には、

                      (どうして堪えることができようか)



「そうやって耐えてきた。……・・所詮運命だと。ずっとずっと言い聞かせてきた」

「―――――お前が次男でなければ、さぞかし良い王になっていただろう」

「父上は相当俺が憎かったに違いない。養子にも出してくれなかったのだから」

 いや―――――……・そうではない。父は最後までライクの実力を認めようとしなかったのだ。兄と比べれば大したことのない息子、外に出してはこの身の恥と思っていたのだ。今更ながらレグノテックは父を憎み恨んだ。不孝はよくないというが、良くない親を誹謗することは不孝だろうか。そのせいでこの世で唯一の愛する兄弟と敵対する羽目になったとしても。今も昔も、レグノテックにとって一番大切な人間は父でも母でもなくライクだった。王でありながら身内に対しての公平さを欠き、一人の人間を一個のものとして見られなかった父母は、最早尊敬にも値しない。



       今宵 酒醒むるは何れの処ぞ

    (今宵、この酒が醒めるのはどこであろうか)

   楊柳の岸 暁風残月

        (柳の岸べで暁の風に吹かれつつ、

                   残月を見ているときであろうか)



 せめてライクが参謀に向いた才能を持っていれば、この兄弟はどれだけ救われたことだろうか。逆でもいい、どちらかが主となり片方が補助となることができれば、すべてがうまくいったというのに、天はなにゆえこのような悲劇を二人に与えたのであろうか。雌雄を決しなければ終わりは永遠にこないという運命を。

 ライクは、兄ほどではないが常人の十倍もの能力と才能を持ち合わせている。

 不運―――――。

 この一言で済ませてしまうのには、あまりにも悲しすぎた。

 だから―――だからライクは決意した。

 二十八年間―――――二十八年! ―――――我慢に我慢を重ね、ひたすら兄に対する愛だけで耐えてきた。しかしもう限界。

 自分の人生は、自分のためにあると囁いてくれた者がいた。王になりたければなればいい、それだけの才能があって、継承権もあって、王になる主張をしたとして一体誰が責めることができようか。

 今までの逆境に耐えた分だけ―――――……・あなたは残りの余生を自分のために過ごすべきだ。

「兄上……・俺は、……・俺は葵剣を出ていく。あなたを今でも愛している。それはきっと一生変わらないことなんだ。それでも俺は出ていく。……・誰かに対する愛情だけで不遇な余生を送るほど、俺の幼少時代は恵まれてはいなかった。すべては運命だ」



       此より去りて年を経なば

     (ここを去って年がたてば、)

       応にの是れ良辰好景も虚し設くべし

(どんな良い日の好い景色も、

                私にとっては無きに等しい)



「ライク」

「兄上のせいじゃない。最初から決まっていた運命だ。俺はそれを受けいれる」

「どうしてもだめなのか ライク…………」

 悲痛な叫びにも似た兄の絞りだすような声。ライクは悲しみに眉を寄せた。

「兄上……一度私と生涯を交換してみればわかる。この虚しさが……・・」

 ―――『私』。

 もう一度欄干にもたれかかり、ライクは氷のような寂しい瞳で砂漠を見渡した。

 その顔が一瞬形容しがたい苦しみと悲しみに歪んだ。

「―――――……・いや―――……・あなたなら私と同じ事はすまい……葵剣開闢以来の賢王と言われたあなたなら……―――――」

「……―――――……」

 レグノテックは欄干に置いた手をぎゅっと握り締めた。白くなるほど、筋が浮かび上がってもなお。

 すべては我が身が在ることゆえの―――弟の苦悩。誰がなんと言おうと、確かに周囲の環境が悪かったことも認めはするが、しかし自分に何の罪もないといったら確実に嘘になる。ライクをここまで追いやったのは―――――私だ。



       便ち鏦い千種の風情有りとも

    (たとい千種の風情があろうとも、)

   更に何人とかたらんや

        (誰に向かって言うことができよう)



 打ち拉がれたレグノテックを残し、ライクは静かに紅楼の階段を降り、砂を踏んで戻っていった。そしてもう二度と、城には戻っては来るまい。その日があるとしたら謀反人として首だけとなって帰るか、新しき王となって入城するか、いずれかだ。

 ホロォン……・

 寒空の下、いつまでも動くことのできない国王を包み込むかのように、リュートの音はいつまでも砂の地に響き渡っていた。



 桔十年--------。

 この年の冬、王弟ライグゥアラック・ザファイオンは謀反を宣言しすべての支度を整えて四月、葵剣領地を出ていった。その間彼の住まいである離宮は厳重警備がなされ、国王の兵士は近寄ることもできなかったという。また国王は早い内に城内及び領内での叛乱軍との衝突を厳禁し民への安全を第一に訴えた。国内はいっぺんに慌ただしくなり、あちこちの境界は厳戒体勢を取り始めた。国の中に傭兵らしき男たちが溢れ、女たちは滅多に表を歩かなくなった。

「それでは陛下……本気で王弟殿下と----……」

「しかし……」

「もう一度考え直されては」

「そうです。兄弟が王の座を取り合い骨肉相食むとは」

「よく考えてのことなのだ」

 苦しい、絞りだすような国王の声。

「…………」

「…………」

 室内はハッとして静まり返る。多くは顔を見合わせ憂え合った。

「二人でよく話し合った。それでもだめだったのだ。ライクは出ていった。はっきりと私に敵対するということを宣言して。あれだけ話し合っても無駄で、こうして断腸の思いで…………王弟討伐の命令を下す私の気持ちのどこに---------浅薄な考えがあると?」

「----------」

「----------」

「諸賢…………わかってほしい」

 苦しげに言うと、国王は出ていってしまった。こんなに打ち拉がれた国王の背中を見るのは、誰もが初めてであったという。

「……・そういえばレイトロン大臣は?」

 誰かの言葉に、同席していたオライオスは冷静に答えた。

「数日前から姿が見えません。数日前というのは正確には王弟殿下が出ていかれてからです」

「!……それでは」

「レイトロン……・!」

「忠義面をして……・・」

 騒ぎたてる者たちを尻目に、オライオスは一人腕を組んで国王の悲しみを思った。

 相手は普通の人間ではない、なんといってもライグゥアラック、我が弟。知略に長け勇ましく人をひきつける我が-----弟。今は敵対する-----……弟。お互い知恵と技を力の限り使って戦わなければ、敗ける。

 ライク、敗けるわけにはいかないのだ。私の肩には何百何千万という人間の運命がかかっている。お前を信用しないわけではないが私は王なのだ--------……謀反人は区別なく処罰しなければならない。

 ―――――なんという苦しみか!

 戦士として男として、己れの知略の限りを尽くして戦うのがよりにもよってたった一人の弟とは!

 今より朝も夕もなく作戦を考え兵を動かし、自ら剣を片手に戦場を駆り、自分は戦うのだ------弟の首を取るためだけに! 

 私は憎い--------……王という立場に縛られている我が身が憎い。

 弟をあそこまで追い詰めた自分という存在が------憎い……。



 砂丘の上から、今日まで育ってきた城の影を見つめライクは一人たたずんでいた。彼を慕い彼についてきてくれた者たちを先に行かせ、彼はそこに立ち尽くしている。

「…………」

 不思議なものだ----あれだけ苦々しい思いをし、苦渋の思い出しかない場所だというのに、今別れを告げようという時に致ると、胸から込み上げる惜別の念が抑えられない。

 今日よりこの城にも別れを告げる-----。

 ヒュウ……

 風が立ち尽くす彼を促すようにそよかに吹き、足元の砂を巻き上げた。

 そしてライクは歩き出した------度だけ、肩越しに振り返ってその影を瞼に焼き付け。

 ヒュ……ウ…………





     さようなら兄上


        さようなら……義姉上

 六月になって一度目の決戦が行なわれた。

 その時の国王レグノテックの悲痛な眼差し……人々も兵士たちも胸を強く衝かれた。

 ああ天は、なぜにこのような悲しい真似をされるのか。

 しかしこの戦いを期に、レグノテックは吹っ切れたかのようだった。瞳に光が戻り、今や後悔したところで、自分の運命を悲観し自分の存在を呪ったところで、時間は戻らず事

実も変わらないとでも言いたげな態度で、実に国王然としていた。

 今更もうどうにもならない。今自分がやらなくてはならないこと、それは運命と対峙すること。そして守るべき者たちを守り、真を貫くこと。弟であれ、悪は悪、罪は罪なのだ。ならば王として生まれる宿命にあった以上は、私を殺し徹底しなければならない。辛いがこれもまた定め。

「-----……--

 それでも戦いから帰ってきて苦痛の念を拭いきれない夫を見兼ね、王妃タジェンナはそっと近寄って寄り添った。

「……・タジェンナ……・・」

「陛下……わたくしは貴方の妻でございます。望み望まれて夫婦になった者に、どうして遠慮がありましょう。貴方の苦しみはわたくしの苦しみ……。せめてわたくしと二人きりの時は、お心をお開きになってくださいませ

「-----------

 肩に置かれた手の暖かさ……悲しみと苦しみで冷え切った体に、そこから熱が入り込むようだ。

 ああ自分はまだ……救いが残されている。それは彼女一人ではなく、もっと大勢なのだ。その者たちのためにも、自分は戦わなくては。

 いつのまにかタジェンナを抱き締め、レグノテックは痛感していた。

 もう迷わないと。



 春が過ぎ夏が来て、戦は日に日に激化していった。あちこちの廊下を兵士が慌ただしく行き来し、侍女女官たちは悲しい戦いに人知れず涙した。将軍たちは休みなく働き、大臣たちは政治の補佐に撤した。国王レグノテックは戦いに出ては鎧を脱いで会議に参加し、そのすぐ後に軍議に出ては、また剣を取り戦場に向かうという激務をこなしていた。相手が相手だけに髪の毛一筋ほどの油断も許されなかった。王妃タジェンナは愛する夫の負担を少しでも軽くするために、書類の作成や執政に関わる長老大臣たちとの会議に参加し、正式な国王代理として政治に参加していた。

 国民は兄弟の悲しい戦いを憂い、しかしここまで踏み切った国王のその潔さに痛み入って、夜八時以降の外出の禁止を自ずから決定し、自警団を結成して街中の警備に乗り出した。少しでも多くの兵士が警備に数を割かれないようにとの配慮である。

 文字通り国が一体となって戦を繰り広げていた。

 負けられなかった。負けてしまっては、断腸の思いで弟を謀反人として討伐する決心をした国王が気の毒すぎる。人も街も、今や糸玉のように一個のものとなっていた。

 スキエルニエビツェはそんな中居場所を無くしかけていた。

 もともと人の心が平和だからこそできる商売、こんな時にでも国王や王妃の心を慰めてあげたいが、残念ながら彼らにそんな時間はない。もし歌を聞かせる時が来たとしたら、それは彼らが戦に勝ち、全ての苦しみから解放された時だろう。スキエルニエビツェは誰かに殺伐とした空気の中誰かの心を休ませてあげたい気持ちにとらわれたが、それも迷惑と思い、聞こうと思わずとも聞くことのできる場所で歌うことにした。あそこなら誰でも別け隔てなく耳にすることができる上、何の作業も邪魔することにはならない。

 スキエルニエビツェは砂を踏みしめ紅楼に向かった。

「……・」

 ホロォォォォンンン……・・

  ロォン……

 暑く、うだるような砂漠の午後―――突如泉の底の水草のような涼しげな音が響く。

 ポロン……・

  ホロン……・



       幽蘭の露

       啼眼の如し

   物の同心を結ぶべきなく

       煙花は剪るに堪えず

       草は茵の如く

       松は蓋の如し

       風を裳と為し

       水を珮と為す

       油壁の車

       夕べに相待つ

       光彩を労す

       西陵の下

       風 雨を吹く


   

 ホロォォ……ン……・

  ロ……ン……

「ほらお城の楽師様だよ」

「いい声だねえ」

 城下の者たちは暑い夏の夕方、涼しい声と涼しい音色に一時泉のほとりにいる気分を味わった。城内の者たちは、会議中の者軍議の最中の者、実戦の訓練途中の者さまざまだったが、誰一人洩れることなくこの声を聞いた。手を止め顔を上げ、しばし声を休めてその声に聞き入る。そしてまた、何事もなかったようにそれぞれの作業を再開する。しかし確実に穏やかに休まった心を共に。


「……」

 スキエルニエビツェは欄干から日暮れを見て、一人いつまでも物思いに耽っていた。



 長い夏が終わり、葵剣に十月の涼しい風がやってきた頃、スキエルニエビツェはオライオスと何度目かの夜を重ねた。彼は戦場から帰ってきたばかりで、つい三日前戦地から戻

ってきたばかりだ。報告を済ませ兵士に休養を言い渡してから、すぐにスキエルニエビツェに手紙を寄越してきた。すぐに会いたいと。しばらく話をし、酒を酌み交わし、スキエルニエビツェの膝で眠りその歌声で疲れをほぐし、戦士からただ一人の男へと戻ったオライオスは彼女を抱いた。死が横行する戦場から帰ってきて、まるで暖かい命そのものを求めるかのように、彼はスキエルニエビツェを求めた。bk

 この状況で、オライオスの寝顔を見て相当な疲れを看取ったスキエルニエビツェは、しばらく共にいようと思った。将軍一人ひとりの休みなど無いにも等しいほど短い。そんな短い休みを誰もが貪るようにとっている中、オライオスは一人一切の休暇をとることなく戦に臨んでいた。それは、あたかも自分が休まずに戦った分だけ、この辛く悲しい戦を早く終わらせようとしているようにも見え、実際オライオスはそのつもりだった。それに鋭く気づいた国王が、最初は聞こうとしなかったオライオスにかなりきつく言って休暇を与えたのである。この戦は、長くなる。

 その間、彼が望むだけ側にいて笑いかけ、話を聞き時に異国の話を話して聞かせ、膝を貸し風に吹かれ歌を聞かせてその心を休ませたい。オライオスとスキエルニエビツェは一ヵ月の間共に側にいた。

 そして本格的に冷たい風が感じられるようになった十一月……・スキエルニエビツェを抱いた後、オライオスは腕の中の彼女にそっと切りだした。

「俺は来月発たねばならん…………お前と話すのもこれが最後だ」

 腕の中で、スキエルニエビツェは何も言わない。その逞しい胸の鼓動を、愛しいものでも聞くかのように聞き入っている。

「戦いは益々激しくなる……巻き込まれない内にこの国を出た方がいい」

 スキエルニエビツェは答えず、するりと寝台から抜け出して下着姿のまま窓辺に座りリュートを弾いた。

 ポロン……

 ホロ……

  ……ン……

「―――――」

 オライオスも起き上がってその美しい影に見入る。

   大漠 天に連なりて 一片沙なり

       蒼芒何れの処にか人家を覚めん

       地に寸草無くして 泉源竭き

       隣封を隔断して 路太だ余かなり



〈 広大な砂漠が天の果てまでつづき、一面、砂ばかりである。

  このひろびろとした中、どこにも人家の影すら見当らない。

  大地にはわずかな草さえも生えず、水源は涸れはて、

  大砂漠が隣の城との間を遮断して、道はとてつもなく遠い。〉


 ンン……・・

「……・」

 目を伏せがちにして聞いていたオライオスだったが、顔を上げてスキエルニエビツェを見ると、

「……来いよ」

 と言った。スキエルニエビツェは立ち上がり、大きく腕を広げて自分を待つオライオスの胸のなかに入っていった。

 自分にできることなど、今はほとんど無いに等しい……・オライオスを抱き締め抱き締められながらスキエルニエビツェはそれを痛いほど感じていた。



 翌月十二月、オライオスは戦地へと出向いていった。一度だけ振り返り、大きくスキエルニエビツェに手を振っただけの別れであった。

 翌年―――――戦は益々激化し、スキエルニエビツェはオライオスの言葉通り暇乞いを決意した。国王と王妃に挨拶を済ませ、報酬を受け取り、身仕度を整えてスキエルニエビツェはあることを思い出し、しばらく留まって何事かを書簡に書き連ねていた。そしてそれを伝達兵に託すと、通常以上の礼金を彼に渡した。

 スキエルニエビツェは少ない荷物をまとめ、リュートを抱え、少し考えて最後の名残に紅楼へと向かった。


「なに手紙?」

 オライオスは戦場でそれを受け取った。差出人の名は、彼女だ。封を切る手ももどかしく、がさがさと音をたててオライオスは手紙を開いた。

『 オライオス様

  貴方がこの手紙をお読みになる頃、わたくしは葵剣から離れているかと存じます。   貴方のおっしゃる通り、もうわたくしの居場所は、葵剣にはないかと思い、離れる決  意を致しました』

 曇った空を見上げ……スキエルニエビツェはリュートを奏でる。



       春寒を衝破して暁に城を出れば

       東風 剪剪として衣を弄して軽し

       漫山 匝水 二十里

       尽日 梅花 香裏に行く



「……・」

『 どうか御武運を……葵剣はわたくしが貴方に話して聞かせた下さったどの異国より  も素晴らしい国でした。いつの日かまた訪れた日に……貴方にお会いできる日を待  ち焦がれております。

  いつかまた、貴方に必ずお会いできますように

                   スキエルニエビツェ 』

 オライオスは自嘲するようにふっと笑った。

 オライオス将軍? 訝しげに近くにいた側近が声をかける。

 ―――大した女だ。

 手紙を握り締めてオライオスは思った。さすが俺の葛の花。

 ―――これでは死んでも死にきれない……いや、俺は絶対に死なん

 ―――――あの女に会うまで……勝ってあいつが再び砂漠に戻ってくるまで

 ―――俺は死なない―――――…………。



 冬の曇り空は鉛色で、まるで今の葵剣を象徴しているかのようだ。どんよりと曇ったその空を、白い息を吐きながらスキエルニエビツェはしばらく見上げていたが、やがて再びリュートを取り出して爪弾いた。

 ピィン……


   ポロ……ン…………



       眼に見る 風来たりて沙旋移するを

       終年看ず 草生ずる時

       言う莫かれ塞北 春の到る無しと

       総い春の来る有るも 何れの処にか知らん



「――――――――」

 一瞬その顔が、悲痛なものに歪んだ。しかし一瞬、本当に一瞬だけ。

 別の弦に指を這わせ―――……スキエルニエビツェはもう一度リュートを奏でた。

 ポロ……ン……



      春度ぎ春帰り限り無き春 

    今朝方に始めて人と成るを覚ゆ

      今より克己し応に猶お及ぶべし

      願と梅花と具に自ら新た


 璇-------七星で唯一赤く光りし星、読んで字のごとく璇は光と奔放、公正と裁定を司る星なり。太古の昔人はこの星の下に集いて裁きを行い、何者かその言葉に偽りありし 時、一条の光璇より伸び来たりてその者を焼き尽くし死に致らしめし逸話著名なり。その伝説に拠り、迷宮 入りの裁きはこの星の下にて行われると伝ふ。実にこの星の下に於いて偽るなかれ世の男はこれを教訓とせよ。





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