第五章 紅楼春雪抄 7

 十一月になった。オライオスは十一月のみの戦へと出立し、国中がざわめくほどの功績を挙げて帰ってきた。元々十一月のみに戦の行なわれるその場所は、激戦区としては近辺

で知らぬ者がいないほど有名な場所で、さしものオライオス将軍も、まあ彼のことだから死にはしないだろうが、生きて帰ってくるのが精一杯で、功績など挙げる余裕はなかろうよ、誰もがそう言っていた矢先であった。

 彼が挙げた功績は、激戦区ではなく普通の他国での戦争の功績としても目を見張るものがあった。

 まず敵側大将三人の首。敵側には常時複数の大将ないし将軍がいて、数が多いがためにこの地区の戦はとどまるところを知らないのだという。七人の大将の内三人を討ち取ったというのなら、当然それを予期していなかった敵は色めき立ち焦燥を見せた。三人いなくなった分の埋め合わせは突然だっただけに困難なものであったに違いない。オライオスはそれだけでは飽き足りないかのようにさらに馬を駆り、守備の薄くなった相手の陣営に精鋭だけを連れて乗り込み、城壁を内側から壊し、味方を中に入れ、一切の掠奪も味方に許さないまま城になだれ込んで国王に投降を迫った。オライオスの一騎打ちの勝利を条件に投降を約束し、実に五人の将軍との一騎打ちをオライオスにけしかけた。その五人のどの首も、オライオスは討ち取ったのである。しかしその頃にはさすがの裁定将軍も息切れがするほど疲労しており、五人目を敗った時はぜいぜいと肩で息をしていたそうだオライオスは一人将軍を敗るたび国王や場内の敵側すべての人間に、葵剣に、オライオスに喧嘩を売ったらどうなるかということを知らしめたのだ。

 この激戦区に仮とはいえ城を造り、低いとはいえ城壁と呼べる物を持ち、大将や将 軍を常時複数置いているというのは、もう単に人を殺めて楽しんでいるとしか思えない。

 激戦区での生き残りは見返りが大きく、確かに利潤も葵剣などとは比べものにならないが、それだけ危険だということだし、利潤のほとんどは戦いに費やされてしまう。完璧な軍国主義の国であり、近辺の嫌われものだった。オライオスは、その嫌われものを排除したのである。しかも戦争につきものの掠奪を彼は一切許さなかった。後でわかったことだが命令を無視して掠奪行為を行なっていた兵士を見つけ、その場で斬って捨てたらしい。

 そして味方の兵士に言い渡した、

 命令を無視したから斬ったのではない、人間として許されぬことをしたからだ、と。

 オライオスの言うことはいちいちもっともで、このことを問題視する者とて、いなかった。

 とにかく怒涛のごとく破竹のごとくの勢い。

 さすがの国王も今度の褒賞には頭を悩ませ、月鋼以上に意味のある褒賞はあるのだろうか、かなり考えたらしいが、結局答えは出ず、仕方がないから玉座の間の褒賞授与の席でオライオスに望みは思いのまま、と言ったそうだ。これもオライオスが法外な望みをするはずがないとの彼に対する信頼と見ていい。

 しかしオライオスはもう何もいらないと言った。地位も名誉も、これ以上のものは得られない、将軍は将軍以上に昇進することはできないし、これだけ巷で功績を騒ぎたててもらえれば軍人としてこれ以上の名誉はない、よって褒美は何もいらぬ、強いて望むのなら陛下の変わらぬ信頼のみが望みですと、こう言ったのだ。

 国王も王妃も、しばらく口がきけなかったというが、やがて顔を見合わせて笑い合ってうなづき、オライオスに褒賞の約束をしたという。そして彼はこうも言った、

「……恐れながら、実は別の人間から褒美の約束があるのです。権力や財力で得られる褒美ではありません」

「ほう……それは素晴らしい。国王以外からそんなものをもらえるとは、オライオス将軍。そなたも幸せな男だ」

「おっしゃるとおりです」

 少しも気を悪くせず国王はにこにことし彼を手放しで褒めた。月鋼以上の功績を収め、思いのままの褒賞を約束したというのに、何もいらぬ、欲しいのは自分の変わらぬ信頼だ

と言われて、嬉しくない主君がいるだろうか。さらに財力や栄誉、権力では決して得られない褒美を他の者からもらう約束をしているという。なんという率直で憎めない男か。 

 人間には本当は何が必要なのかをわかっている。こんな男を部下に持つことができて、国王レグノテックは嬉しいのだ。たまらなく嬉しいのである。

 さてそんなオライオスの華々しい噂も絶えない頃、彼は廊下でスキエルニエビツェと出会った。冬らしい枯野(表黄・裏淡青)の襲を纏っている。にやりと笑い、オライオスは言う。

「どうだ?」

 スキエルニエビツェは小さく、しかし嬉しそうな笑みを浮かべて答えた。

「……驚きましたわね」

 自分の言葉を真に受けてあの奇跡に近い功績以上の功績を挙げた彼の気持ち。

「俺なりの情緒だ。わかるか?」

 くす、と笑い、スキエルニエビツェは笑顔になった。

 オライオスは眩しげに目を細めた。俺の葛の花。ようやく手に入れた。

 差し出された彼の腕に掴まり、二人で廊下を歩きながらスキエルニエビツェは答えた、

「よくわかったわ」



 ホロン……・

  ロォンンン……

 深海から突然水面に出たときのような目覚めではなく、夢現のままオライオスはふと目を覚ました。薄明りは月の光だろう。三日月の光をこんな風に見るのはどれくらいぶりだろうか。心はひどく穏やかだった。静かな、とでもいうのか、まるで春の湖の上を凪ぐ風のような気持ちだ。

 ロォンン……

 ポロ……ン……

 顔を上げると窓辺に座り、月の光を受けて浮かび上がるスキエルニエビツェの姿があった。オライオスはしばらくそれを見つめていたが、やがて上半身が裸のまま起き上がり、静かに彼女の側へ歩み寄った。スキエルニエビツェは顔を上げて微笑み、リュートを弾く手を止めぬまま彼を隣へ招じ入れた。オライオスはスキエルニエビツェの肩に手をまわしそっと呟く、

「いつ起きたんだ?」

「…………少し前かな……」

「そうか……」

 ホロン…………

  ロォン……

 オライオスは恋人にするようにその美しい頬に唇を這わせ、スキエルニエビツェは弦を押さえる方の手で彼をそっと迎える。

 ポロォォ…………

  ンン……

 ホロ……

  …………・ン……

「……不思議だな」

 スキエルニエビツェはオライオスを見た。

「お前といると落ち着く。……いやそうじゃない」

 オライオスは顎を撫でながら少し考えた。

 スキエルニエビツェはリュートを弾く手を止めじっと彼を見上げている。射干玉の瞳が月の光を受けて燦々と輝いているかのようだ。しかもその輝きは、決して太陽のような心騒ぐものではない、あの月のように静かな輝きなのだ。無垢なまでにじっと自分を見つめる瞳、その瞳を見つめて、オライオスは解答に致った。

 ―――――そうか。

 スキエルニエビツェは何も言わない。

 ―――俺がこの女に惹かれた理由……・

 ホロン……・

 瞳を閉じまたスキエルニエビツェはリュートを弾き始める。

 ―――――歩き疲れた旅人が緑洲を求めるように

 ―――俺の疲弊した心がこの女を求めたのか……・

 ホロン……

   ロォォンン……

 その美しい横顔……自分を鎮静させそして激しい愛情に燃え立たせる横顔。

 オライオスはスキエルニエビツェの唇にそっと自分のそれを重ねた。

 重なり合う影を、月の光だけが見ている。

 年が明けた。

 砂漠は桔十年を迎え、時折雪がちらつく程の寒い季節となっている。 その日国王レグノテックは中庭で一人、池の蓮の蕾を見つめていた。空はどんよりと曇っており、雪が降ることはないだろうが鉛色の雲が分厚く天を覆っている。空気は冷たく冴え渡り風はないが好んで表に出ようとは思えない。

「…………」

 なぜだろうこんな日は……ひどく心が沈むのだ。これは何の予兆なのか。

「兄上」

 張りのある声―――――レグノテックは振り向いた。

「……ライク……」

 凍りつきそうに冷たい水面に二人の姿が鏡のように映る。まるで彫像のように微動だにせず、黙って見つめ合う二人。

 ああこうして愛する兄弟の―――――瞳を凝と見つめるのは、一体どれくらいぶりなのだろう。二人はまるでこれから起こることを知っているかのように、そして知っているからこそ前に進むのが嫌で、どちらもなかなか口を開かないかのように見えた。

「……話が」

 ライクの言葉はいちいち短い。無表情を装ってはいるが、その瞳の光は暗い。

「……」

 レグノテックの顔もまた厳しい。きつく眉を寄せて弟を見、そして一瞬、悲しそうな顔となった。

「…………」

「……ここでは場所がよくない。場所を替えぬか」

「―――――紅楼か。兄上の大好きな場所だ」

 ―――なぜだライク……・こうして私が言わなくてもわかってしまう程―――――わかりあえているというのに

 二人は連れ立って紅楼へ向かった。廊下に入り、回廊を抜け、階段をいくつか経、扉をくぐって二人は一言も口をきかないまま歩いた。その間、まるで砂嵐が来る日の城下のように、誰も二人に出会わなかった。まるで二人を避けているかのようだった。

 砂を踏み……二人は沈みきった心で、鉛のような重い心で紅楼へ向かった。

 その間、一言も口をきかなかった。

 将軍オライオスは、自分の部屋から紅楼へ向かう二人の姿を見た。二人の表情から漂う切れるようなそれでいて痛いほど悲しい空気……

「…………」

 オライオスは何もなかったように、座り直して読んでいた本に目を戻した。



 王妃タジェンナは、寝室に繋がっている自室の窓からその様子を見た。一度は息を飲んで窓に張りついたが、小さいとはいえ二人の姿があまりに穏やかで、そして悲しそうな背中であったので、とうとう覚悟を決めたのか、もう一度息を飲み、悲しそうに目を閉じ首を振って窓から―――――紅楼が見えない奥まで去っていった。


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