第五章 紅楼春雪抄 6
中庭から明るい笑い声が響く。実に楽しげで、思わずなんだろうと首をめぐらしてしまうほどだ。
「なんと間の抜けた大将もいるものだな」
「それでも戦場ではそれは素晴らしい軍人だったの。ただその女官殿の前に出るともう、歩くだけで廊下の壷が落ちて窓が割れるくらい緊張しちゃうの」
「……どういう男だ」
「要するにぎくしゃくしすぎてそういう風になってしまうのね」
「……気の毒に」
オライオスは言って、そしてスキエルニエビツェに言われた大将の姿を想像して、またひとしきり笑った。
「オライオス将軍」
はた、と、オライオスの顔から笑顔が消えた。後ろを向いた彼の顔が一瞬痛烈な皮肉に歪んだのをスキエルニエビツェは見逃さなかった。
「レイトロン大臣」
スキエルニエビツェはオライオスのその言葉で立ち上がり膝を折っって挨拶した。楽師ならば当然の儀礼である。大臣はスキエルニエビツェの方をちょっと見てイオシス殿、と答えてからオライオスを見た。
「将軍、随分とお気楽な立場ですな。先の戦の功績がよかったからといって油断しているとろくなことはありませんぞ」
「ふふふ……ご心配には及びませんよ。油断もしていないし功績が特別よかったとも思っていない」
「ほう……褒賞を下された陛下に対する侮辱と受け取ってもいいのかな?」
「貴方はいらっしゃらなかったからご存じないかもしれないが……」
オライオスはにやりと笑った。大臣はどんなに地位が高くとも軍人褒賞の場に出席することはできない。大臣の誰もが劣等感を抱く事柄ではないにしろ、相手がこの男ならこの程度の皮肉もきくだろう。
「私は陛下にちゃんと申し上げましたよ、
特別頑張ったわけでも、功労を得ようとしたのでもなく、ただ最善を尽くしたのみの結果、偶然運が良かっただけなのです、とね」
「----------」
「それでも陛下は今回の戦勝は私の人徳に因るところが大きいと褒めて下さったのです。
ただそれだけのことですよ」
レイトロン大臣は押し黙った。
「……せいぜいお気を付けなさることだ」
吐き捨てるように言うと、踵を返して回廊の方へ歩いていってしまった。その後ろ姿が見えなくなった辺りで、
「……ふん、腹を斬ったら出てくる血は赤でなく黒だろうよ」
オライオスは毒突いた。
「…………」
二人のやり合いに毒気を抜かれたスキエルニエビツェは茫然と立っている。あんなやりあいは、自分の知っているオライオスとは無縁のものだと思っていた。気迫せまるやり取りであった。
「どうした?」
「え? えーと……修羅場……」
「修羅場……そうかな。あの大臣はいつもあんなもんさ。いちいち相手にすると胃に穴が開く」
スキエルニエビツェは笑った。オライオスは立ち上がり、
「いい顔だ。女はいつも笑っているのが一番いい」
と言い、部屋まで送ってくれた。スキエルニエビツェは先程のやりとりを見て偶然オライオスの別人の部分、きっとあんなことがなければ永久に知らなかったであろう一面を思い起してバルコニーに出た。人間とは、自分で思っているよりも奥が深いものだ。
そよ……と風が吹き、あまりにもそれが気持ちがよかったので、スキエルニエビツェは風に微笑してリュートを取り出した。
人の生は老い易く 天老い難し
歳歳 重陽
今又た重陽
戦地の黄花 分外に香る
一年一度 秋風勁し
春光に似ざれども
春光似り勝る
寥廓たる江天 万里の霜
「もう重陽の節句の季節……・」
さや、と吹いた風に髪を弄ばれ、スキエルニエビツェは小さく呟いた。
見ると庭には菊の花がかぐわしげに咲き誇っている。
二回目の秋……スキエルニエビツェが葵剣にやってきて一年が過ぎようとしている。
砂漠というのはどうしても暑いというイメージが拭いきれない。そのため初めて葵剣に来る商人のほとんどが薄着の半袖、砂漠の冬はさぞかし涼しかろうと高を括ってやってくる。そして到着と同時に服屋に駆け込み、周囲の失笑をかう。なにしろ砂漠というのは太陽が出ている時とそうでない時の温度差が激しい。夏はまだそうでもない。日中暑く、夜も寝苦しいほどの時もあるがまた涼しい夜とてある。冬は温度が急激に下がり、極寒の日は積もりはしないけれども雪が降ることすらある。
「オライオス将軍?」
ライクは長椅子に横たわったままだるげに聞き返した。冷たい冬の鋭気が彼の周りにまとわりついているかのような空気だ。
「裁定将軍と呼ばれているあの男か。なんでも大層気安い男だとか」
「彼は使えるかもしれませんぞ」
「…………」
ライクはレイトロン大臣をじっと見た。
「……怨恨が見えるぞ」
「そんなことはございませんよ」
「俺に嘘は通用せんぞ。どうせオライオスに痛い所を突かれたんだろう。個人の怨恨で仕返しをするのは多いに結構だが……」
立ち上がりライクは窓辺に寄った。紅楼に人影が見えており、先程からリュートの音が風のように漂ってくる。
「一人でやるんだな」
レイトロン大臣は改めて思った、
深い洞察鋭い言葉、不正を許さぬ厳しさそして相反する残酷さ。
楼に上がりて春を迎うれば新春は帰る
暗黄 柳に著き宮漏遅し
薄薄 淡靄 野姿を弄す
寒緑 幽風 短糸生ず
錦牀 鏡に臥し玉肌冷やか
露瞼 未だ開かず朝に対して瞑ず
官街の柳帯折るに堪えず
早晩 菖蒲錧結に勝えん
「……美しい歌だ」
腕を組みぼそりと呟いたその美を愛し雅を解する心――― 。
この男こそ、真の王にふさわしいのだと。そしてなんとしてでも、この不遇に満ちそれだけの理由で才能を生かすことを許されなかったこの王の弟を、彼が本来いるべき場所へ導きたい、十月の鉛色の空を見ながら、レイトロン大臣は痛感した。
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