第五章 紅楼春雪抄 5

 「彼」が来たのは、次の日の午後だった。秋の涼しい風が吹き始め、その日は過ごしやすい一日だった。

「ライク殿」

 長椅子に横たわり、足を投げ出すようにしていたライクはそのままの姿勢で「彼」を迎えた。窓の外から聞こえてくる歌声は紅楼からではない、宮殿の庭に違いない。


        独り江楼に上れば 思い渺然

    月光 水の如く 水 天に連なる

        同に来たって月を弄びし人は何処ぞ

        風景 依稀として去年に似たり



「やはり失敗したか。だからあれほど言ったのだ、成功するはずもなかろうと」

「それでよいのです。成功するばそれはそれでよし、失敗したとしても、向こうはかなり焦るでしょう。そしてあちこちに目を光らせるようになる。すぐにこちらの仕業とわかりましょうがそれでだからといってすぐにあちらが手を出せるというわけでもない。悶々としてどう動くか決めかねる内に時間が過ぎ、向こうはさぞかし気疲れするでしょうな。しばらくはの間は混乱させておけばよいのです」

「ふん……信用できん」

「ご心配なく私は貴方を王にしたいだけ。まあご覧じておられなさい」

 ライクは立ち上がり、窓辺に立った。完璧な背中。

「まあいい。言う通りしばらく傍観して力量を見せてもらおう、」

 ライクは振り返って「彼」を見た。

「レイトロン大臣」

 大臣は、黙って深々と頭を下げた。




「閣下、この前の火薬のことですが」

「なんだ」

 オライオスは最近不機嫌である。無事何事もなかったとはいえ、休暇であり戦勝の宴を邪魔されて、後始末に何週間もかかったからだ。

「出所がわかりました。それからあの金属の箱がどこの鉱山のものかも」

「そんなことがよくわかったな」

 一瞬部下は沈黙した。その沈黙にオライオスは振り返り、

「どうした」

 と尋ねた。部下は口篭もり、言い淀んで、ちょっとだけ視線を下に向けた。

「…………特徴ある金属でしたので」

「-----------どこのだ」

「……----……王弟殿下所有の鉱山のものと判明致しました」

「何……」

 当然、オライオスは絶句した。



 事態は緊密に処理された。

 将軍だけの会議が緊急に行なわれ、彼ら以外でこのことを知る者は固く口止めされた。

 無論のこと子供ではないのだから、事の重大さを飲み込んで彼らは誰一人として口外しないだろう。次に国王に進言し、こののちの判断を仰いだが、将軍たちはこのまま知らないふりをするのが得策とも付け加えた。

 国王は一瞬青ざめ、立ち尽くし、それから鉛のような重いため息をついて瞳を閉じると将軍たちを見据えて、そなたたちの気遣いを心から感謝し、嬉しく思う、そなたたちの言う通り……今は何もなかったように振る舞うのが最上の策かと思う、しかしこれ以上弟の行動が常軌を逸し誰か一人にでも危害が加えられるか、或いはその可能性が大きくなったのならば、彼は語気を強めて言った。

「その時には私は、弟を謀反人として扱うつもりだ」

 辛い決断であっただろう。しかし彼は兄である前に国王としての立場を重んじた。辛く悲しいことだが、それは彼に宿った宿命。運命には、誰一人逆らうことはできない。

 秋も深まり、砂漠にも寒い冬がやってこようとしている。



 年が明け桔九年となった。

 オライオスは相変わらず功績豊かで、春の戦も戦勝に次ぐ戦勝、評判が高まる一方の中、秋の戦で前代未聞の功績を挙げた。

 一国解放に費やした期間半月、味方の死傷者無し、敵の死傷者もまた無し。なんでも、すっかりオライオスのやり方に心酔した敵国は、大将自身の投降によって服従を証明したそうだ。

 オライオスが話してこの男は大丈夫だと思ったのなら間違いはないとして国王は大将と相手国の国王を招待し、同盟を軽々と結んでしまった。戦うには手強い相手であっただけ

に、お互い何の損害もなく同盟を結べたことは怨恨も残さないことなり、正に奇跡的といってよかった。今回のことでオライオスの功績は非常に大きかったといえる。

 実に惜しい、オライオスが将軍でなかったら、とっくに三段階くらいの昇進を与えていたのに、と、国王は冗談めかして玉座の間で言った。昇進がこれ以上ない場合の褒美は、たいていは土地や馬だったりするが、今回オライオスは月鋼を鍛えた素晴らしい短剣を下賜された。希少価値のある金属で鋼の百倍も硬く、一抱えもある岩すら切断面をすべらかなまま一刀の内に両断してしまうという。長剣にしなかったのは、希少な鉱物で長剣にするだけの量がなかったからだとか。

 しかし人々も王も言った、

 オライオスは、月鋼と同じくらいの価値あることをしたのだと。人命に勝る宝はない。

 オライオスの尽力でその宝を一つも失わずに済んだのだ。

 彼の評判はとどまるところを知らなかった。

 ある日オライオスは紅楼へ出向いた。秋が訪れ、この季節には珍しい雨が先程まで降っていたが、一刻ほど降ってすぐに止んだ。通り雨であったようだ。水を吸った大地の匂いが強く漂っている。雨上りの砂を踏み美しい楼の一番上の階まで辿り着くと、そこには先客がいた。リュートを弾く手を休め砂漠に見入っているスキエルニエビツェであった。

「お……」

「あら……」

 スキエルニエビツェはオライオスを見上げ、ちょっと声を上げてから

「先の戦では大層ご活躍なされたとか……」

「他人行儀な言い方だな」

「他人ですもの」

 苦笑してオライオスは頭をかく。どうも彼はスキエルニエビツェには弱いらしい。惚れた弱みというやつかもしれぬ。

「月鋼の短剣を下賜されたとか……素晴らしいことですわ」

 オライオスは近寄っていたずらっぽく笑いスキエルニエビツェに言った、

「俺に褒美はくれんのか」

 するとスキエルニエビツェは口元に薄い笑みを浮かべてこう答える、

「今度同じくらいのご功労がおありになりましたのなら」

 オライオスはちぇっ、と唇を尖らせて

「同じくらいの功労か……参ったな」

 と呟く。スキエルニエビツェはくすくす笑いがとまらなくて、袖で口元を思わず押さえる。

「意地の悪い女だな……まったく……。まあいい、ここにはよく来るそうじゃないか」

「ええ。ここで歌を歌うのはとても気持ちがいいから」

「城下に友人がいてな、」

 オライオスはあの美しい女のことを思い浮べて言った。

「紅楼の歌は時々街まで届いてくるそうだ。楽しみだといっていた」

「まあ、嬉しいことだわ。楽師冥利に尽きるとはこのこと」

「極上の天鵞絨の上を白玉が滑り落ちるような歌声、か……」

 オライオスは欄干に寄り掛かってそんなことを小さく呟いた。この楽師のことを昔こう噂に聞いた時は、そんな歌声など想像もできぬ、誇張だろうと思ったものだったが、しかし確かに彼女の歌を耳にしてみると、こうとしか例えようがないのだ。筆舌しがたいとはこの事、この例えを口にした者は苦しんだ挙げ句にやっとのことでこの例えを生み出したのだろう。

 オライオスの呟きを耳ざとく聞いたスキエルニエビツェは、彼を座ったままの姿勢で見上げ、それからリュートを構え直して弦をいくつか弾き始めた。

 ホロン……

 ポロォォ……・・ンン……

「? ……おい」

 ポロン……・

  ロォォォンンン……・・

 無心にリュートを奏でながらスキエルニエビツェは瞳を閉じたまま言う、

「そんな風に褒めてもらって何も歌わないわけにはいかないわ」

「おいおい」

 オライオスは慌てた。

「なにもそんなつもりで言ったんじゃないぜ」

 手を振って止めようとしても目を閉じられては効き目がない。調弦の音は続く。

「そんなのわかっているわ。国王陛下だけのために歌うという約束はしていないし、それに陛下はこんなことで貴方を咎めたりはなさらないはずよ」

 スキエルニエビツェはぱちりと目を開けてオライオスを見た。黒い瞳に見据えられて百戦錬磨の裁定将軍がたじろぐ。

「それともお嫌?」

「う……そ、それは違うが」

 根っからの武人であるオライオスには今までそんな状況に遭遇した経験などない。自分だけのために、楽師に歌を歌ってもらうなどと。

 ホロ……ン……

 彼の覚悟を促すようにリュートの音が引き締まった。

「……これで褒美だなんて言うんだったらお断りだぞ」

「ふふ……条件はさっき言ったとおりよ」

 オライオスはため息をそっとついた。やれやれ、どちらにしても歌をやめさせることもできなければ、あれ以上の功労を挙げないことには褒美ももらえないことは変わりようがないようだ。

 ロォォォンンンン…………

 ハッとさせるほど澄んだ音が響いた。



       一天の過雨 新秋を洗う

       友を携えて同じく登る江上の楼

       写かんと欲す 仲宜千古の恨み

       断煙疎樹 愁いに堪えず



「…………」

 雨に湿った砂漠を見渡し―――――……オライオスは心が洗われる、というのがどういう気持ちなのかを生まれて初めて知った。そしてリュートの音が消えるのをじっとうつむいて聞いている女を見た。葛の花の女。俺の葛。

「……」

 口元にわずかな笑みを浮かべリュートをのぞくようにしているスキエルニエビツェ。閉じた瞳ですら美しい。

「なんかなんて言ったらいいのかわかんないけど……」

 ほりほりと頭を掻いてオライオスは言った。

「きれいな歌だな」

 何よりの絶賛。スキエルニエビツェは花がほころぶようにして笑った。

「なあ……」

「?」

「あちこちの国を回ってるんだろ。聞かせてくれよ」

「……」

 スキエルニエビツェはオライオスを見上げ、しばらくその瞳をじっと見つめてから、

「……いいわ。いつか約束したわね。でもここじゃ場所がよくないから、別の場所で」

「じゃ中庭はどうだ? 座るのに手ごろな場所を知ってる」

 賛同の意を示してスキエルニエビツェは微笑んだ。オライオス紳士のように手を差し伸べ、そこへスキエルニエビツェの白い手がふわりと乗った。

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