第五章 紅楼春雪抄 2

 数日後、国王の部屋で数曲歌った後、自室に帰るために廊下を歩いていたスキエルニエビツェをみとめ、引き止めた者がいた。

「待て……」

 振り返ってスキエルニエビツェは仰天した。

「王弟殿下……」

「楽師と聞いたが……名は何と申す」

「はい、スキエルニエビツェ・ガラードと申します」

「ほうスキエルニエビツェ……」

 王弟ライグゥアラックの眉がわずかに吊り上がった。

「世に名高い楽師のスキエルニエビツェか」

「名高いかはよく存じませぬが……・わたくしがスキエルニエビツェでございます」

「ふむ……」

 王弟は近くに寄ってスキエルニエビツェを凝視といってもよいほど見つめた。ちらりと見上げて、スキエルニエビツェはすぐに顔をそらした。その顎に手をやり、王弟ライグゥアラックはスキエルニエビツェに顔を近付けた。たまらずスキエルニエビツェは顔をそらし、逃げようとしたが、壁を背にしている上、王弟の両手で退路を塞がれては、どのようにして逃れられることができようか。

「おたわむれはおやめ下さい」

「たわむれとは何とつれない言葉よ」

 王弟はにやりと笑って言った。

「花の芳香に魅せられた私に罪があろうか」

「私は香りを持たぬ花。どこぞの花とお間違えなのでは?」

 言うや、するりとすり抜けてスキエルニエビツェは悠然と背中を向けた。これで王弟が追ってこないのは彼女にはよくわかっている。その王弟とはと言うと、残したのは

「ふふ……・・」

 してやられたという笑みと、この呟きのみであったという。

 しかしこの二人のやりとりは廊下に行き交う侍女女官・将軍や大臣などの多くが目撃していたので、この二人のやりとりはあっという間に王宮内に広まることとなった。いかに傍若無人に振る舞おうともさすがは王弟ライグゥアラック、なんとも風流な言葉よと随分評価されたが、負けず劣らず雅な言葉で王弟をさらりと躱した楽師の評判もぐんと上がった。また、偶然にもこの時居合わせた中には将軍オライオスもいて、

「なるほどそういうのが情緒のありようなのだな」

 と、一人しきりに感心していたという。

 数日後オライオスとスキエルニエビツェは偶然廊下で出くわした。

「よう」

「こんにちは」

「見たぜ情緒のあり方」

「勉強した?」

「したらやらせてくれんのか?」

 思わず吹き出して、

「それが情緒のなさだっていうのよ」

 スキエルニエビツェは笑いながら言った。この男は、まったくそういったものに縁がないようで、それでいて率直なのに少しもいやらしさがない。人徳からくる天性のなせるわざだろう。

「いいか。俺は学がない。戦をして生きている男だ。本能がそうしろといえばそうする。そうやって生き延びてきた。その本能がお前に惚れたと言っている。惚れたのなら抱きたい。俺にとってはそれが普通のことだ。理解してくれというつもりはないがな」

 将軍オライオスの評判はすこぶるいい。彼は現在二十八だが、四年前に将軍に大抜擢されて以来功績に次ぐ功績を上げている。少しも傲ったところがなく、それでいてしごく明るい性格で、なんでもいい方に考えるので前線の兵卒はどんなに追い込まれても彼に励まされることが多く、それで彼は戦勝することが多いのだとか。別名常勝将軍だそうだが、まったくその通りだと誰もが納得する。

 また非常に公平な性格で、例え自分の隊の人間でも間違っている者に対する処置は非常に厳しいという。特別学があるというわけではないが、言うことに大抵間違いはなく、人情的な意見を裁定の場で求められ頼られることも多いので裁定将軍とも呼ばれる。女が好きなことでも有名だが、決して好色ではなく、二股三股ということは決してない。一晩の相手をしたのならそれだけで後腐れのないような、一晩の関係だけでそれを盾に迫ってくるような女ではなく、それきりを承知でという女ばかりだ。彼が愛する女はどれも頭が良く、性格はおとなしめ謙虚勝ち気とまちまちだが、配慮があって美しい女ばかりだという。

 オライオスが気に入らないという人間も数少なくではあるがいる。しかしそれは嫉妬から来るものに間違いがなく、功績と相手にした女性の次元の高さが羨ましいだけとしか考えられない。狙っていたり密かに想いを寄せていた女をとられて逆恨みしている連中は多いようだ。誰もが彼を告発したがっているが、何にせよ私的生活に口出しは禁忌、規則違反であるし、何より彼と関係した女たちが彼を告発するつもりなど最初からなく、オライオスが一晩だけの付き合いと思っているのなら当然女の方もそう思っているわけで、結局オライオス将軍に騙された、玩ばれたなどと言う女はおらず、オライオスに反感を抱いている人間は彼の人格に唇を噛む他ない。

「ふん……まあいいや俺のやり方を見せてやる」

「楽しみにしてるわ」

 にこにこと笑ってスキエルニエビツェは言った。何にせよ愉快な男である。

 今後の彼の動向が非常に楽しみなスキエルニエビツェであった。



 四月-------。砂嵐もようやくおさまり、葵剣にも短い春が来ようとしている。

 この日スキエルニエビツェは、国王に連れられて城の外へと出た。城外といっても裏口から出た場所で、そこから砂にまみれて細い道が続いていた。城壁の中ではあるが城からは相当離れている。裏口には兵士がいたが、黙って国王を通したところを見ると奇妙な外出はそう珍しいことではないらしい。しばらく歩くと、小高い丘のような場所に大きな建物の影が見えてきた。

「……」

 陽射しがまぶしくてよく見えない。スキエルニエビツェは袖で光を遮ってみたがそれでもよくわからぬ。まもなく着いたその場所は、建物などではなく楼閣であった。

 見事な五層構造の紅楼。柱の彫りは緻密でひどく繊細でそれでいて力強い。しっかりとしているからどのような砂嵐にも耐えられよう。柱と柱とをつなぐ細工は美しい海の青だが、それ以外は見事なまでの真紅だ。今までいったいどれだけの砂の嵐に耐えてきたのだろうか、もしかして新築なのではと思うほど傷一つなかったが、新しいわけではないということくらいそのどっしりとした落ち着きのある構えからもよくわかった。

 国王はスキエルニエビツェを中に招じ入れ、ゆったりとした階段を昇っていって最上階である五階まで彼女を案内した。

「わあ……・」

 スキエルニエビツェも声を上げた。聞き取って国王が、

「いい景色だろう。ここからは砂漠が一望できる。昔は見張りのための櫓だったのだが、今はこうして骨休めに使っている。こちらからは城が」

 スキエルニエツェが右方に目をやると、確かにこの紅楼からまる見えだった。そうでなければ櫓の意味はなかったのだろう。それに国王はよく一人で来るらしいが、それを狙ってどんな暗殺者が来るかしれたものではない。城からしっかりと見えるということは大切なことなのだ。しかしこの紅楼へ来る道は一つだけだし、そこへ到る裏口には三人の兵士が控えている。いつもは戦に行き、そして無事に帰ってくる屈強の男たちである。よしや国王の元へ暗殺者達が辿り着いたところで、彼らが返り討ちに遇うことはまず間違いがない。暗殺する側もそれをよく知っているのか、昔はよくそんなこともあったが、現在ではそういった事実はほとんど皆無だという。

 サラ……

 風がそよかに吹いてスキエルニエビツェの頬を撫でた。

 鮮やかな紅楼の一番上の階に、梅(表白・裏蘇芳)の襲を纏った彼女の姿は楼閣と同じように鮮やかに浮き上がるだろう。

 このように人目のない場所に国王と二人きりだと、よからぬ噂をたてられはしないか、スキエルニエビツェはちらりと思ったが、すぐにそれを否定した。昔一度だけそういった目に遭ったことがあるが、今回に限りそれだけはない。なぜなら国王夫妻はとても仲がよく、砂漠にありがちな一夫多妻の制度にも関わらず、自らそれを廃し、妻はタジェンナ一人のみと公の場で言い切ったくらい、国王は妃タジェンナを愛している。金色の髪はさながら砂漠の夏の輝きのように美しく、濃緑の瞳はオアシスを思わせる。愛くるしい表情と思慮に長けた優しさ、優美で雅であでやかで。二十六歳という若さだがもう既に王妃としての風格を充分身につけている。この上ないほど愛しくなってしまうほど容姿も心も美しい女性なのだ。愛さずにはいられないほどの。

 国王はしばらくの間黙っていたが、やがて砂漠を見つめながら重重しく言った。

「……見たであろう我が弟の傍若無人ぶり……」

「……」

「我々は幼い頃から--------終始人の目にさらされながら生きてきた」

 一言一句、絞りだすような国王の言葉。スキエルニエビツェはこくん、と息を飲んで次の言葉を待った。

「周囲の人間はいつもいつも我々を比較してきた。あたかもそれが価値のあることのように。私はいつも褒められる『役』、弟は落としめられる『役』を……演じさせられてきた

「それがどれだけ我々兄弟にとって辛いことであったか……私は誰にも褒められなくともよかった。弟といつも笑いあって生きてこられれば

「しかし周囲がそれを許さなかった。私は将来国王となる身 -----……ただその一点だけで構われていた、次代の国王という意味であって決して愛していたわけではないのは、嫌でもわかっていた

「弟はそんな中で幼少時から劣等感を植え付けられてきた。私と弟、味方はただ一人お互いだけだったのだ

「だから私たちは仲がよかった……父や母が私を褒め、それと比べて弟を落としめた後は必ず気まずいものが我々の間にあったが-------……それでも二人で遊び続けていた

「私は弟を愛しているし、弟も私を愛している」

「…………そう思いたい。そうでなければ弟は国を出、半旗を翻しているに違いないと愚かな理由で自分に言い聞かせて今日まで生きてきた」

 スキエルニエビツェは重々しい空気の中でぎゅっとリュートを握り締めた。

「しかし王位継承の段となって我々はきまずい思いをし相手に遠慮しながらも愛し合う兄弟ではいられなくなった。

「王になれるかもしれないという淡い期待は弟を大いに勇気づけ、そして一気に絶望の淵へと追いやった。弟は私を愛し、しかし私ゆえに己れの永遠に解放されない苦しみを纏うことに我慢ができなくなり、離宮に移っていった

「私には彼を------……止めることができなかった」

 兄を愛し、兄を慕い。しかしその兄ゆえに自分は価値のない人間のように扱われ、今日まで惨めな生活をしてきた。これからの自分に一体何があるというのか。

「スキエルニエビツェ」

 スキエルニエビツェはハッと顔を上げた。国王は、彼女が息を飲むほど、そういくつもの数奇な運命を辿ってきた彼女が息を飲むほどに、苦く悲しい顔をしていた。

「私と弟の間を埋めるものはまるで儚く…………春の雪のように淡い…………」

 その瞳-----。

 同じだ、スキエルニエビツェは思った。初めての宴で見た王弟の瞳に刻まれたあの悲しく苦い光。今国王の瞳にはまったく同じ光が刻みこまれている。この二人の絆はそれほど深く、そしてそれがゆえにまた溝も深いのだ。スキエルニエビツェの胸の奥がしぼられるように苦しくなった。

「……何か歌ってくれ」

「はい……」

 ホロ……ン……






       花気山に満ちて 濃やかなること霧に似たり

     嬌鴬幾囀 処を知らず

       吾が楼 一刻値千金

       春宵に在らずして春曙に在り



「……」

 哀切な旋律にしばし沈黙していた国王であったが、やがて重すぎるほど重いその口を開くと、

「…………これからは……自由にこの楼閣を使ってよい」

 言い置いて、静かに去った。

 スキエルニエビツェはそれを見送り、楼閣の上から失意に満ちた男の背中を見続け、それが城の中に入ってしまうと、広い広い砂漠に目を馳せた。

「……」

 森も山も、海も空もそして砂漠も……・なんと広大で懐が広いのだろう。どこへいっても人の卑小さを思い知らされる。

 ホロン……

 砂漠を放心して見つめたままリュートに指を沿わせたスキエルニエビツェであったが、広大な風景の前で音すらもなんだか余計な気がして、結局何もしなかった。



 大臣レイトロン・エラティック。彼の名前を聞いて眉を寄せない者はいない。

 まず何を考えているのだかわからない。

 例えばある甲大臣を気に入らない乙大臣がいるとする。レイトロンは乙の心を敏感に読み取り、あなたも甲のことが嫌いなのでしょう、実は私もなのです、囁く。そして乙が散々甲の悪口を言ったのを聞き、今度は甲のところへ行ってこう言う、あなたも乙のことがお嫌いなので? 実は私もなのです、彼は貴方の悪口を散々言っていましたよ。そうやって大臣間の人間関係をひっかき回すのが大好きなのだ。しかしそれで彼が得をするかというと一文の得にもならない。なのに人間関係をややこしくしては、裏で密かに笑っているのだ。真に何を考えているのかわからない。狡猾で冷酷でいいところなど一つもないが、彼のことを馬鹿よばわりする人間はいない。つまりそういう男なのである。

 そんな大臣レイトロンが先の宴で国王と王弟を見て何かを考えついたかのように人知れずにやりと笑った事に気が付く者は……いなかった。

 忠誠心も道徳も倫理もかけらほども持っていない男。大臣になったのは己れの私腹を肥やすため。彼が何かを思いつき何を実行しようとしているのか……知る者は誰一人としていない。



 あの日以来、スキエルニエビツェはよく紅楼に来ては、一人で歌うことが多くなった。

 確かにここは物思いに耽るには絶好の場所だった。リュートを一度奏でようものなら、あの空に近い山の上の国のように音が雲に反射することなどなく、その代わりずっとずっ

と音が消えずに砂の地の果てまで風に乗っているのがわかるのだ。それが楽しくて、何度も何度も心まかせに爪弾いては、じっと瞳を閉じて聞き入っている。歌を歌うにもまた絶好の場所である。城にも届けば、城下に聞こえることもあるほどだ。なにしろ砂漠というのは二つと同じ光景がない。同じ場所から見ても、風景が見せる顔は千差万別。思わず歌いたくなってまうのは、楽師では当然のことともいえるだろう。

 春の陽射しを受けてきらきらきらきら、金色に光る砂の丘。スキエルニエビツェは思わずため息をついた。

「……美しいわね」

 ホロン……

 ホロ……ン



       春宵一刻 値千金

       花に清香有り 月に陰有り

       歌管楼台 声細細

       鞦韆院落 夜沈沈

       


 ホロン……

 ロォ……ン……


 静寂が広がる砂の地……スキエルニエビツェは、いつまでもその音色を聞いていた。

 『青』--------。そう聞いて世の人々は二つの色を連想する。

 一つは『青』、海の色の青。もう一つは衣装の『青』、それはまだ海の青が染め物の色として用いられていなかった頃の色、衣装での青とは緑のことを指し、衣装で海の色の青を指す場合、主に縹といっていたが、最近では「海の色の青」と言うことの方が多いらしい。

 青柳(表濃青・裏紫)を纏うと、王妃タジェンナの周りの空気は一変する。表の濃青---------つまり濃い緑と同色の瞳がお互いを引き立てるかのように見え、裏の紫は金の髪を縁取るかのようにゆかしく控える。

 青柳(表濃青・裏紫)の襲は王妃のためにあるかのような色だ、人々はそう噂する。ちょうど脂燭色(表紫・裏紅)の襲をあつらえたかのように着こなす、イオシス(紫紅色)の二つ名を持つあの楽師のように。

 砂漠の人間はたいていが気さくである。王妃もその例には漏れず、王宮内を歩く時共の女官など連れて歩かない。危険な戦時中や公式の時は別だが、それ以外に連れて歩く必要などない、だから連れて歩かないというのが彼女のやり方だ。国王レグノテックも今のところそれを黙認してはいるが、さて彼女が懐妊でもした日には、そんな態度がどう変わるか、一度見てみたいもの。

「これはこれは義姉上」

 タジェンナはぎくりとして立ち止まった。前方からの声------間違いなくライグゥアラックだ。

「……ご機嫌うるわしゅう、ライク殿」

 膝を折って、タジェンナは義務的に挨拶した。足早に通り過ぎようとして、すれ違いざま腕を掴まれる。

「! ……ライク殿!」

 制止の声も聞かず、王弟ライクはそのまま柱に彼女を押しつけた。

「随分とつれないですな義姉上。まがりなりにもあなたの夫の弟……・もう少し親しみを持っていただきたいものです」

 退路を塞がれ……タジェンナはすぐ目の前に近付いてくるライクから顔を逸らした。

「通して下さい……通して」

「はて面妖な……それでは私があなたに意地悪をしているように聞こえる。悲しいことです義姉上」

 ライクは片手をその細い顎に持っていってこちらを向かせた。濃い緑の瞳が遠慮がちな怒りの炎を燃え上がらせて非難するように自分を睨む。

「……離して下さい。私は王妃ですよ」

「-----悲しいことだ。貴女にそんな風に言われるとは。この心は今にも張り裂けてしまいそうだ」

 スッとライクは顔を近付けた。片手はその顎に、片手は王妃の腰をがっちりと押さえ、今や王妃は絶体絶命。

「お詫びのしるしにその愛らしい唇をいただきましょうか……そうすれば私の悲しみも癒されるというもの」

「……っ……」

 王妃は目を瞑った。逃れられない!

 ポロ……ン……

 その時廊下の向こうからリュートの音色が聞こえてきた。

 場所からいって回廊に面した中庭だろうか。

 ホロ……

 ン……

 ロォン……

「……」

 ライクは音の聞こえてくる方に向き直り、むっ、と低く唸ったが、やがて

「……ふふふ」

 自嘲的に笑うと、興が冷めたのだろう、王妃をするりと解放して行ってしまった。

「………………」

 全身を汗に濡らし、ほっとしながらその背中を見送った王妃は、

 ポロ……ン……

 未だリュートの音の聞こえてくる方へハッとしたように顔を向けた。

 サラサラサラサラ……衣擦れの音もどこか焦っているかのよう。

 案の定廊下が吹き抜けて回廊となり、庭に面した辺りから音は大きく聞こえてきた。

 ホロン……

 スキエルニエビツェは、回廊からちょうど茂みの陰となった、辛うじて顔だが見えるくらいの場所にいた。近付くと岩の上に座っているのがわかった。

 ホロ……

 王妃の気配を察知したのだろう、リュートの音がぴたりと止んだ。顔をタジェンナの方へ向け、にこりと笑って言う、

「お役に立ちました?」

 ああやはり……。王妃は思った。この方は、私を助けて下さったのだ。

「……ええ。ライク殿は行ってしまわれましたわ」

「それはよかった……・言い争う声が聞こえて最初は出ていこうとしたのですが……お止めしたところで聞くような方ではないというのはわかっておりましたから」

「それでリュートを……」

 スキエルニエビツェはうなづいた。自分が迫られた時も風流な言葉に対して侵入しようとはしなかった。ライクという男、乱暴に振る舞ってはいるが、結局そういう男なのだ。

 惜しいこと……王弟でなければ、さぞかし革新的な王となっていように。

「……あの……」

 王妃はおずおずと口を開いた。

「よろしければ……部屋で御酒でも」

 スキエルニエビツェは王妃が何かを言いたげなのに鋭く気付いて……にこりと笑って言った。

「喜んで」



 酒といってもそれは桜の蕾を砂糖漬けにしたものを浮かべた酒で、ほんのりと甘い味と桜の香りの素晴らしい、スキエルニエビツェが初めて飲む酒だった。

「諸国を旅していますが……」

 杯を卓上に置きながらスキエルニエビツェは言った。

「こんなお酒は初めてですわ。桜の香りがとってもいい香り」

「そう言っていただけると嬉しいわ。この辺に桜は咲きませんが戦で解放した国が毎年献上してくれるのです」

「まあそれで……」

 サワ……

 風がそよと吹いた。二人の間に一瞬沈黙が流れる。

「イオシス殿……」

 サアアァァァァ……

 風が渡る。

「はい」

「…………陛下とライク殿は……それは仲のよろしい兄弟でした」

「そのようですね。そう聞いております」

「ライク殿は素晴らしい才能をお持ちです。他国に王として望まれても他の方では成しえない功績を残されることでしょう。そういう方です」

「……」

「あの方は人に褒められた経験をお持ちではありません。どんなに頑張っても、個人の努力など無視され兄上と比べられ、比べられては落としめられ、劣等感を植え付けられてきた……・あの方の心はひどく悲しそうです。痛いほどに悲しい。それにご自分で気付いておられない。まるで子供のように……自分の居場所を探して傷ついている」

「--------」

「陛下もお心を痛めておいでです。あれだけお互いを大切にしていたご兄弟が王位を溝に仲違いするというのは痛ましいことです。陛下はライク殿が荒れるお気持ちがよくおわかりなのでどんなに暴挙に出ても咎めることができない。それは御自分の責任だと思ってらっしゃるから……それでもいつライク殿が過ぎた行動に出るかわかりません。その時陛下はどうなさるおつもりなのか―-------……私には恐ろしいのです。その時はいつか来る。必ず来る-----…………そしてそれは、……そんなに遠い日のことではないのです」

 サアアア……

 簾を巻き上げるようにして風が吹いた。

 庭へ向けた王妃のそのまなざし----------。

 美しい緑が光に反射する様を怯む様子なく見つめるその瞳の強さ、無垢な光に、とうとうスキエルニエビツェは、何も言うことができなかった。



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