第四章 生命賭す一瞬 5

 夏になり、汎胤の空が気持ちが良くなるほどの青い色に染まり始めた頃、オルノスに追い打ちをかけるような事が起こった。

 近付けば近付くほど、彼の心は苦しみを増す。いつもは滅多にないことだというのに、この日―-------彼はズヴェイラと廊下ですれ違ったのだ。

 廊下の向こうに点のようにして影が見えた時、既に誰かは見当がついていた。

 何故か? その金の髪がきらりと光ったから。そのすみれ色の瞳が、まるで点のようにしてまっすぐ向いており、その色があまりに印象的だったから。そして何よりも、愛する女性の姿だとわかるのに、いちいちの理由はいらないとオルノスは思う。

 その姿は、次第に大きくなって、

 ゆっくり、

 ゆっくりと

 近付いてきた。

 彼の鼓動が高らかになっていく-------彼女の姿が大きくなってくるその一歩一歩ごとに。震える膝、震える足、竦んでしまいそうになるのをすんでのところで前へ前へと押し出すことができる。

 今自分は木偶の人形、歩くだけ、歩くだけの人形だ。

 怪しまれないように……訝しまれないように……平静を装ってなるべく静かに平和に。

 ズヴェイラが近付いてくる。

 自分も近付いていく。

 お互いが歩み寄っていく。次第に距離を縮めていく。

 とくん、とくん、とくん……オルノスの胸が高鳴っていく。聞こえはしないだろうか……ふと不安がよぎるほどに高く、早く。

 楝(表薄色・裏青)の襲を着たズヴェイラが近付いてくる。ああもう……手を伸ばせばその顔に触れられるほどに近くなってきた。

 ふと藤の香り。

 オルノスはぎゅっと目を瞑りたくなるのを必死に堪えた。

 抱き締めたい----!

 ズヴェイラは軽く会釈をして彼と擦れ違った--------すべてはほんの数十秒の出来事。

 オルノスは歩くだけの機械のようになってそのまま廊下を行き―――――……角を曲がってやっと立ち止まった。全身がかぶったような汗に濡れていた。

「…………」

 ぎゅっと拳を握り締めて、オルノスは息を大きく吐いた。


       若耶渓傍 採蓮の女

       笑いて荷花を隔て人と語る

       日は新妝を照らして水底明らか

       風は香袂を飄して空中に挙がる

       岸上誰が家の遊浩郎

       三三五五垂揚に映ず

       紫驤嘶きて落花に入りて去り

       此を見て踟踰し空しく断腸す



 幼い頃よく耳にした歌が、歌い手が違うだけでこうも変わるものなのだろうか。

 ズヴェイラはそんなことを思いながらバルコニーで一人香茶を飲んでいた。彼女は庭を見ながらお茶を飲むのが好きなので、手摺りは低め、植木鉢が沢山置いてあってそこに椅子と茶卓があり、庭を臨みながら香茶を飲めるようになっている。あの楽師の姿は見えないが歌声はすぐそこにでもいるかのように近くに聞こえる。ズヴェイラは故郷を思い出した。美しい我が故郷。もう戻ることのない故郷。

 ズヴェイラは元々義理堅い性格である。何かに対する礼はきっちりと返すし、謂れのないものはもらわない。故郷慧燕が汎胤の手によって救われ、もっと言うならあの将軍によって救われたのだから、彼女はすべてのことを覚悟していた。将軍が自分を望むかもしれなくても、―――――なにしろ彼女は貴族たちのなかで唯一の女性であったから―――――彼の妻になる覚悟でいた。あのオルノス将軍というのは大したもの、汎胤を救出したあの手練は言うまでもなく、褒美は何もいらないといったその気概も。とにかくオルノス将軍は大したものだ。あの男には本当に感謝している。自分の愛する故郷の恩人なのだから。

 故郷―――。慧燕を思う度、ズヴェイラは胸がちくりと痛む。 離れてしまった愛しい故郷。もう二度と帰ることもあるまい。

 ズヴェイラは慧燕での幸せな少女時代を思い出していた。

 幼い頃蓮の実採りにはよく行った。といっても「なりわい」としての採蓮ではなく、「あそび」としてのものである。魚釣りにも「なりわい」と「あそび」があるように採蓮もまた同じだ。先程の歌は、採蓮を「なりわい」としていた女たちがよく歌っていたもので、岸辺で一日中馬に乗っていられる良家の子弟と比べ、採蓮による傷だらけの己れの手を見てそっとため息をつくという物悲しい歌であったが、小さい頃はよくわかっていなかった。ズヴェイラもまた貴族の人間であったから。優しい両親を持ち何不自由のない生活をしていて尚、ズヴェイラは好んで下層の者たちがすることを手伝った。貴族だからといってしないことが不思議でたまらなかったし、今でもそう思う。貴族だからといって蓮の実を採って何がいけないのだろう。ズヴェイラは、だから汎胤に来るまではずっと彼女たちと採蓮を毎年行なっていた。昔は 「あそび」、今は「なりわい」の手伝いとして。

 十六の時父が戦死した。

 親戚は他になく、他の貴族のはからいもありズヴェイラが十八になるのを待って彼女が爵位を継いだ。伯爵となっても、ズヴェイラの生活は変わらなかった。そんな彼女を、他の貴族は大層感心して褒めそやし、いつしか彼らも採蓮や他の仕事を手伝うようになった。

 慧燕は主君がなく、美しい国ではあるが小さいがために、貴族といっても他国のそれのように気取って農民たちから搾取するような人間は、いなかったといってよい。美しい環境が人間を美しくした、その典型である。しかしいつしか慧燕は他国や野盗に襲撃を受けるようになった。彼女が二十歳の頃だ。美しく豊かで主君がいない――――言うなれば軍隊のいない―――――国。恰好の餌であったことは言うまでもない。そして彼女が二十四になるまでの四年間、その略奪は毎年二回続いた。春と秋、砂煙と土埃を起こして彼らはやってきた。彼らが去った後は何も―――――そう、何も残らなかった。草一本だとて彼らは無駄にしなかったのだ。女たちは地下に隠れ、ズヴェイラも当初はその例に漏れなかったが―――――彼女はいつの頃からか人々を家に匿うようになっていた。その方が殺される危険もないし、少しの食料を持ち寄ることで互いが救われることも何度かはあったのだ。

 美しかった国が何となく灰色になっていく―――その過程を、彼女はしっかりと見つめ続けていたというわけだ。相次ぐ略奪、そして救援。

 あの将軍は慧燕で自分を助けてくれたし、望まれればきっと好きにもなるだろうと思っていた。しかし自分を望んだのは国王。あの将軍が仕えるのも国王。言うなれば救出は国王のおかげともいえる。

 ―――汎胤に身を寄せる以外、私に方法があっただろうか……

 それがズヴェイラの感謝の形。何かを望まれれば、命でもそれは拒めないというのがズヴェイラの持つ義理堅さなのだ。しかしそれによって故郷から離れたということは、彼女にとって実に痛いことであった。それも仕方ない、故郷の恩人なのだから。

 ホロン……



       杏子桜桃 次第に円かなり

       炎涼定まること無し 麦秋の天

       馬蹄 歩歩 来時の路

       眼を照らす 榴花 又た一年


 《 杏の実、桜桃が、順々にまるく熟し、

  暑かったり涼しかったり、気まぐれな空模様の麦秋の時節。

  馬の背に揺られて、一歩一歩、来た時通った道を行く。

  わたしの目にはひときわ鮮やかに映るざくろの赤い花、

  ああ、また一年が過ぎ去った。 》

「…………」

 そして一生……過ぎゆく一年を感じることになるのだ、ズヴェイラはそんなことを思って部屋の中へと戻っていった。

 ホロン……

 そんなズヴェイラの美しさを讃えるかのように、しばらくしてまた庭のいずこからか、美しい歌声が聞こえてきた。


       朶朶精神あり 景景稠し

       雨晴れて香は払う酔人の頭

       石家の銀障依然として在り

       閖に狂風に倚り 夜 未だ収まらず




 歌声は、いつまでも庭に響き渡っていた。

 八月になった。

 空は抜けるように青く手を伸ばせば届いてしまいそうだ。山上にある汎胤はまるで空の上にある天空の城、切り立った崖や鋭く尖った岩々があちこちに牙を向けている。そんななか眩しい光に照らされた汎胤城のシルエットはわざわざ人がやってきて見るというだけの価値は確かにある。この日スキエルニエビツェは、城から少し歩いた崖の終着点へと、一人向かっていた。そこは切り立った崖で、下は雲でなにも見えない。既に雲すら眼下にあるほど高い場所にあるのだ。そしてそこの岩に腰掛けると、辺りは一面の雲海である。 歩けてしまいそうに広がりきらきらと光る雲。その広大で遠大な風景に呑み込まれ、スキエルニエビツェはすう……と息を吸った。

 蓬(表淡萌黄・裏濃萌黄)の衣装を纏った彼女の影だけが色を帯び、あとはすべて白。 こんな遠大な景色を目の前にすると、人間など自然のほんの一部を占める卑小な存在でしかないということを思い知らされる。スキエルニエビツェはしばらくしてからリュートをスッと構え、景色に目を細めてから静かに静かに弦を爪弾き始めた。

 ホロ……

 ポロン……



       尽日 雲を看て 首回らさず

       無心 都て道う 才無きに似たりと

       憐れむべし光彩 一片の玉

       万里青天 何れの処よりか来たる



 ポロン……

  ポロン……

 ロォ……ン……

 スキエルニエビツェはうっとりと瞳を閉じた。音が雲に反射してこちらに返ってくる。

 何度も途中で演奏をやめてその音に聞き惚れた。空気に触れ風に乗り、大いなる自然にぶつかって跳ね返った時それは、自然の手に触れた玉の音色として戻ってくる。

 ホロ……ン……

  ホロ……

   ン…………

 続いてスキエルニエビツェは瞳を閉じたまま別の弦を弾き始めた。



       人は皆 炎熱に苦しむも

       我は愛す夏日の長きを

       薫風 南より来たり

       殿閣 微涼を生ず

       一たび居を移す所と為り

       苦楽 永く相忘る

       願わくば言に此の施を均うし

   清陰 四方に分たんことを



 ホロ……

  ロォ……

   ンン…………

 溶け入る音に自分もまた溶け込むかのように、スキエルニエビツェはいつまでも瞳を閉じていた。

 ある日、それは遠征先からの事、とうとう耐えきれなくなったオルノスは、ズヴェイラに手紙を出した。

 それは、彼の切なる想いを切々と連ねた、熱くも悲しい恋の手紙だった。

 極秘の内にそれを受け取ったズヴェイラは封を開け、読んでいく内に困惑したようにわずかに眉を寄せた。今まで気付きもしなかった……これは現実なのだろうか? 普段冷静なズヴェイラがこの時ばかりは時間も忘れるほど当惑した。知らぬ間に三日が過ぎ、その間にオルノスは遠征から戻ってきていた。

 『貴女がいない時間が私にとってどれだけ虚しく空々しいものか……貴女を想うだけで胸が張り裂けんばかりに痛む。心が苦しく夢に見るは貴女のことばかり』

 『あの日から……私の中で時間が止まってしまっている。このまま空虚なままいつしかなくなってしまうのではないかと愚かな邪推すら―――……寒々しい心のなか貴女を愛しいと想う気持ちだけが熱い』

「……」

 翻弄されるほどの熱く強い想い……ズヴェイラはこの文字の一つ一つから滲み出るような熱意とたじろぐほどの愛を感じた。彼女は手紙を胸に押し当てた。少女のころのように胸がどきどきする。その胸から、焦るほどに熱いものが迸って溢れ出る。顔が熱い。

 これだけ直情な、熱い想いにかつて触れたことがあったであろうか。

 架空の物語ですら、かつての日々を歌う詩情でさえ。

「………………」

 ズヴェイラは信頼する侍女に密かにオルノスへの返事を届けさせ、その手紙には明後日の晩、中庭の蓮池のほとりで待つといったようなことが記されていた。

 月の青い光が降り注ぐ中、水面に映った月を見ながらズヴェイラは待った。

 彼女は経験したことのない想いが胸にあるのに気が付いていた。だからといって恋ではない、これはそんななまぬるいもので収まりきる感情ではなかった。

 今まで、こんなに当惑するほど愛されたことがあっただろうか。身もほだされそうな、鉄も溶けんばかりの、鬼夜叉の冷たき心すら溶かしてしまいそうな熱い熱い想い。女として人として、これだけの喜びが他にあろうか。ほのかな喜びにズヴェイラは全身を微かに震わせて静かにオルノスを待っていた。万人がこれだけ誰かに愛されるというわけではない、選ばれた愛を得たからこそこの喜びは大きい。

 カサ……

 人の気配がした。ズヴェイラが振り向くと静かな瞳でオルノスが立っていた。橘の枝を片手で遮り、恐ろしいほど真剣な瞳で自分を見ている。

「お待ちしておりました」

 ズヴェイラは静かに言い、何か言おうとするオルノスより先に、

「こちらへ……ここでは人目につきます」

 と先に立ち、庭先の自分の部屋へと案内した。窓の側の机の上には微かに橘の味のする冷水と、そして彼が戦場から託した手紙が置いてあった。

「…………」

「……私をお望みになった事が露見すれば、あなた様がどうなるか……わかりませんわよ」

「……それでもよい……私はかつてたった一瞬のために死ぬほどの後悔を味わった。 あの思いを二度とするよりはずっと……よい」

 ズヴェイラはそっと瞳を閉じ、一瞬後にそのすみれ色の宝石をオルノスに向けた。

「……では一度だけ……」

 月の光の下、さしのべあった二つの手が触れ合い、影が一つに重なった。

 影はもつれあいからまりあい…………そのまま闇に消えた。

  


       玉叙 花は紅く発き

       金塘 水は碧く流る

       相逢えば相失うを畏れ

       並びて著す採蓮の舟




 蓮の池のほとりでは、たった今やってきた楽師が、美しい歌声を誰に聞かせるともなく響かせている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る