第四章 生命賭す一瞬 4

 この日に振った雪は止むことを知らず、夜には吹雪となって三日間振り続けた。宮殿の吹き抜けの回廊は閉ざされ、専ら人々は地下を通って行き来した。やっと表に出られるようになってスキエルニエビツェが見たものは、一面の銀世界だった。

 久しぶりの積雪……・積もった雪だけが醸し出す独特の水の匂いと土の香り、スキエルニエビツェは胸一杯に空気を吸い込んで身体のなかの悪いものを取ろうとするかのように深呼吸を続けた。

「イオシス殿」

 振り向いてスキエルニエビツェは笑顔になった。

「まあお早ようございます」

 リュ・ヴァイス男爵だった。端正な顔立ちと優雅な物腰は仮の滞在客とはいえ侍女たちの人気も高い。

「やっとやみましたな」

「ええ」

「しかし雪というのはいつ見ても美しい……始末が大変だが」

 醒めたところのある男爵の言葉にスキエルニエビツェは思わず吹き出した。

「ふふふふ……あなたの故郷に雪は降りますかな?」

「ええ。四季の移ろいは特別豊かですわ」

「それは素晴らしいことだ。しかし本当に美しい……塩のような雪ですな」

「--------」

 スキエルニエビツェは一瞬鉛を呑み込んだような顔になり、それから青ざめたが、庭に魅入っている男爵には気付かれなかった。スキエルニエビツェは足元の雪に目をやった。 自分の立っている回廊から庭の一部が目の前に広がっている。確かに積もった雪は水気がありぎゅっとしまっていて、一見すると塩のようにかたまっている。

 手に取っても塊のままだろう。塩のような雪。適切な表現だ。塩のような雪。

「男爵は、もう汎胤にどれくらい滞在していらっしゃいますの?」

「そうですな……もう今年で三年になります。いい加減帰りたいものだが本国の命令ではね」

「千燐……お帰りになりたいと思いますか」

「それはね。最初は何もかもが珍しくて楽しいものだったが、そろそろ懐かしくなってきます」

「---------」

「それでは」

 会釈されて、スキエルニエビツェは深々と一礼した。この寒いのに汗が出ていた。

 聞いたことがある。情報が撹乱されているという噂。

 スキエルニエビツェの全身に冷たい汗が滝のように流れた。もし違ったら……いやしかし。それよりもこの自分の心中を悟られはしなかったか? もし悟られれば殺される。-----自分の予想が正しければ。スキエルニエビツェは逃げだすように男爵とは反対の方向に走った。そうでもしなければ彼に捕まってしまいそうで、恐ろしさのあまり走らずにはいられなかった。

 少し離れた廊下をオルノスとアリエイテスが並んで歩いている。

 オルノスはやっと包帯が取れ、まだ少し痛むが八分通り傷は回復した。元々大した傷ではなかったのだ。

「今年の収支予算だが」

「軍事で相当かさんでいるな……おっ」

 出会い頭にぶつかり、スキエルニエビツェは顔を上げた。ぶつかったオルノスもひどく驚いた顔をしている。

「君か……」

「どうした? 血相を変えて」

 スキエルニエビツェは二人の将軍を見上げた。息を切らせ、周囲に素早く視線を奔らせる。息切れを飲み込むように低く言った。

「-------お話が」

 オルノスとアリエイテスは、顔を見合わせた。



 それから二週間……。ある早朝、真っ白な鳩が汎胤の王城に到着した。その直後である、リュ・ヴァイス男爵他遊学生と称して訪国していた学者たちはいっせいに軍議室に呼び出された。学者たちはともかく、男爵はここ数日どの会議にも出ることを拒まれていたので少々機嫌が悪かった。

「いったいどういうことですかな」

 眉を寄せ、指を組んで男爵は言った。

「私は国賓で客員の相談役ですぞ」

「それは千燐のリュ・ヴァイス男爵です」

 アリエイテスが氷のような冷たい表情で言った。

「……なんですと……?」

 男爵の後ろに控えている学者たちが一瞬目を合わせた。

「あなたはリュ・ヴァイス男爵ではない」

「何を馬鹿な」

 吐き捨てるように言った男爵に、しかし今度はオルノスが見据えながら言い放った。

「今朝方千燐からの鳩が到着しました。鳥でも一週間かかるほど遠い国です、千燐は……それを承知で我々をまんまと欺いてくれた」

「千燐の宮廷はリュ・ヴァイス男爵などという者はおらぬ、遊学の話も聞いたことがないと往信してきました」

「---------」

 男爵の顔が-----いや、男爵と名乗っていた男の顔がサッと灰色に変わった。椅子の肘に置いていた両手の指が白くなるほど握り締められている。

「-----なぜだ」

 唸るように彼は言った。

「なぜわかった。完璧だったはずなのに……どこでぼろが出たのだ」

 アリエイテスとオルノスは目を合わせた。側にいた兵士が隣に続いている部屋の扉を開け、そこに誰かを招じ入れた。

 二つ色(表薄色・裏山吹色)の襲を纏ったスキエルニエビツェがそこにいた。微かに眉を寄せ、姿勢正しく立って真っすぐに彼を見ている。悔恨のような、こんなことはしたくなかったとでも言いたげな。

「貴女は……」

 男爵と名乗っていた男は半ば放心して立ち上がっていた。

『千燐はいいところです』

『いつかいらっしゃい』

 彼女はあの時、ただ笑ってそれに応えた。

 -------行ったことがあるのか!

「彼女の証言で明らかになりました。塩のような雪。千燐にも雪は降るがもっとさらさらとして今積もっているような雪ではなく、気候によって雪の状態の汎胤と異なる千燐の雪はいつもそうなのだそうです。そしてあのような雪の状態を塩のような、と比喩するのは世界広しといえどただ一国だけとか」

「楊渓の間者------この推測は間違っていない」

 アリエイテスが低い声で言い、男爵と名乗っていた男は、そのままがっくりと座り込んだ。

「連れていけ」

 一団が連行された後、将軍たちの視線はスキエルニエビツェに集中した。

「君のおかげで助かったよ」

 オルノスの皮切りに称賛の言葉があちこちから溢れる。

「しかし驚いた……千燐といえば我々からすれば地の果てともいえる国だ。おまけに楊渓にまで行ったことがあるとは。本当にあちこちを旅されておいでなのだな」

 誰かの言葉にスキエルニエビツェは照れたように笑った。

「しかし楊渓に滞在したのならあの男とも顔見知りのはず。どうしてお互い初対面だったのだ」

「楊渓には楽師として宮廷に滞在したのではなく、単に冬を越すために滞在していただけなのです」

「なるほど」

「とにかくこれで情報が撹乱される恐れもない。イオシス、助かった」

「いいえ」

 スキエルニエビツェはにっこりと微笑みを返し、引き際を心得て暇乞いをした。将軍たちはこれからまた軍議をせねばならない。そしてその内容の半分は、間違いなくこれからの楊渓との戦についてどうするかというものになろう。そもそもの相手の目的は何なのか、果たして戦はせねばならないだろうか。

 廊下を歩きながら、この国もなかなか悪くないと、スキエルニエビツェは思い始めていた。



 密偵が捕まったという報告は国王にも伝わり、翌日アリエイテスが赴いて正式にそれを申し立てた。

「そうか……それは何よりだ」

「本当にそう思います。それに……-------」

「? なんだね」

「…………」

「言ってみなさい」

「-------恐れながら……陛下の名誉にも関わる方にも嫌疑がかけられていたので正直ホッとしています」

「? ……なんのことだね……」

 アリエイテスは顔を上げた。

 国王は、本当に訳がわからないという顔で彼を見ていた。それはこちらに気を遣って知らないふりをしているという顔ではなく、本当に本当に、何も知らないという顔であった。

 いいえ、御存じないのなら、敢えて申し上げることはありません。お耳汚しですので。

 そう言った自分の声も遠かった気がする。

 退室し、廊下を歩きながらアリエイテスは絶望に近いものを感じて心が重くなっていた。

 -------なんということだ……国王はズヴェイラ殿に嫌疑がかかっていたことを御存じなかったのだ! あれだけ噂になっておきながら……。

 知らない、耳に届かなかった、そういうことでは済まされない。

 聞かないはずがないのだ、遠く離れた戦場から宮廷にまで噂が伝わったというのに、どうして国王の耳に届かない! それとも自分で認めたくなかったのか? いや、そこまで愚かな男ではないはずだ。

 アリエイテスは結論に至って思わず立ち止まった。

 --------関心がなかったのか

 愕然とした。絶望に近かった。耐え切れなくなってアリエイテスは回廊の柵に寄り掛かった。

 --------我々があれだけ頭を悩ませ辛酸を舐めさせられていた密偵……その噂も情報が撹乱されていることも、どうでもよかったのだ。自分の生活が侵害されなければ他人事か!

 怒りで掴んでいた柵がぎし、と鳴った。国王に対する怒り、そんな男を国王に仕立て上げた宮廷上層部への怒り、帝王学をしっかり仕込まなかった先代への、そしてそんな愚かな男に仕えねばならぬ、そんな男に忠誠を誓った、自分に対する怒り。

 大きく息を吐いてアリエイテスは空を見上げる。

 春の汎胤は美しい……この空の色は汎胤でしか見られない。 

 そしてアリエイテスはいつもこう思うことにしているのだ、

 嫌なことがあったとして、この空の大きさからすればなんと小さな悩みよ。

 そう思うと胸のつかえも、やり場のない憤りも、いつのまにかなくなってしまうのだ。 ふと回廊の向こう側を見ると、オルノスが自分から向かって左の回廊をじっと見ていた。 何を見ているのかと思ってそちらに目をやると、王妾ズヴェイラが侍女に付き添われてしずしずと歩いている。

「…………」

 オルノスの熱い瞳……アリエイテスは合点がいった。オルノスからすれば不覚なことだが、彼はいつのまにか背後にアリエイテスが立っているということも気が付かずに、ずっとズヴェイラを目で追っていた。そして彼女がいなくなってからため息をついて歩きだそうとして、初めてアリエイテスに気が付いたのである。将軍オルノスをそこまで無防備にさせる……それがズヴェイラという女なのだ。

「--------お前か。いつからいた」

「お前がため息をつくずっと前からだ」

 オルノスはふう、と息をついて見られたことを少し後悔しているようだった。

「やめておけ」

「--------」

「王の愛人だ。叶わぬ恋はしないのが利口というものだ」

「放っておいてくれ」

「いい歳をして何を考えている。女など……お前は軍人だろう」

「……お前にはわかるまい。多分一生な」

 オルノスはアリエイテスをそこに残して立ち去った。

 アリエイテスは腕を組んでその背中を見つめていたが、とうとう理解ができないとでも言いたげに、嘲笑するかのように、小さく鼻で笑った。

 オルノスの慕情は日に日に募っていった。胸が苦しく、心がどんよりと重い。一体どうすれば? どれだけ戦い、どれだけ敵を討ち敗ってもこの曇天のような灰色の心の重みは晴れぬ。どうすれば救われるのだ。どうすればこの想いは?

 春の空気に触れようとしてテラスに出たオルノスは、そこで庭のいずこからか聞こえてくるリュートの音を聞いた。

 ホロ……ン……

 ロォォ……ンンンン……



       春巷の夭桃 絳英を吐き

       春衣 初めて試む 薄羅の軽きを

       風和らぎ 煙暖かに燕巣成る

       小院の湘簾 閑にして巻かず

       曲房の朱戸 悶えて長く扁ざす

       人を悩ます 光景又た清明



「…………」

 今の自分になんとぴったりな歌なのだ。

 オルノスは美しくも悲しい歌声に心を任せて、いつまでも月を見上げていた。

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