第四章 生命賭す一瞬 3

 

 密偵の件が解明されないまま汎胤は正月を迎えた。アリエイテスの言葉どおり正月七日が明けてすぐに将軍たちは各地へ飛んで戦にいそしんだ。その頃からまことしやかに囁かれているひとつの『噂』、国王は知っているのかいないのか知っている素振りを少しも見せようとしない『噂』……。

 密偵は愛人のズヴェイラだ。

 これがその『噂』だった。それは存在そのものが一部の幹部にしか知られていないような大きく危険でそして公然とした秘密、誰もが知っているが決して口にしようとしない、すれば本当に現実になってしまいそうに恐ろしい――――― 『噂』だった。

 そう言われれば全ての辻褄が合うことは誰にも否めないことだった。何故なら彼女が汎胤に来た二年前から密偵の活動が活発になっているからだ。戦場の噂はいつしか宮廷にも流れスキエルニエビツェの耳にまで入るほどとなった。

 しかしそれを唯一真っ向から否定する者がいた。

 オルノスである。彼はそんな噂は髪の毛一筋たりとも信じていなかった。彼女がそんなことをするはずがない、彼女は心の澄んだ高潔な人、だからこそ慧燕を救出してもらった礼は何もできぬ、捧げるのはこの身ばかりと、ああして国王の愛人の座に収まっているのではないか。しかしそんなオルノスの秘めた熱い思いとは裏腹に、その噂は一度香炉から出ていった煙のように留まるところを知らず、掴もうとすればするりと抜けまた流れるようにゆらゆらと辺りを漂っていった。

 将軍たちの間でもその話はもちきりだった。オルノスだけが、苦い顔をして賛成も反対もせずに黙っていた。

「国王陛下はご存じなのか」

「当然だろう。戦場の噂が宮廷にまで及んでいると斥候から聞いた。陛下のお耳に届かぬはずがない」

「どう思っておられるかな……」

「……」

 将軍たちは沈黙した。

 国王はわかりにくい男である。こういうところもあるのかな、と思うとそれとは反対のことをする。これが好きだと言った次の日にはもう好みが変わる。風流を愛する心は人一倍だが、

「国王はこういう人だ」

 と決定付けるものはなにもない。掴み所のない、といってしまえばそれだけだが、側近や将軍たちがそれに付き合わされ、そのたびに疲れる思いをしていることも事実である。実がないのだ。  言葉のはっきりしていて誰に対しても怖じける事無く批判するアリエイテスは、

「陛下は気分屋なだけ」

 と言っている。無論そんなことを国王と面と向かっては言わないが、国王が言えと言ったら恐れずに言ってしまうのが彼の性分だ。

 そして一番困ったことは、国王がそういう言葉を受け入れたりそれで反省したりせず、怒って相手を死刑にしかねないということだ。

 相手がどれだけ優秀な軍人で、汎胤に欠かせない人間だとしても、そんなことはおかまいなしになってしまうのが頭の痛いところなのである。しかし気前がよく太っ腹でまた風雅な一面もあるので国王を好く人間は多い。結局、眉を顰めてしまう部分も多いがしかしまあ、ああいういいところもあるのだから、と許してしまう一番困った種類の人間、それが国王なのだ。

 しかしこれだけ噂が広まっているのだから、当然この事を国王は知っていよう。楽観主義で愉快なことでないものは目を逸らす国王が一体愛妾の密偵容疑をどう思い、どう反論するつもりなのだろうか。戦場にも関わらず将軍たちの関心は専らそちらの方に集中していた。

 この日アリエイテスとオルノスは同じ戦場で戦っていた。

 剣を振るいそのたびに血を浴び、断末魔の叫びが鼓膜を破らんばかりに響き渡る。叫び続けて喉は既に自分のものではないかのようだ。渇き渇いてまるで焼けつかんばかり、ひりひりとのどかな悲鳴を上げては血の匂いと硝煙の匂いを吸い込んでまた悲鳴を上げる。

「回り込め! 怯むな!」

 アリエイテスは先程から叫び続けていた。今回の戦は駆け出しの少年兵が多い。そのためかどうも戦闘が潤滑に進まない。

 おまけにやはり作戦の一部が漏れている。凄まじい形相となりながらアリエイテスは鬼神のように剣を振り回し続けた。

 そのすぐ近くでオルノスもまた必死に戦っていた。はっきりいってこれほど戦いで苦戦した記憶は今までにない。情報はどこまで漏れていて、そしてどれくらい漏れているのかすらわからない。返り血を浴びながら考えることは愛しい人の瞳……。

 ---------。

 硝煙の煙でどことなく煙る赤い空気……血の匂いと混じってむせかえりそうだ。飛び散る血飛沫と断末魔の声、空に降るいくつもの矢……。

 似たようなひどい光景を、オルノスは知っていた。いくつもの戦場を体験してはいてもこれだけの凄惨な戦場を体験したのは過去にただ一度だけ。

 それは慧燕……統治者もなく、零落した貴族たちだけの尽力でなんとかもっていた美しくも貧しい国-----……飛び散る返り血……

 -------彼女と出会ったのも

 ……こんな戦の日だった…………

 次々と鮮明に浮かび上がる。あの日々、あの衝撃的な出会いを。

 あの日、敵兵は街中はおろか住宅地にまで及んでいた。半ば義勇の目的で戦っていた汎胤の兵士の多くが、その悲惨な略奪に眉根を寄せていたが、それがまた懸命に戦う要素となったのか汎胤の勝利はほぼ確実であった。が、オルノスは気を緩めることなく住宅地まで馬を進め、そして彼女と出会った。大きな家の戸口に立ち必死になって地元の住民、兵に家を追われた人々を大声で呼び入れてはかくまっている。ああ、そんな声を出してしまっては、ほらまた兵士に気づかれて。若く美しく、女であるということが戦場においてどれだけ不幸で恐ろしい目に遭うということを、よくわかっていないかのように。

 オルノスは息を飲んで彼女に早く家のなかに入るよう忠告しようと馬を慌てて進めた。その時、案の定というかやはりというか彼女を目敏く見付けた兵士の一人が、抜き身のまま走り寄るのが彼の視界の隅に見えた。それは住民をかくまう彼女を見咎めたのかそれとも恰好の慰みの材料と見定めたのか、あるいは両方か、とにかくその兵士が彼女を襲おうとしているのはわかりきったことだった。オルノスは無駄とわかっていながら大きく怒鳴って制止し、そして馬上から彼女に手を伸ばそうとしていた兵士の喉を貫いた。

 彼女は-----ズヴェイラは、悲鳴を上げることも忘れてしまったのか、茫然と立ち尽くして彼を見上げていた。オルノスは血まみれの姿で馬から降り、そして彼女に言った。

『危険です。早く家のなかに』

『錠をしっかり降ろして。これだけしっかりした家なら大丈夫』

『それでも不安なら椅子でもなんでも扉の前に積み上げなさい』

『大丈夫、この辺りの兵士はすぐに一掃します』

 オルノスは馬をそこに置いたまま、近くにいた兵士二、三人に声をかけ住宅街で殺戮と略奪を繰り返す敵兵の排除に乗り出した。

 これが二人の出会いだった。

 あの時一目で貴女に恋をした

 自分の危機も顧みず人々をかくまい家に入れ続けた貴女……その高潔さ、その懐の深さ。

 貴女は容姿同様心もひどく美しい-------。

 オルノスの心があの当時に飛んだ。戦いながらしかし彼の目は虚ろだった。考え事をしながらオルノスは戦っていたのだ。正面から見ていた敵の数人がそれに気が付かないはずがなかった。

「オルノス! 何してる!」

 アリエイテスの怒鳴り声で彼が我に返った時には、オルノスの目の前で敵が剣を振り翳していた--------。



「オルノス将軍が負傷?」

 ズヴェイラは侍女の言葉で振り向いた。

「はい。幸い軽傷で済んだとか……」

「……珍しいですね、彼が戦で負傷とは……」

「はい」

 通常、一番時めいている愛妾とはいえ、一将軍の負傷に際していちいち侍女が報告することも、それで愛妾がなにかするということもない。が、オルノスはズヴェイラの故郷・慧燕を救ったいわば彼女にとっては恩人である。その恩人が負傷したという報せは、やはり受けておかなくてはならないものだ。

「……いいわ。何なりとお見舞いの品を」

「はい」

 ズヴェイラは侍女が出ていった後、窓辺に立って堅苦しい宮廷生活に少々うんざりしたかのようにそっと息をついた。



 桔七年となった。正月は寒く、空に近い山の上にある汎胤は、毎日顔が青く染まるほどに青い空の光に照らされ、ある日は雪、またある日は晴天を迎え、また一年平穏な年であれという願いと共に日日を過ごしている。

 この日は朝から曇り空で-----昼を過ぎて一層冷たく厳しい風が吹き、とうとう白い雪がちらりちらりと降り始めた。

 あの戦で肩を負傷したオルノスはまだとれない包帯を巻いたまま、私室の窓に歩み寄って淡く光りながら落ちてくる雪を見て物思いに耽っていた。戸口の側には見舞いの品がいくつか届いており、その中にはズヴェイラからの品もある。

 -----罪な女だ

 オルノスは苦々しい思いでそれらの品々から目を離した。

 ---------何も知らずに……こんなに私は貴女を愛しているというのに

 その無邪気さが……その何も知らない無邪気さが私を傷つける

「……」

 オルノスは窓から見える汎胤の街並……灰色の空の下の街を見ながらあの日、慧燕に遠征命令が下された時のことを思い出していた。

 その美しさで世界に名立たる慧燕……しかしまた統治者がいないが故の混乱や貧困も有名だった。毎年恒例のようにどこかしらの国が戦を、というより一方的な略奪だが、とにかく押し掛けてきては豊かな恵みのすべてを全て奪っていく。そのせいで本来豊かなはずの国が貧しいのも当然といえよう。そして常々そんな慧燕の状況を苦々しく思っていた汎胤がかの国の庇護を決意したのが三年前、そしてその翌年、オルノスが告知を受け汎胤で略奪を繰り広げる輩共を排除に乗り出した。それはまた他国への宣戦布告だったが、汎

胤は怖じけずにそれらの国々と条約を締結し、それでもわかってくれない国とは止むを得ず戦をした。今もその波紋は続いているが、毎年戦があることは変わりはないので苦痛に思ったことはない。その辺りの国王の政治手腕は大したものだが、何しろ彼は頼りになるときとそうでないときの落差が激しすぎる。しかも決まった波長でそうなるというのではなく、まったく気まぐれだというのだから頭が痛い。とにかくオルノスは冬も盛りという時に遠征に出向き、長い馬上の行軍の末慧燕に入国したのだ。

 あの時の驚き-------オルノスは、一生忘れられない、そう思っている。

 慧燕は、美しい国だった。

 冬なのに灰色を思わせるそれはなく、辺りの水田は空の限りなく白に近い水色を映しだして寒々と光り、背後の黒にも見えるほどの濃い緑で茂っていた。湖は神秘的で、それを取り巻く柳のなんともいえない優美さ。高台からその光景を目のあたりにした時、オルノスは思わず感嘆の声を発したことにすら気が付かなかっただろう。

 そして戦いが終わり-------彼は引き続き慧燕に残って本国と連絡を取りつつ救援活動に乗り出した。自分の軍を警備に配し、貴族たちとの話し合いで城壁を作り、食糧を全面援助し続けた。オルノスは将軍なので直接それらの作業に携わることはなく、年明けの二月には帰国できたが、これらの事業は昨年やっと終了し、一部はまだ続いている。

 オルノスはあの日のことを再び思い返していた-------運命のあの日。


「今回の事業の成功と慧燕の救援はオルノス将軍の尽力によるものが非常に大きい。そこでこの功績を讃え将軍には思いのままの褒美を与えようと思う」

 さわ……

 玉座の間が静かにさざめいた。褒美は思いのまま。それは気前のいい国王ですら初めて口にする言葉だった。よほどこの成功に気をよくしたと思える。とにかくオルノスはここで考える時間を与えられた。なんでも思いのままなのだ。

 -----あの人を。

 オルノスの脳裏にズヴェイラの姿がくっきりと映った。あのひとさえ側にいてくれれば何もいらない、将軍の地位も、宮廷の生活もいらぬ。ほしいのは唯一つ、あの人の心。あの人との生活。 

 そう言うのだ。

 全身のありとあらゆる細胞が彼にそう働きかけた。早く言えさあ言え言え言え言え言うのだ。あの人が欲しいと。

 何を抵抗している? 夜も眠れぬほど心を鬱々とさせ冬の空のようなどんよりとした気分があの日から続いているのだろう。望むのだ彼女を。愛してしまった彼女を!

 しかしオルノスは------言わなかった。

「恐れながら……今の生活以外に特別望むものはありません」

 ザワ……

 今度は大きなざわめきが玉座の間を包み込んだ。国王も身を乗り出し、驚きに目を見開いて尋ねた。

「オルノス、本気かね。遠慮はいらぬのだぞ」

 しかしオルノスは頭を下げたまま、膝まづいたまま……低いがしっかりとした声で言い放った。

「なにもございません」

 そして彼は慧燕の領地の実に三分の二を手に入れた―――。

 何も与えないのではこちらの気が済まないと国王が考えたものである。

 そして慧燕の貴族たちが挨拶にやってきた時にスヴェイラは国王に見初められ……今日に到る。

 しかしこの時人々の口に囁かれた言葉は、慧燕を与えたというのならそこにいた美女も当然将軍に与えるべきだ、彼が何もいらないというのにかこつけて、あれではまるで横取りだ、国王のすることは中途半端でずるい、というものだった。

 オルノスは瞳を閉じた。

「--------」

 彼女が笑っている姿が映る。あの日以来、自分の胸はどんよりと重く垂れ篭めた雲が支配し、沼にでもはまってしまったかのようなだるさだ。心が晴れない。

 ちらちらと降る雪-------この空よりも曇った私の心。どろどろと重くそれでいて恋の甘さと苦さに翻弄される。

 ああ心が苦しい-----……これほどまでに誰かを愛するとは。夜中に突然目が覚める。何となく目が冴えて窓から空を見やると、切なくて切なくて我ながら情けないが涙が出てくるのだ。苦しい。鉛を呑み込んだかのように喉と胸が苦しいのだ。息も満足にできないほどに。身体が痺れ、この身すべてを目茶苦茶にしたくなる。身を引き裂き、すべてのものを壊したくなるほどに愛している!

 コツ……

 オルノスは爪の先で窓をそっと叩いた。切れてしまいそうな鋭く冷たい空気が窓の外からぴりぴりと感じられる。私の心はこの空気よりも寒い……。

 灰色の空、灰色の街。どこかの煙突から出た煙がなんとなく霞がかった風景をつくりあげ、行き交う人の息は皆白い。

 --------自分はあの時、選択を誤った

 一言……彼女が欲しいといえばそれでよかったのに

 自分は何も……----……何も言えなかった

 言えばよかったのに  

 ……何故言わなかったのか

 逃がしてしまった一瞬 あの一瞬

 何かを失ってしまったあの一瞬に

 --------自分はすべてを失った…………


 オルノスはいつまでもそこに立ち尽くしていた。





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